13.奈落は危険がいっぱいです(1)

 その後、アリーセは大急ぎで窓から部屋を脱出することになった。

 若き城主のスキャンダル相手を一目見ようと、兵士たちが空き部屋に乗り込んできそうな気配を察したためだ。一階なので窓枠をまたいで外へ降りるのもさほど難しくはなかったが、気分は敵地へ侵入したところを見つかった間者だ。


 イグナーツの指示どおりに建物をぐるりと迂回し、植木が目隠しになっているところで待機する。ここでイグナーツと落ち合うことになっている。彼は空き部屋を扉から出たので、兵士たちを撒くのに少し時間がかかるかもしれない。

 休憩所代わりになっているところらしく、大きな丸太を削っただけの簡単なベンチも置かれていた。アリーセは表面の砂埃をさっと払ってから腰を下ろす。

 そうしてぼんやりと大型兵器の並ぶ《奈落》の淵の方を眺めていると、不意に目の前を小さな人影が横切っていった。


(――え?)


 アリーセは思わず振り向いた。

 城砦の石壁に沿って、真っ赤な髪の少女が走り去っていくのが見える。十歳か、それに満たないくらいの年頃だろうか。くるぶしの見える丈の青いワンピースは上等なもので、一目で貴族か裕福な家の娘だということがわかる。


(どうして、子どもがこんなところに?)


 見たところ、誰も彼女のことを気にかけていない。

 何度も転びそうになる危なっかしい走り方が気になって、アリーセは少女を追いかけることにした。目を離してはいけない気がした。


「あなた……お嬢ちゃん、待って! 危ないわ――」


 少女はこちらの声が聞こえているのかいないのか、振り向くどころか反応もしない。やがて小柄な体が石壁の途切れたところで消えた。曲がったのだ。

 アリーセも慌ててその後を追った。石壁の終わりで曲がると、そこに少女がこちらに背を向けてうずくまっている。


「大丈夫? どこか痛いの? それとも怖い?」

「…………っく」


 やがて、すすり泣きが聞こえてきた。小さな肩が何度も揺れる。


「……くまさん」

「え?」

「くまさん、燃やされちゃったの……」


 そう言いながら振り向いた少女は、翡翠色の双眸を涙に濡らしていた。その悲しげな表情以上に、見覚えのある顔立ちにアリーセは戦慄した。


(この子は……昔の私……?)


 ごくり、と喉が嚥下する。

 なぜ、彼女がここにいるのか。いや――なぜ幼い頃の自分が現れたのか。

 わからないが、彼女の言う「くまさん」は自分が幼い頃に大切にしていたぬいぐるみだということは理解できた。

 十歳の誕生日に、クラーラに燃やされてしまった「くまさん」。

 父はすぐに似たような熊のぬいぐるみを買い与えてくれたが、そういう問題ではなかった。アリーセにとって「くまさん」はあの「くまさん」だけだった。

 思わず愕然とするアリーセの耳が、くすくすと冷ややかな笑い声を拾った。


「いちいち話しかけてきて、うっとうしい子ね。嫌がられているってわからないのかしら」


 嫌悪感をあらわにした、父の後妻の声が響いてくる。

 何度邪険にされても話しかけていたのは、父の愛する人を愛しなさいという亡き母の言いつけを守ろうとしたからだ。アリーセなりに努力していただけなのに。


「可愛げのない娘だ。クラーラを少しは見習ってくれればよいものを」


 残念そうな父の声も聞こえてくる。

 幼いアリーセは頑張れば「可愛げ」というものが身につくと思っていた。父の言うそれが生まれ持った容姿の美しさや後妻の特徴を継いでいることだとも知らずに。


「お姉様ばかりずるいわ。わたくしはこんなもの買ってもらえなかったのに」


 クラーラはいつもアリーセの持ち物をほしがった。

 再婚が認められるまでいい暮らしをしていなかったという後妻とその娘を父は憐れみ、アリーセには耐えるように命じた。不遇だった子だから優しくしてやりなさいと。

 いまやアリーセの方が不遇の期間が長くなってしまった。


「また湖で泳がれたそうよ。はしたないわ。人魚にでも憧れているのかしら」


 使用人たちは屋敷内でのアリーセの立場が低くなったのを敏感に感じ取ると、次第に離れていった。アリーセが泳ぎをおぼえて湖に通うようになると、露骨に蔑んだ視線を向けてくるようになった。味方はミアだけだった。


(人魚に憧れてなんかいない。悲恋のすえに泡となってしまった存在に、どうやったら憧れるというの?)


