20.花婿の様子がおかしいようです

 しっかりしなければ。

 聖壇の前で司祭兼第一守備隊長のヘンドリックが聖典の一節を読み上げるのを聞き流しながら、イグナーツは反省していた。


(花嫁姿に見とれるなんて……失礼だろう。彼女は普段から可愛らしいのに)


 チラリと、隣に立つアリーセを横目に見る。

 彼女は緊張した面持ちで、熱心にヘンドリックの声に耳を傾けている。

 貴族令嬢らしく信仰心が備わっており、神に誓うことの重要性を理解しているのだろう。聖剣を継承したときから神を恨みつづけてきた自分とは大違いだ。


「また見とれてるし」


 自称聖剣の精霊レンの声が斜め後ろあたりの虚空から聞こえてくる。

 イグナーツ以外には姿が見えないからといって、ずうずうしくも結構近くで見物しているようだ。


(黙れ、レン。気が散るだろうが)


 五年前に鮮烈な印象を残し、以来ずっとイグナーツが心のよりどころとしてきた女性の花嫁衣装姿だ。見とれるなと言う方が無理な話だ。

 エトガルが言うには、いまは女性の美しさを讃えるとき、妖精や花や宝石の化身にたとえるのが流行だという。

 自分ならアリーセを何にたとえるだろう。深紅の髪から連想するなら薔薇の化身か、あるいは花嫁衣装にちなんで真珠の化身か。どちらも違う気がした。


(やはりこれだな――人魚姫)


 ボーグ湖に棲まうという伝説の人魚三姉妹。

 出会った場所であることもあって、イグナーツはいつもアリーセを思うとき、陽光を受けてきらめく湖を連想する。

 しかしその輝くような記憶が、最近は別のイメージに追いやられるようになってきた。


 一年後に死ぬような男の妻になれるのか、イグナーツがそう訊ねたとき、アリーセは「はい」と答えた、その後だ。毅然とした態度を保ちながらも、ポロリと涙をこぼしてしまったときの顔が忘れられない。

 驚いたが、自分のために泣いてくれたのは純粋に嬉しかった。

 あと一年で人柱にならなければならない無念、悔しさ、憤り。そういったものを表に出さなくなって、どれほど経ったかわからない。苛立っても悲しんでも意味がないことがわかってからは、無駄なことに労力を使うのをやめたのだ。

 しかしだからといって、納得して受け入れたわけではない。


 彼女が「アリーセ」でなければよかったのに。

 クラーラの代わりに送られてきただけの、同じ家門の見知らぬ娘ならばここまで複雑な気持ちにならなかっただろう。みずからの手で不幸にしてしまうことが確定したいま、罪悪感で胸が痛む。

 だがその一方で、奇妙な高揚感も感じていることにイグナーツは気づいてしまった。

 この美しい花嫁を自分のものにできる喜び、優越感、そして――独占欲。


(やめろ。そんなあさましい考えは捨てるべきだ)

 決して幸せにできないくせに、なんて最悪な夫だろう。


「――それでは、あらためて神の御前で二人の決意をうかがいましょう」

 ヘンドリックによる聖典の読み上げが終わり、式が誓約の流れに入った。


「イグナーツ・ベンノ・ヒルヴィス。あなたはここにいるアリーセ・ヴェルマーを、悲しみの深いときも喜びにみちたときも変わることなく、愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」

「誓います」


 イグナーツは感情を殺して答える。

 ヘンドリックが誓いの言葉から「その命あるかぎり」という節を省いたのがわかった。彼はイグナーツの死期が近づいていることを知る数少ないうちの一人だ。


「アリーセ・ヴェルマー。あなたはここにいるイグナーツ・ベンノ・ヒルヴィスを、悲しみの深いときも喜びにみちたときも変わることなく、愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」

「誓いますわ」


 アリーセも迷わず答える。

 もうすっかり気持ちを切り換えたらしい。やはり強い女性だ。彼女ならば、イグナーツ亡き後に待ち構えているであろう苦難も乗り越えられるかもしれない。


「いま、二人の決意が神に届けられました。それでは、誓いのキスを」


 イグナーツはアリーセと向かい合った。

 また緊張した様子の彼女へ手を伸ばし、ヴェールをめくる。

 慌てたようにアリーセが両目を閉じた。頬は薄くおしろいをしてもわかるほど色づいており、紅を引いた唇は蜜も塗ってあるのか魅惑的に艶めいていた。


(彼女と唇を重ねるのは二度目だな)


 もっとも一度目は人工呼吸だったから、唇の感触などまったく記憶にない。

 おとがいにそっと手を添え、身長差のぶんだけ身を屈める。

 花の香りに導かれる蜜蜂のように、イグナーツはふっくらとした唇に吸い寄せられる錯覚をおぼえながら、顔を近づけて唇を重ねた。

 思わず感情が乱される。

 なんとも言えないやわらかさと甘やかさにイグナーツは夢中になった。無意識にアリーセの腰を抱き寄せ、より深く唇を密着させたとき、


「――あー、イグナーツ」

 棒読みのセリフのような幼い声が割って入ってきた。


「あんまり邪魔はしたくはないけどさ、ちょーっと長いんじゃない? 誓いのキスって触れるだけでいいものだし。エトガルも引いてるし」


 レンの声でハッとして、身を離す。

 目の前でアリーセが驚いた顔を真っ赤にしてこちらを見上げている。

 きれいに塗られていた薔薇色の紅が乱れているところを見るに、自分がどんなキスをしていたのかを否応なく自覚させられ、イグナーツの顔が熱くなった。


「し、失礼しました! どのくらいすればいいのかわからず……」

「いえ……」


 アリーセはそう言いつつ、背を向けてしまう。

 気分を害してしまったかと一瞬焦ったが、すぐに侍女が駆け寄ってきて顔のあたりに手を伸ばしているところを見るに、乱れた化粧を直してもらっているようだった。


「コホン」

 咳払いに振り向くと、顔にハンカチが押しつけられた。

 エトガルだ。なんのためのハンカチかは、彼の冷ややかな眼差しで理解できた。

 イグナーツは急いで口元についているらしいアリーセの口紅を拭う。

 そうしている間にもレンは空中から半眼を向けてくるし、ヘンドリックはニヤニヤと品のない笑みを浮かべてこちらを眺めている。


(あいつら……)


 二人ともこの場から追い出してやりたかったが、少なくともヘンドリックは司祭なのでまだ必要だ。ぐっと耐えて、エトガルにハンカチを押しつける。


「つ、次は署名だったな。ヘンドリック、早く結婚証明書を出せ」

「はいはい。仰せのままに、王子様」


 くくくっ、と大きな肩を揺らして笑いながら、ヘンドリックは聖壇の上に未記名の結婚証明書を広げ、羽ペンを差し出してきた。

 それを受け取って、夫の署名欄に自分の名前を書く。筆跡が少し乱れてしまったのは、大目に見てもらいたかった。

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