22.花嫁は決意しました
翌朝、目を覚ましたアリーセは一瞬硬直した。
目の前に、呼気が感じられるほど近くにあまりにも美しいかんばせがある。
それが昨日夫となったばかりの男、イグナーツの寝顔だと理解したとたん、アリーセの中に大混乱が訪れた。
(きゃああああああああ!)
絶叫を脳内にとどめられた自分を褒めたいくらいだった。声に出していたら、間違いなく彼は目を覚ましていただろう。
銀の髪と同じ色の眉は力が抜けて優しい弧を描いており、閉じた両目を縁取る睫毛は長く、彼の顔立ちがとても繊細であることを再認識させられる。あどけなさの残る寝顔も相まって、左眼の下の傷跡から悪童っぽさを感じられて微笑ましい。
そして何より――イグナーツはアリーセを抱きしめて眠っていた。
それほど強い力で触れられているわけでもないのに、彼のたくましい腕と熱を強く感じてしまう。心臓の拍動がどくどくと速まり、寝起きの体があっという間に火照るのをアリーセは感じた。
(どうしてこんな状況に!?……あ、私のせいだった……)
昨夜、数秒で寝入ったイグナーツに腹を立て、彼の腕を借りて勝手に枕にして寝たのだった。つまりこの体勢になったのは半分以上、自分の行いに責任がある。
なんだか申し訳ないという気持ちと、でももう少しだけこの格好のままでいたいという願望がせめぎ合う。
(どんな夢を見ていらっしゃるのかしら)
薄い唇はかすかに上弦を描いていて、微笑んでいるように見える。
夢の中でも誰かを抱きしめているのだろうか。昔の恋人か、それともいま抱きしめているのがアリーセだと認識しているのだろうか。
湯殿で出会ったとき、イグナーツがつぶやいていたことはのぼせていたせいでよくおぼえていない。だが、少なくとも彼はアリーセを認識していたように思う。
(疲れすぎて夢を見ていらっしゃるようだった……それでああいうことをなさったということはつまり、私をその、そういう対象にできるということよね……?)
とはいえ現状はただの抱き枕だ。
(構いません。私、つつしんで殿下の抱き枕になりますわ)
絶対に起こすまいとじっとしていると、薄い唇から気だるげな声が漏れた。
「うるさいぞレン……」
銀の眉が煩わしげにひそめられる。
レンというのは兵士か使用人の誰かだろうかと思っていると、銀の睫毛に縁取られた瞼がうっすらと開き、深い蒼色の双眸がのぞいた。うつろな眼差しがやがて焦点を取り戻し、ぎょっとしたように見開かれる。気まずい。
「お、おはようございます、殿下……」
とたんにイグナーツが飛び起きた。
さきほどまで抱きしめてくれていた感覚がなくなってしまい、やっぱりこうなってしまうのね、とアリーセはさびしい気持ちになる。
「……おはようございます……その、失礼しました」
昨日から彼は失礼しましたと言ってばかりだ。
アリーセはのそのそと起き上がると、寝台に座って夫に笑かけた。
「まったく失礼ではありませんわ。夫婦なのですからお気になさらず。私の体はご自由にしてくださって構いません」
「じゆ……コホン」
イグナーツは絶句しかけて、咳払いをした。
「そういうわけにはいきません。あなたのことは必ず清い体で帰します。その方が再婚相手の幅が広がるでしょうし」
「……再婚?」
アリーセは眉をひそめた。
(この人は……結婚式の翌日に妻の再婚を心配してらっしゃるなんて)
甘い気分が一気に吹き飛んでしまった。
一年後に死ぬと告げられたときは、あと一年しかないのかと思って泣いたものだが、いまのアリーセは違う。まだ一年あるのだ。再婚活動を行うには早すぎる。
「そのようなご配慮は無用です」
夫と向かい合って背筋を伸ばし、きっぱりと告げる。
「私はあなたとの婚姻期間を人生でもっとも幸せな時間にしたいと考えております。それは殿下にとっても同じですわ。殿下がご自分の人生を振り返ったとき、私と結婚していたときが人生でもっとも幸せだったと思っていただきたいのです」
これだけで、アリーセが既に気持ちを切り換えていることは伝わっただろう。
イグナーツは困ったような、それでいて感心したような苦笑をこぼす。
「……強いんですね。あなたは妹の身代わりにしかたなく嫁いできただけなのに」
「そこにも、誤解があるようですわ」
アリーセは苦笑を浮かべた。
いつまでも誤解されたままでいたくはない。そろそろ自分の気持ちを正直に伝えてもいい頃合いではないかと思えた。
かたちだけであったとしても、この人の妻になったのだから。
「正直に申しますと、妹の代わりにしかたなく輿入れしたのは事実ですわ。私の要求をお父様に飲ませることもできたので、その対価として引き受けただけでした。でもいまは違います」
心臓が早鐘を打ちつづけているせいで呼吸が苦しくなり、アリーセはここで息をつく。
呼吸と気持ちを整えてから、はっきりと告げた。
「いまはもう――殿下を、好きになってしまいましたので」