 そうじゃない。そうじゃないのだ。


(居場所がなかったの。わたしは生きているって……実感したかったのよ)


 美しい湖水へ全身をゆだね、無心で泳いでいるときだけ純粋に生を実感できた。

 手足を使って水を掻き、ときおり顔を水面に浮上させて息継ぎをし、また水中へ潜る。その間だけ、世界には自分と湖しか存在しなかったから。

 水難事故の救助活動をはじめたのは、本当にたまたまだった。

 目の前で溺れている人がいたから助けた。それだけだったのに、助けた人にもその家族にも深く感謝されて、アリーセは人に喜ばれる喜びを知った。

 やっと、自分の存在を認めてもらえたように感じた。

 そして、思った。家族が自分をのけ者にするから、それがなんだというのか。


(家族が認めてくれないのなら、家族以外に私をおぼえてもらえばいい……そう思うようになったのよね)


 ぐっと唇を噛みしめると、アリーセは後方から響いてくる無数の声を無視して、幼い頃の自分に近づいて細い肩に手を掛けた。

 なぜ彼女が見えるのかわからない。もしかしたら夢を見ているのかもしれないが、他ならぬ自分のために言わなければならないと思った。


「聞いて、アリーセ」


 そう声を掛けると、幼いアリーセの肩がぴくりと震えた。


「くまさんは残念だったけれど……ちゃんとお墓も作ってあげたでしょう? それにね、私、ついにやり返したの。いままでお母様の言いつけを破りたくなくて……お父様に嫌われたくなくてできなかったけど、もうやめたの。だって愛してくれない人を愛しつづけるなんて、無理だもの」


 すすり泣きが一瞬止まる。

「あなたは強い子よ。お父様やファビアンが愛してくれなくても、あなたに親愛の情を示してくれる人にはたくさん出会えるわ。だから大丈夫――」

「――嘘つき」


 幼い少女から響いてきた声は、ひどく無情な響きをはらんでいた。

 突き放すようでいて、突き刺すような鋭さがある。

 涙に濡れた翡翠色の眼差しが凍てつくような冷たさで輝く。


「いまだに『愛されたい』と願っているくせに、どうしてそんな嘘が言えるの?」


 息を呑むアリーセの目前で、幼いアリーセの顔が嘲笑に歪んだ。

 上弦の月のように弧を描いた唇がみるみるうちに耳まで裂けていき、その顔が、体があっという間に膨れ上がってアリーセの背丈を優に超えてしまった。

 二階の窓に届くほどの巨躯になった幼いアリーセが、ニタリと不気味に嗤う。


「ひっ――」


 アリーセの喉から引きつけのような音が漏れる。

 足がすくみ、手が震える。さらには膝から力が抜けてその場に尻をついてしまった。それでも、幼い自分の醜い笑顔から片時も目が離せなかった。


「――アリーセ!」


 はっと我に返ったとき、鼻先に鋭くて大きな爪が迫っていた。それが、一瞬で横へ遠ざかっていく。

 いや、アリーセ自身が急速に引き離されたのだ。たくましい腕によって腰を引き寄せられており、密着した背中からは人の体温が感じられる。

 気がつけば、アリーセはイグナーツに抱き寄せられていた。


「殿下……!」


 しかしイグナーツはアリーセには目も向けず、

「エトガル! アリーセを頼む!」

 と誰かに指示を飛ばした。


 すぐに駆け寄ってきた黒髪の男にアリーセは引き渡された。

 丸眼鏡をかけた優男風の男ながら、眼差しは熟練の戦士のように鋭い。エトガルというのが彼の名なのだろう。

 アリーセが何かを訊ねるより早く察して、


「説明は後で。いまあなたにはよからぬものが見えたり聞こえたりしているかもしれませんが、本物ではありません。あれは幻覚や幻聴で人を惑わすタイプの魔物です……いいですね?」


 と言いながら、アリーセの口元にハンカチを押しつけてきた。何か吸ってはいけないものをこれ以上吸わせないための処置らしい。

 アリーセはひとまずこくこくとうなずいてみせた。

 それから、またイグナーツの方へ目を向ける。

 彼はアリーセたちを背にかばうようにして巨大化した幼いアリーセ――魔物と対峙していた。その右手には、青白く輝く刀身の剣を携えている。

 奇妙な剣だった。一瞥しただけでは材質が何なのか想像もつかない。刀身も鍔も柄もガラスのように透明度が高いくせに、内側から蛍のように淡く発光している。


(もしかして、あれが聖剣?)


 誰にも説明されたわけではないのに、そうなのだろうと確信できた。

 その聖剣を構え直すと、イグナーツが石床を蹴った。

 一瞬にして魔物に肉薄すると、駄々をこねるように振り回される巨大な手足をかいくぐり、聖剣を一閃させる。

 鋭い刃が魔物の大きな腹を切り裂く寸前に、アリーセは目をそらしたくなった。

 しかし、鮮血が吹き出すようなことはなかった。

 魔物の体は紙に描いた絵をちぎるように真っ二つになり、そのまま空気に溶けるように見えなくなっていく。


「……愛されたい……くせに……」


 最後にそれだけ言い残して、魔物の姿は完全に消滅した。

 イグナーツが輝く剣を腰の鞘に納め、駆け戻ってくる。

 それに合わせてエトガルがアリーセの口元から布地を外して身を離した。もう普通に呼吸をしても問題ないようだ。


「殿下、ありが――」


 感謝の言葉を伝えかけたところで、駆け寄ってきたイグナーツに激しく抱きしめられた。

 突然の抱擁に、アリーセは声を失う。


(え、えええええっ!?)

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