10.食事はよく噛んでいただきましょう

 輿入れから三日目の朝、アリーセは朝食のためにまた食堂広間に向かった。

 きっと今日もイグナーツは現れないだろう。


(でも、もうそんなことは構わないわ。会いたいのなら自分から動かなきゃ。だって殿下は――あとどのくらい生きられるかわからないんだから)


 イグナーツは、時が来たら人柱となって《奈落》に沈むさだめだ。

 それが何年後になるのかはわからない。歴代の聖剣の王子は二十代前半で亡くなっているというから、長くて五年。早ければ三、四年後かもしれない。

 身代わりで輿入れしてきた身ゆえにおとなしく沙汰が降りるのを待っていたが、そんな悠長なことを言っている余裕はないのだ。

 良い子にしていればいつか認めてもらえる――なんて思っていた結果が、いまのアリーセの境遇だ。父は決して愛してくれず、ファビアンは奪われた。


(あの二人のことはもうどうでもいいけれど……二度と後悔したくない。後悔するのは、できることをすべてやってからでも遅くないのだから)


 現状ではどうやったら会ってもらえるかすらわからないが、それについては療養所の手伝いがてらハイネやゲルトたちに探りを入れてみるつもりだ。有効な情報が手に入るのなら、尻の一つや二つ触らせてやることも辞さない覚悟である。


 席につき、こっそりと奮起している間に食事が運ばれてきた。

 半熟の目玉焼きにこんがり焼いた厚めのベーコン。色鮮やかな野菜のマリネに、鶏もも肉と根菜のスープ、そして白くふんわりしたパンが一つ。

 果物はテーブルの中央にそのままの姿で大皿に盛ってあり、好きな物を取って食べられるようになっている。

 朝は簡単なものにしてほしい、というアリーセの要望をかなえた献立だ。軽食ながら目にも鮮やかで、よく炒めた玉葱の香りがするスープが食欲をそそる。


(まずは腹ごしらえをして、それからね)


 療養所はいつも忙しい。しっかり食べて体力をつける必要がある。

 アリーセはぎらりと目を輝かせると、マリネにされたひよこ豆をフォークでぶすっと突き刺した。そしてそれを口に運んだとき、食事の間の扉が開いた。


「おはようございます」


 そう言って現れた人物の姿に、アリーセは思わずひよこ豆を咀嚼せずにゴクンと呑み込んでしまった。

 三日前に見たような軽装姿のイグナーツが何事もなかったかのようにやってきて、アリーセの向かいの席に座る。それからアリーセの食事に目を向けてから、使用人に指示を出した。


「俺にはもう少し食べ応えのあるものを頼む」

「承知いたしました」


 使用人が下がっていくと、イグナーツはさっさと果物の大皿に手を伸ばした。大粒の葡萄をいくつかむしり、濃紫色の果実を皮ごと口の中へ放り込む。それからアリーセの視線に気づいたようで、


「どうかしましたか?」


 イグナーツは窓側の席に座っているので、朝の新鮮な日差しを受けて銀髪がきらきらと輝いている。

 美しすぎて後光が差しているかのようにアリーセには思えた。葡萄を摘まむ姿などほとんど動く宗教画だ。うっかり見惚れそうになって自制する。


「いえ、お食事をご一緒できるとは思わなかったもので、少し驚いただけですわ」

「……お邪魔でしたら俺は別室でとりますが」

「とんでもありませんわっ!」


 アリーセは思わず身を乗り出して全力で否定した。やっと尊顔を拝見できたというのに、出て行かれたらたまったものではない。


「そうではなくて……その、昨日も一昨日もお見かけしなかったので……」


 イグナーツが不思議そうな顔をするものだから、少し不安になってきた。


(いまの発言、どこか悪かった? 嫌味っぽかった? そのままの意味で言ったのだけど……どうしよう。私、言い方を間違えたかしら?)


 壁際に控えているミアにちらりと視線を送る。ミアもちらりと視線を返してくるが、その眼差しは「大丈夫です、お嬢様」と語っているから、大丈夫のはずだ。

 イグナーツはなぜか左上方の虚空を見上げており、ややあって「ああ」とようやく思い当たったとでもいうような声を漏らした。


「すみません、寝ていました」

「……へ?」


 予想外の返答に、思わず変な声が出てしまった。


「自分では一晩経ったくらいの感覚でいたのですが、そんなに経っていましたか」

「まさか……い、いまのいままでずっと眠っていらしたんですか?」


 さすがにそんなことになっているとは思ってもみなかった。

 ええまあ、となんでもないことのような肯定の言葉が返ってくる。


「《奈落》では一昼夜ぶっ通しで戦わなければならないことがあるんですが、そういうときは聖剣から体力を前借りするんです。そして戦いが終わったら前借りしたぶんの体力を回復させるため長時間眠る……だいたい丸三日か四日くらいでしょうか。たまに起きて食事は摂っているそうなんですが、自分では記憶がなくて」


