21.初めての夜と書きまして

 寝室に運び込んだ移動式の浴槽に全身でひたり、侍女のミアに髪を手入れしてもらいながらアリーセはぼんやりと窓を眺めていた。

 外はとうに夜の帳が下りていた。結婚証明書を託した伝書鷹は既に教会庁へ向けて飛び立っている。


(私、ついに結婚したのよね……)


 そのわりには実感が湧かなかった。

 簡易的な結婚式だったのもあってあまり疲れなかったからだろうか。王都で王族が挙げるような華々しい婚礼式典だったら、いまの何倍も疲れる代わりに実感もできたかもしれない。それを望んでいるかどうかは別としてだが。

 アリーセとしては、イグナーツと結婚できただけでこの上なく嬉しい。

 たとえ、短い結婚期間になることが決まっていたとしても。


「お嬢様、そろそろ上がらないと湯冷めしてしまいますよ」


 ミアの声でハッと我に返る。髪を洗い、椿油を塗り込む手つきが気持ちよくて、知らず知らずのうちに居眠りをしていたらしい。

 浴槽から上がり、体をよく拭いて下着を身につけ、夜着をまとう。

 淡い水色の絹のナイトドレスで、丈はドレスと違ってくるぶしくらいまでしかない。さらりとしていてとても着心地が良く、そして薄っぺらかった。

 体型がはっきり出てしまいそうで恥ずかしいが、侍女は絶対にこれがいいと言って譲らなかった。

 長椅子に腰を下ろすと、ミアがパタパタとタオルで髪を拭いてくれる。


「本当にご結婚おめでとうございます」

「……ありがと」

「ミアは本当に嬉しくて嬉しくて……」


 イグナーツとの結婚が決まった日から、侍女はもうずっとこの調子だ。

 お祝いの言葉も喜びも何度となく聞かされている。気持ちは嬉しいが、ミアに伝えていないことがあるのでアリーセとしては複雑だ。

 イグナーツの余命があと一年程度であることは、ミアには話していない。

 繊細な話題であり、侍女の口から他の人へ話が伝わるのを避けるためだが、何より彼女がアリーセに同情して落ち込みそうな気がするからだ。


(こんなに喜んでくれているんだもの。水を差したくないわ)


 そんなアリーセの思いなど知ってか知らずか、ミアは髪を拭き終えると浴槽を押して運び出した。そして戻ってくるなり、ウキウキした様子で取っ手付きの薬箱を持ち出してくる。嫌な予感しかいなかった。


「さてお嬢様、どれになさいますか? 惚れ薬、眠り薬、強壮薬、なんでも取りそろえてございますよ!」

「王子様に何を盛るつもりなのよ……やめなさい。ダメ、却下」


 ゴルヴァーナ城砦へ入る際に持ち物検査がなくて本当によかった。荷物をあらためられていたら、いまごろこの侍女は不審者として投獄されていたかもしれない。


「そうですかあ。せっかくお役に立てると思いましたのに、残念です」


 ミアは心底残念そうだった。

 ちょうど薬箱の蓋を閉じたとき、隣室の扉がノックされた。ミアが確認のために出ていき、すぐに戻ってくる。目がキラキラと輝いていた。


「殿下がいらっしゃいました」

「……わかったわ」

 アリーセの全身に緊張が走り、湯あたりとは別の理由で頬が火照る。


「では、ミアはこれで退散しますね!」

 スキップでもしそうな勢いで、使用人用の扉から引っ込んだ。誰よりも浮かれた様子の侍女にアリーセは苦笑も出ない。


(ミアには悪いけれど、殿下はたぶん……)


 それ以上は考えないようにして、アリーセは隣室へ移動して扉を開けた。

 絹の開襟シャツと脚衣という、夜着姿のイグナーツが部屋に入ってくる。

 なんとなく、湯殿ゆどので出くわした日の夜のことを思い出した。あのときも風呂上がりだったが、根本的に違うのは二人とも寝間着姿で、これからともに夜を過ごすこと。

 イグナーツはアリーセの姿を見てハッと目をみはった後、横へ視線を逃がした。目のやり場に困ったらしい。

 アリーセは羞恥に耳まで熱くなったが、他ならぬイグナーツの照れた姿が可愛くて、内心でこっそり侍女の見立てを褒めたたえる。


「少し早かったでしょうか」

「そんなことはありませんわ。どうぞおかけになってください。何か飲みますか?」


 執事長は二人で飲むための葡萄酒と、つまみのチーズと果物を用意してくれた。すべてテーブルに並べてあるが手つかずだ。イグナーツは首を横に振った。


「そういう気分ではありません」

「ですよね。夕食もしっかりいただきましたし」


 アリーセは苦笑して同意した。これが本格的な結婚式だったらこうはいかなかっただろう。花嫁も花婿も忙しくて食事をとる時間がなく、夜になってようやく部屋に用意された軽食でやっと空腹を満たせるのだ。

 イグナーツは長椅子に近づくと、そこに座るのではなく仰向けに寝転んだ。肘置きの上へ長い両足を投げ出すようにしてから頭の後ろで腕を組む。


「俺はここで寝ますから、あなたは寝台をお使いください」


 アリーセは驚かなかった。

 なんとなく、彼ならそう言い出しそうな気がしていた。


(ご自分の命があと一年だと知りながら、子作りなさるような方ではないものね)


 イグナーツは王笏おうしゃくの王子である異母兄が子孫を残すべきだと本気で考えている。第一王子が不妊ぎみであろうと、焦った国王がどれだけ第二王子に子を成すよう望んでいようと、彼の意志は固い。

 イグナーツは成長を見届けられもしない子を望まないし、子を産んだ後の妃が王族からどのような扱いを受けるか、想像できない人ではない。アリーセが苦労することになるとわかっていながら、手を出しはしないだろう。

