11.これも一種のデートですか?(1)
支度を終えたアリーセは、エントランスで待つイグナーツのもとへ向かった。
「これでよろしいでしょうか?」
若干の不安をおぼえて小首をかしげてうかがう。
アリーセはゴルヴァーナ城砦の正式なお仕着せに着替えていた。赤い髪はそのままでは違和感があるので、二つ結びのおさげにしてある。
第一城砦を見学する条件は「使用人のふりをすること」だった。
アリーセはイグナーツの正式な婚約者ではない。なのにイグナーツが令嬢として案内したら、兵士たちはアリーセをイグナーツの婚約者だと誤解してしまう。それを避けるための処置だった。
腰に剣帯を追加しただけのイグナーツは、なぜかアリーセを二度見した。
蒼い双眸が一瞬虚空をさまよい、薄い唇がふにゃっと歪みかけたところで彼は慌てて口元を手で押さえた。
「変ですか? どこか着方を間違えたでしょうか?」
「……い、いえ、とてもよくお似合いです。ご令嬢に対してこんなことを言っては、失礼にあたるかもしれませんが……」
「どんなことでも、殿下にお褒めいただけるのなら嬉しいですわ」
アリーセはにっこりと答える。
イグナーツは皮肉を言うような人物ではないし、本当に素直な感想なのだろう。彼にドレスよりお仕着せの方が似合っていると言われたら、一生メイド姿で過ごす覚悟がある。
(ま、その前に帰されそうではあるけれどね……)
兵士たちに婚約者だと誤解されては困るのは、そういう理由なのだろう。
少し気分が落ち込みそうになりかけたアリーセだったが、玄関アプローチに用意された一頭の馬を目にしたことで負の雑念が吹き飛んだ。
てっきり馬車で行くものだと思い込んでいたら、まさか乗馬とは。イグナーツが馬の鼻頭を親しげに撫でながら振り返る。
「馬に乗った経験は?」
「何度かはあります、けれど……」
面食らうアリーセに、イグナーツはざっと説明する。
第一城砦への道のりは地面がボコボコしているので、馬車よりも馬の方が速いだけでなく快適でもあるらしい。
(殿下と一緒に乗っていいの? 王子様がそんなサービスしてくれるなんて……)
直前に事情を説明されているにも関わらず、舞い上がりそうになる。見送りに出たミアが「お気をしっかり!」と声を掛けてくれたおかげでなんとか自我を保てた。
イグナーツの手を借りて馬に跨がったときも、後に乗ったイグナーツから腰に手を回されたときも、いま起きている現実が信じられなかった。密着した背中から伝わる体温が自分のものより高いせいで、余計に意識してしまう。
「腰に触れますが、安全のためなのでしばらくは我慢してください」
「が、我慢だなんて……よろしくお願いいたします」
緊張でカチコチになったアリーセはそう答えるのがやっとだった。
恋する乙女には甘すぎる状況に目が回りそうになったが、その甘さもイグナーツが馬の腹を蹴った瞬間に霧散した。
地面がボコボコしている、というのはひどい語弊だった。
正確には、大地に無数の亀裂が走っているのだ。
進行方向から伸びているということは、その中心は《奈落》だろう。遠目で見るぶんには細かい亀裂だが、その一つ一つはとても大きく、あちこちに通るための橋が渡されている。馬車で移動しにくいというのは納得だった。
(神の怒りが落ちて《奈落》が生まれたときのものかしら……)
そんな亀裂だらけの大地を、イグナーツはあまり気にした様子もなく馬を駆った。あまり幅のない亀裂に関しては橋を通らずに馬の腹を蹴り、飛び越えさせるものだからアリーセはおそろしくて目をつぶるしかなかった。
そうして目的地に近づき、馬が速度を緩めたときにはアリーセはくたくたになっていた。跳躍したりなんだりで激しく揺さぶられたせいで尻も腰も太股も痛い。ようやく解放されるのかと思うと心からほっとした。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、なんとか」
先に降りたイグナーツの手を借りて馬から降りる。彼の手に触れているというのに、もう浮ついた気分にはならなかった。
もともと気軽に「見たい」などと言ってはいけない場所に、無理を言って連れてきてもらったのだ。しっかりしなきゃ、と自分の頬を叩いて気合いを入れる。
「ここから先は人の目がありますので、使用人の一人として扱わせていただきます。エスコートできませんが、無礼をどうかお許しください」
「もちろん承知しておりますわ。どうぞお構いなく」
「……ではまいりましょう」
イグナーツが第一城砦の中へ先導するように歩き出す。そのときになってようやく、アリーセは彼の剣帯に鞘だけが掛けられていることに気がついた。
(あら? 聖剣はどうしたのかしら)
考えてみたら、彼が第二城砦内で剣を帯びているのを見たことがない。
湯殿で倒れた後に部屋へ訪ねてきたときも、食堂広間でともに朝食をとったときも、彼は帯剣していなかった。
