第二章

9.偽メイドは情報収集中です

 翌日もその翌日も、アリーセはイグナーツに会えなかった。

 食事時は食堂広間に通され、壁際にずらりと並ぶ使用人たちに見守られながら長テーブルの端で豪勢な料理を食べるのがここでの日課の一つとなったが、向かいの席にイグナーツが姿を現すことはなかった。

 朝も昼も、夜もだ。


(殿下は部屋で食事をしていると聞いたけど、そんなにお忙しいのかしら。それとも……私と顔を合わせたくないから部屋に閉じこもっていらっしゃるとか)


 思考が悪い方にばかり引きずられてしまう。

 使用人たちがアリーセが身代わりだということを知っているのかどうかは不明だが、みな丁重に扱ってくれたのは救いだった。しかし恋した人に避けられているのかもしれないと思うとせっかくの料理が味気なく感じられた。


 加えて、イグナーツからの指示がないのですこぶる暇だった。

 アリーセには予定と言える予定が何もない。朝食、昼食、ティータイム、夕食、湯浴みの時間がだいたい決まっているだけだ。


 執事長は「自由にお過ごしください」と言ってくれたが、城砦を出ることは禁じられており、室内で実行可能な「自由」などたかが知れている。

 何より、療養所の惨状を知りながら読書などをして優雅に過ごすなんて、アリーセにはできなかった。人手が足りないとわかっているならなおさらだ。


(暇だから悪いことばかり考えちゃうのよ。こういうときは体を動かさないと!)


 というわけで、アリーセはまた療養所の手伝いをして過ごすことにした。


「アリー、器具の消毒をお願いできる?」

「かしこまりました!」


 今回も自前のお仕着せを着て、「メイドのアリー」として申し出た。身分を偽ることに罪悪感がないわけではなかったが、「公爵令嬢が手伝いを申し出てもみな遠慮して仕事を頼めないだろう。


「待ってお嬢……アリーさん、お、手伝いしますからっ!」


 アリーセが医療器具の入ったトレイを持って隣室へ向かうと、すかさずミアもついてくる。今回は彼女も一緒だ。さすがに「お嬢様」を戦場のような医療現場に一人で送り込むのは侍女としてはばかられるとのことだった。


 ミアは最初、アリーセが診療所の手伝いをすることに難色を示していた。

 しかしアリーセが、

『イグナーツ殿下の情報を集めたいの』

 と言ってみたところ、目をきらりと輝かせて協力を申し出てきた。

 この侍女はお嬢様の恋を応援したくてたまらないらしい。アリーセとしては手伝いが第一でイグナーツの情報収集は二の次なのだが、許可してもらえるのなら順番などどちらが先でもよかった。


 療養所の隣室は小さな厨房のようになっており、常に竈には火が炊かれている。そこで大鍋に湯を沸かし、石鹸で洗った医療器具を放り込む。煮沸消毒だ。

 それから火の消えている大鍋の湯温が下がっていることを確認し、中で消毒されていた布巾や包帯を回収してよく絞り、窓際の簡易物干しに皺を伸ばしてから干していく。


「こちらはミアにお任せください」

「わかった、お願いね」


 洗い物や洗濯などの作業はミアの方が手際がいい。逆に手当ての助手はアリーセに分があるので、この場はミアに任せることにした。

 エプロンの前で濡れた手を拭いつつ診療所に戻る。

 奥の方で簡易寝台に座る負傷兵の包帯をほどいているハイネの姿が見えた。ここの手伝いにあっさり溶け込めたのは彼女に気に入ってもらえたからというのが大きい。

 迷わずそちらに向かっているとき、アリーセは嫌な気配を察した。


(――はっ!)


 右手を素早く後ろに回して、腰に忍び寄っていた不埒な手を打ち払うと、「いてっ」という予想通りの声が聞こえてきた。やはり。振り向きざまに睨みつける。


「ゲルトさん、そんなに元気が有り余っているんでしたら、もう第一城砦へ戻ったらどうですか? 魔物たちが待っていますよ?」

「いやいや、しばらくはヤツらも出ねえから、俺の出番もないさ……へへっ」


 寝台に座りながら髭面を引きつらせたのは、先日アリーセがハイネの指示で治療を手伝った負傷兵だ。

 名をゲルトといい、この城砦にはイグナーツが赴任する前から務めている元囚人兵だという。

 イグナーツがここの主となり、囚人兵制度を改革して現在の雇用制度に変えるまで、ゴルヴァーナ城砦は囚人の流刑地だったという。ゲルトは刑期を終えた後も腕を買われて雇われている希有な例だというが、手癖が悪いのが難点だった。