 本人はもう慣れっこなのか平然としているが、すごいことを聞いた気がする。

 この人は魔物の群れを相手に、一昼夜休みなく戦わされているのか。王都でのうのうとしていられる《王笏》の王子と違って、聖剣の王子は人生が過酷すぎる。


(でも、避けられていたわけじゃなくてよかった……)


 アリーセは今度こそマリネのひよこ豆を咀嚼して飲み下した。

 目の前でイグナーツが葡萄の実を薄い唇に運んでいるのがよい刺激になっているのか、一昨日の朝食べたときよりも美味しく感じられる。


「気づかなくてすみません。昨夜……いやもう三日前か。話したときに説明しておけばよかったですね。もしかしてさびしい思いをさせてしまったでしょうか?」

「えっ」


 そんなに会いたい気持ちが顔に出ていただろうか、と焦ったが、


「公爵家のご令嬢ともなれば何日も一人で食事をとることなどないですよね。配慮が足りませんでした。以後気をつけます」

「いえ、どうぞお気遣いなく……オホホ」


 アリーセはなんとか笑顔を取り繕った。勘違いしてくれて助かった。

 そんなやりとりをしている間に、イグナーツの食事が運ばれてくる。彼の注文どおり、肉中心のボリュームある献立だ。この短時間で作れる代物ではないから、事前に用意してあったのだろう。今日は起きてくると見込んだ上で。


「ここの食事は口に合いますか? この土地柄なので魚や鮮度が大事なものは手に入りにくいのですが、量だけはじゅうぶんに用意させています。食べたいものがあれば遠慮なく言ってください」

「お気遣いありがとうございます。食べ物の好き嫌いは特にありませんので、毎食とても美味しくいただいておりますわ」

「それはよかった」


 イグナーツが表情をやわらげ、安心したように料理へ手をつける。

 聖剣の力とやらで体力を消耗したばかりだからか、なかなかの食べっぷりだった。それでいて上品さを損なっていないのは宮廷教育の賜物だろう。


「何か不自由していることはありませんか? 足りないものがありましたら、すぐに手配させます」


 お構いなく――と言いかけたところで、アリーセにはひらめくものがあった。


「不自由とは少し意味が変わるのですが、ここのことをもっと知りたいです」

「わかりました。俺がよければ案内しましょう」

「よろしいのですか?」


 まさかイグナーツがみずから案内してくれるとは。言ってみるものだ。


「とはいえ、三日も経っているのなら既にある程度はご存じかもしれませんね。どこか見てみたいところはありますか?」

「ええ。実は第一城砦を見たいのです」


 イグナーツが驚いたように目を見開いた。

 第一城砦はここ第二城砦よりも《奈落》に近い。生活と療養と政治の場となっている第二城砦と違って、機能も戦闘に特化している。


「……本気ですか?」

「もちろんですわ」

「危険な場所です。いつまた魔物が湧きはじめるかわかりません」

「ですが、殿下がこちらにお戻りになっているということは、魔湧き現象は落ち着いているのでしょう?」


 魔物は群れの長を倒せば残りの魔物も《奈落》へ帰っていき、一カ月から二カ月の間は発生しない。昨日ゲルトから聞いた話だ。

 それでも、普通の令嬢ならば近寄りたがりもしない場所ではあるだろう。実際、クラーラは《奈落》への恐怖からファビアンをたらし込んでいる。

 しかしアリーセは違った。

 イグナーツからはまだ沙汰は降りていないが、近いうちに帰される可能性を考えないわけにはいかない。

 そうなったら、《奈落》の最前線を見る機会は今後一生ないかもしれないのだ。


(ここで殿下や兵士や医務官や……みんなが命を賭して魔物と戦っているという現実があるのに、私たちはいままで無関心すぎたわ)


 王都にも領地にも魔物などめったに現れないから、《奈落》で戦う人たちがいることを頭では理解していても、どこか遠いおとぎ話の出来事のように感じていた。

 だから、初めて第二城砦の療養所で手伝いをしたときも、あまりの惨状に「まるで戦場みたい」などと思ってしまった。

 あれは、我ながらいかにも平和ボケした貴族の感想だった。ここはまさに戦場の真っ只中だというのに。


(恋した人が命を賭して戦う現場を見ずに、帰ることなんてできない)


 そうなったら、きっと一生後悔するだろう。

 イグナーツはまた困った顔をして、左上方の虚空を見上げている。そこにいったい何が見えるのだろう。考えるときの癖なのかもしれない。

 やがて、観念したようなため息が漏れた。


「……わかりました。あまり気は進みませんが、ご案内しましょう」

「ありがとうございます!」

「ただし」

 と、イグナーツは条件をつけた。


「あなたには変装をしていただきます」

「……変装?」


 アリーセは翡翠色の両目をしばたたいた。

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