修理中かしら、などと不思議に思いながら、イグナーツの後を小走りに追う。
第一城砦は基本的に第二城砦と似た造りをしていた。
ただし第二城砦よりもさらに飾り気がなく、また廊下の反対側の窓から見える風景は中庭などでなく兵士用の待機場所になっていて、《奈落》から浮上した有翼の魔物を撃ち落とすための投石機などが配備されていた。
魔物は聖剣でなければ倒すことはできない。だからこれらは別の用途に使われている戦術兵器だろう。
「兵器にご興味が?」
イグナーツがさりげなく歩幅を落としながら訊ねてきた。ここからは使用人扱いすると宣言しておきながら、さりげなく配慮してくれる。
「ええ。いつもこのようなものを使って戦っていらっしゃるんですね」
「三階の歩廊には連弩と大砲もあります。《奈落》の淵には投網機が設置してありますが、すべて魔物の足止め用です。運良く魔物の動きを封じられたら、研究用……あるいは医療用に捕獲します」
「医療用ですか?」
「魔物の中には毒を持つ者もいるので。解毒には同じ魔物から採れる血清が必要な場合が多いんです」
なるほど、とアリーセは納得した。
ゴルヴァーナ城砦では魔物の捕獲も行っているという話は聞いていたが、解毒にも使われているとは知らなかった。
「《奈落》の淵には昇降機もあるんですよ。さすがに危ないのでお見せできないのが残念ですが――」
「殿下!」
突如廊下に響いた呼び声に、イグナーツの説明が途切れる。
騎士の制服をまとった金髪の男が早足で近づいてきた。
王子にみずから声をかけているのは、それが許されるだけの信頼を得ているという証だろう。左腕を三角巾で吊っているのは、最近怪我をしたということか。
「どうなさったのです? 第二へお戻りになったのでは……」
「少し様子を見に来ただけだ。変わりはないか?」
「ご覧のとおり、異状はありません」
金髪の騎士はそう答えた後、アリーセを見つけて目を留める。
「そちらのメイドは、新しい洗濯係ですか?」
どうやら第一城砦では新しい洗濯係を募集しているようだ。
イグナーツがかぶりを振る。
「いや、第二城砦に新しく入った者だ。事情があって、こっちのことを知ってもらうことになった」
「……そうでしたか」
騎士は残念そうに言って去っていく。
アリーセはこっそりとイグナーツに囁いた。
「そんなに人手が足りないのでしたら、本当に洗濯係になりましょうか?」
「馬鹿を言わないでください。ご令嬢にそんな真似はさせられません」
イグナーツのすねたような口ぶりにアリーセは小さく笑った。
廊下を進むにつれて、騎士や兵士との遭遇率が上がっていった。アリーセの見たかぎりでは、みなどこかしら怪我をしているものの重傷者はいないようだった。
おそらく重傷者は第二城砦へ運ばれているのだろう。怪我をしてもまだ戦えそうな者が残っているのかもしれない。さきほどから甘い匂いが漂っているように感じるのは、傷薬によるものだろうか。
「殿下! ちょうどよかった。第七守備隊の兵備の件ですが――」
「殿下、先日お話しした件でもう一度ご相談したく――」
「殿下っ!」
イグナーツを見つけた兵士たちが次々と駆け寄ってきて、あっという間に彼を囲んでしまった。イグナーツの苦笑いを見るに、彼は第一城砦に戻ればこうなることを予見していたのだろう。
兵士たちはみなアリーセを使用人の一人としか見ていないので、あっという間に押しのけられてイグナーツからだいぶ遠ざかってしまった。
なんとかして近づこうと、屈強な兵士たちの人垣の後でぴょんぴょんと飛び跳ねているときだった。
「アリーじゃねえか!」
聞き覚えのある野太い声に振り向くと、見知った髭面があった。
療養所で馴染みだったゲルトだ。
無精髭まみれの顔に愛想の良い盗賊のような笑みを浮かべている。
「もう復帰されたんですか? しかもそれ……隊長の徽章?」
「おっ、気がついたか。第三守備隊長を任されてるんだ」
親指を自分の顎に向けて得意げに言う。下っ端ではなかったとは少し意外だ。
「隊長さんだったのですね」
「見えねえって?――ははっ、大丈夫だって怒んねえから。もう慣れっこさ。で、あんたはどうしてこっちに? 新入りなのにもう配置換えか?」
「いえ、そういうわけでは……」
ゲルトはアリーセを新入りのメイド「アリー」だと思っている。変装中なので誤解を解く必要はないが、なんと説明すればいいのか。返答に困っていると、
「――知り合いか?」
背後からの声にぎょっとする。
気がつけばイグナーツがアリーセのすぐ後ろにいた。
いつの間にか兵士たちの囲みを突破したか解散させたらしい。訝しむような眼差しはどこか険があるが、ゲルトは臆することなく笑った。
「ええ。第二の療養所で手当てしてもらいまして」
「手当てを……?」
イグナーツがこちらをうかがうように横目で眺めてきた。
(口止めが間に合わなかった……!)