正面からまっすぐにイグナーツを見つめ、毅然と微笑んでみせる。
うぶな恋心が、妻の覚悟が正しく伝わるように。
(私を残して逝くことに、罪悪感を抱かないでください)
先日は見苦しいところを見せてしまった。だがもう乗り越えた。
いまはイグナーツの妻として添い遂げ、叶うならば彼の短い人生を幸せなものだけで埋め尽くしたい。
イグナーツは毒気を抜かれたような顔でぽかんとアリーセを眺めている。
アリーセの告白がよほど意外だったようだ。
その見目の良さならば数々の女性に言い寄られてきただろうし、実際に色目を使ってきたメイドを何人もふったという噂を聞くのに。それなのになぜアリーセに好かれているとは思わなかったのだろう。
「……好き、とおっしゃいましたか」
なぜか神妙そうに確認される。アリーセは力強くうなずいてみせた。
「ええ、申しましたわ」
「あ……あなたが、俺を……?」
「はい。大好きです」
もう一度にっこりと笑顔で告げると、イグナーツはぴしりと固まった。
ややあって、
「だいす……えっ? だいす…………ええっ?」
イグナーツはその言葉を口にしようとするだけで違和感をおぼえるらしく、そのつど確認をしようとしては引っかかっているようだった。
さらに両手で顔を覆って前かがみにうつむき、何らかの感情をこらえるように広い肩を震わせはじめる。
かと思いきや、虚空の何かを追い払うように片方の腕をバタバタと振りはじめる。
なんだろう、この反応は。さすがに少し不安になった。
「あの、殿下? 大丈夫ですか……?」
肩を掴んで揺さぶるのは不敬なので、声をかけて見守ることしかできない。
なお、彼が寝ている間に腕を借りて腕枕にしたことについては、おやすみの挨拶もなしに先に寝られたことへの腹いせなので勝手に不問としている。
イグナーツは寝台にあぐらをかいたまま、くるりと背を向けてしまった。それから何を思い立ったのか、みずからの両頬を両手で挟むように打つ。パァン、と思ったよりも派手な音がしたのでアリーセは思わずびくりと肩を震わせてしまった。
「殿下……?」
「――大丈夫です。不要な感情は殺しましたので」
なんだか物騒な言葉を残し、イグナーツが振り返った。
両頬が手のかたちに赤くなっているのが少し心配だが、彼が思いのほか真摯な眼差しを向けてきたのでアリーセは何も言えなかった。
「あなたの気持ちは素直に嬉しいです。ですが」
それだけで、アリーセは続く返事がよくないものであると悟った。
「申し訳ありませんが、俺はあなたの気持ちには応えられません。あなたを愛することはないですし、これからも……これからは、あなたに指一本触れるつもりはありません……ここではどうか、一年を無事に過ごすことだけを考えて暮らしてください。ああ、ですが心配しないでください。あなたが俺と死別後も悪くない暮らしができるよう、こちらも手を尽くしますので」
「殿下、その話は……!」
「話は以上です」
それでは、と口早に言うと、イグナーツは寝台を下りてさっさと部屋を出ていってしまった。まるでそれ以上の話はしたくないと、背中が拒んでいるように見えた。
後で扉が閉まる音がむなしく響いてきて、アリーセはようやく息がつけた。
(ふられちゃった……でも不思議、あんまりショックでもないわ)
なんなら、苦笑まで浮かんでしまう。
こうなることは予想できていた。彼のような人が、自分なんかを愛してくれるはずがないのだから。
アリーセとしては気持ちを伝えられただけでじゅうぶんだ。伝えないまま別れのときを迎えていたら、何十倍もつらかっただろう。少なくともこれで後悔はない。
(つらくないわけでもないけれど……慣れるわ、きっと)
胸に手を当て、その奥にくすぶるように残った痛みを噛みしめていると、イグナーツの退室を察したミアが朝の支度のためにやってきた。
アリーセの顔を見て何か気づいたように、笑顔を輝かせる。
「おはようございます、お嬢様。すっきりしたお顔をされていますね」
「おはよう。期待させて悪いけれど、殿下にふられちゃった」
「なんですってぇ!?」
一瞬にしてミアの眉がつり上がった。
「お嬢様のような素敵な女性をふるだなんて! 殿下は案外見る目がありませんね!」
「いいのよ、すっきりしたのは確かだから。というわけで、一緒に作戦を考えてくれる?」
「作戦、でございますか?」
きょとんとする侍女に、アリーセはいたずらっぽく笑いかける。
「もちろん、殿下を幸せにする作戦よ」
たとえふられても、愛されなくても、幸せにすることはできるはずだ。
二言はない。
本人に面と向かって幸せにすると宣言したからには、必ずやり遂げてみせる。新婚生活はまだはじまったばかりなのだから。
『愛されたい……くせに……』
どこかから聞こえてきた魔物の声は、聞こえなかったことにした。
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