 それでも、アリーセは言わねばならなかった。


「殿下……せめて一緒に寝台を使ってくださいませんか? 私に触れる気がないことは承知しておりますが、夫婦が初夜で寝床をともにしなければ仲を疑われます。私の……妻としての立場も悪くなります」


 使用人たちがアリーセとイグナーツの結婚を知らされているかはわからないが、いずれは知るところとなるだろう。そのときに一度も同衾どうきんしていないと噂され、夫に愛されていないと思われれば、夫人は軽んじられることもある。


「あなたに無礼な真似をする者がいたら、即刻処罰します」

 イグナーツは厳しい顔で断言しつつも、しぶしぶ起き上がった。


「……ですが、一理ありますね。あなたに不快な思いをさせたくはありませんし、わかりました。まいりましょう」


 席を立ち、紳士的に手を差し出してくる。

 ふだんから飾らない態度の彼だが、こういうときの所作はとても洗練されている。

 おとぎ話から飛び出してきたかのような王子様の手を、アリーセはひそかに胸を高鳴らせながら取る。

 そうしてうやうやしく寝室へ導かれる。扉を開ける音、閉める音、そして自分の心音、そのすべてがやけに大きく聞こえる。自分はよほど緊張しているらしい。


(同衾するだけだってわかっているのに、馬鹿ね。殿下の意志は固いし、万が一の事態なんて起こるはずもないのに……)


 一瞬、脳裏に誓いのキスの感触が蘇る。

 まるで自制心をなくしたかのように、情熱的な口づけだった。

 アリーセはうっとりしつつもどこで息継ぎしたらいいかわからず、酸欠で頭がクラクラしてしまった。水泳が得意で息を止めることに慣れていなかったら卒倒していたかもしれない。

 誓いのキスだったし、人前であんな口づけをされるとは思わなかった。愛されていると錯覚してしまいそうな――


(何を思い出しているのよ。はしたないわ……)


 ぶんぶんとかぶりを振ってよからぬ思考を追い払っていると、寝台がギシリときしむ音が聞こえた。

 ちょうどイグナーツが枕にぽすんと頭を置き、広々としたマットの上に全身を投げ出したところだった。彼の方はまったく緊張していないらしく、体の力を抜いてゆったりとしている。そんな姿すら優美なのだから、神様は不公平だ。


(私だけ緊張しているなんてちょっと悔しいけれど……しかたないわよね。恋した人と初めての同衾なんだもの)


 自分にそう言い訳しながら、アリーセもそっと寝台に上がる。

 緊張で震える手を強く握りしめて抑えつけ、ごろんと仰向けに寝転ぶ。そうして枕に頭を載せ、ドギマギしながらイグナーツの方へ声をかけた。


「お、お隣、失礼しますね」

「…………」


 返事はない。緊張がバレてあきれられただろうか。


「そ、そういえば結婚式が終わったら使用人の管理を任せていただけるという話――」


 枕の上で頭を動かして隣を見る。そこで気がついた。

 イグナーツが気持ちよさそうに寝息を立てていることに。

 横になってからまだ一分も経ってなさそうなのだが。


「……さすがに寝つきよすぎませんか?」



***



「ごめんね、アリーセ嬢。イグナーツは五秒で眠れる子だから……」


 二人の様子を虚空から眺めていたレンは、背中の翼をパタパタさせながら頭を下げた。もちろん彼女に自分の姿が見えないことはわかっている。


(まあ、イグナーツが僕を追い出さなかった時点で、何もする気がないことはわかっていたけれど……)


 ほんの少しでも手を出してしまう可能性があったら、間違いなく出入りを禁じられていたはずだ。誓いのキスでやらかしたことをイグナーツは引きずっている。二度と同じ過ちは起こさないだろう。

 女性の寝姿を見るのは作法に反する。そろそろ退散しようとしたとき、ギシ、と寝台から音がしてきた。

 振り向くと、アリーセが寝台の上に座り込んでイグナーツをのぞきこんでいる。

 おや、とレンは動きを止めた。


「で、殿下。おやすみのキスがまだですわよ……なんて」


 冗談めいていながら、緊張で硬くなった声が新妻の口から漏れる。

 誰が見ているわけでもないのに――レンは見ているが――精いっぱい気丈に振る舞おうとしている姿がいじらしい。

 しばしの間。ややあって、アリーセが何かを決意したようにこくりと生唾を呑み込んだ。ゆっくりと体を傾け、イグナーツの顔にみずからのそれを近づけていった。


(えっ、これ僕が見ていいやつ? ダメなやつ?)


 絶対にダメな方だ。

 だがレンは両手で顔を覆いながらも、指の隙間からちゃっかりのぞき見ていた。

 唇と唇が触れ合いそうになったところで、動きが止まる。

 そして、アリーセは姿勢を戻した。はあ、と漏れたため息で断念したのがわかった。


「さすがにこれは、やってはダメよね……」

(僕は別にいいと思うけど……てかこれって、えー、そういうこと?)


 心臓もないのにドキドキしながら見守っていると、アリーセはおもむろにイグナーツの腕を広げ、そこに頭を載せて寝転がった。勝手に腕枕状態にしてから、


「今日のところはこのくらいにして差し上げますわ」


 そう宣言してイグナーツにピタリと体を寄せ、目を閉じる。恥じらいながらもご満悦といった様子の笑みに、レンは確信した。


(……イグナーツ、よかったね)


 しんみりとした気持ちになって目元を拭う。もちろん実体がないので涙なんて出ないが、気持ちの問題だ。

 これ以上は本当に見ないでおこう。そう決意し、レンは壁を抜けて夜の散歩に繰り出したのだった。

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