アリーセは気まずさのあまりつい視線を逸らしてしまう。
「人手不足で無理やり連れてこられた感じだったんですがね、これがなかなか思い切りがよくて、筋があるなあと思ってたんですよ。なあ、アリー!」
「うひゃあ!」
いきなりべちんと背中を叩かれて、アリーセは思わず声をあげてしまった。
「ちょ、ちょっと、叩かないでください……!」
「なんだよ、今日は妙にしおらしいじゃねえか! あ、わかったぞ。殿下が男前だから照れてるんだろ?」
「そういうんじゃありませんから、やめてください……」
男前については否定しようもないが、からかうのも触れ合いも本当にやめてほしかった。
乙女心は繊細なのだ。
こんなところで好意を知られるのも嫌だ。イグナーツがいなかったら手当てしたばかりの傷口を突いてやっていたかもしれない。
ゲルトはご機嫌で笑っているが、イグナーツの眼差しはますます険しくなっていく。アリーセは気が気ではなかった。
(お、怒ってる……わよね。素人が大切な臣下を手当てしたんだもの)
医務官のハイネが主体での治療だったとはいえ、アリーセが致命的なミスをしていたら命に関わっていたかもしれないのだ。怒るのも当然だろう。
「そういや、俺、あんたに押さえつけられてるときに結構強い力で掴んじまってた気がするんだが、大丈夫だったか?」
「え? ええ、大丈夫ですが……」
と答えながら、思わずゲルトに掴まれて痣になった肩に手で触れる。
まだ痣は残っているが、それは湯殿でのぼせた影響もあるかもしれない。あの後しっかり冷やしたので少しずつ内出血の色も落ち着いてきている。
「また何かあったら頼むぜ、アリー!」
ゲルトがアリーセの肩に気安く腕を回してきた。
なれなれしい絡み方にどうしたものかと思ったそのとき、イグナーツがおもむろに彼の腕を掴んだ。
強引に肩から引き剥がすと、そのまま一気に背の後ろへひねり上げる。
たまらずゲルトが叫び声をあげた。
「いだだだだだだだっ、ちょ、殿下ぁっ!?」
「女性の肩になれなれしく触れるものじゃない」
「そ、それは、そうかもしれねえですが、そんなこといままで一度も……痛い痛い痛い痛い! わかりましたっ、おっしゃるとおりでございますぅっ!」
イグナーツはようやく彼を解放した。
ゲルトはひねられた肩をかばってさすりながら、涙目で抗議する。
「あーいってえ……俺、怪我人ですよ!?」
「そのわりには元気が有り余っているようだ。ハイネからも報告を受けたぞ。おまえが手伝いのメイドにちょっかいをかけるから困っている、すぐに第一で引き取って前線へ放り込んでほしいと」
「くそ、治ってねえのに戻されたのはあいつのせいかよ! あ、いえ、なんでもねえです……」
鋭く冷ややかな眼差しを受けて、彼は逃げるように去っていった。困った人だが、少し可哀想だったかもしれない。なんて考えながら背中を見送っていると、
「で、どういうことか説明していただけますか、アリー?」
「……ハイ」
有無を言わさぬ強めの語気に、アリーセは首肯するしかなかった。
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