「しばらく魔物が出ないって、どうしてわかるんですか?」

「殿下が〝長〟を倒したばかりだからさ」


 ゲルトの話によると、《奈落》から湧き出る魔物には必ず群れを率いる〝長〟がおり、その〝長〟を倒すと群れは瓦解し、《奈落》へ逃げ帰っていくのだという。そうなると、だいたい一カ月半から二カ月は魔湧き現象は起こらないらしい。


「じゃあ、いまは平和なんですね」

「そういうことだ。っつーわけで、平和の使者であるゲルト様をもうちっと優しくいたわって、ついでにサービスなんかしてくれると……いてえっ!?」


 再び不埒な手を伸ばそうとしていたゲルトが、横から伸びてきた手に耳を引っ張られて悲鳴をあげる。

 手の主は医務官のハイネだった。彼女は凜々しい顔を引きつらせている。


「よっぽど第一城砦が恋しいみたいだねえ? 今日中に送り返してあげようか?」

「か、勘弁してくれよハイネ……!」


 ふんっ、と鼻息を荒らげてハイネがゲルトを解放する。


「ちょっと若くて可愛い子が来たからって、調子に乗るんじゃないよ。アリー、あんたも気をつけなさい。ここのほとんどの兵士はこういうアホばっかだから」

「は、はあ……」


 すると診療所のあちこちの寝台から不満の声があがった。

「そいつはひどい侮辱だぞ、ハイネ! 俺たちはまっとうな騎士だ!」

「そうだ! ゲルトなんかと一緒にするんじゃねえ!」

「おうてめえら、そりゃどういう意味だ!?」

「はいはい、あたしが悪かったから、怪我人はおとなしくしてなさい!」


 兵士たちの抗議に当のゲルトも加わって大騒ぎになるのを、ハイネが手を打ち鳴らして制止する。ここでは彼女が絶対的君主のようだ。


「ごめんねえ、うるさくって。あんなやつらでもこの国の平和に貢献してるのは確かだから許してやって。おさわりされたらぶっ飛ばしていいけど」


 過激な発言にアリーセは苦笑した。

「そのつもりです……でも正直なところ、ここのみなさんが思っていたよりも明るい方々ばかりでほっとしました」


 ゴルヴァーナは足を踏み入れたら最後、生きては帰れないと囁かれている死地だ。さらに負傷者も多いとなれば、もっと悲壮感に満ちていてもおかしくないと思えた。


「ああ、それね」

 ハイネがどこか遠くを見るような眼差しになる。


「倒せない魔物と戦い続けるなんて、カラ元気でも明るく振る舞ってなきゃやってられないからね。それだって五年前……魔湧き現象が起こる一年前に赴任してきたときはもっと荒れてたし、喧嘩も絶えなかったけど」

「それって、魔物が湧きはじめてから団結したってことですか?」

「あはは、そんなにおきれいな話じゃないのよ。正確に言うと四年前にイグナーツ殿下が赴任してきてから変わったの」

「例の、殿下がここを改革したという……?」

「あー違う違う。改革よりももっと前。来たばかりの頃のこと」


 ふふ、とハイネが何かを思い出しながら苦笑する。


「想像してみて。『覚悟は決めたけど魔物も死ぬのも怖いです』って顔した十六歳の王子様が、騎士団とは名ばかりの囚人兵だらけの現場に来て、最初の挨拶でこう言ったのよ。『誰一人死なずにすむ戦い方を見つけるから、俺を支えてほしい』って……その『誰一人』にご自分が含まれていないことに気づいちゃったらさ、もう全力で支えるしかないじゃない」


 イグナーツは聖剣の主になったときから人柱になることが決定づけられている。だからどうあがいても、イグナーツだけは絶対に死ぬのだ。それは避けられない。

 アリーセは何も言えなかった。


(たった十六歳でそんな運命を受け入れられるものなのかしら)


 俗世を捨てて出家した聖職者だって、人々のために尽くす生き方を受け入れただけで、人々のために命を落とせと言われたら抵抗くらいするだろう。イグナーツには抵抗するすべがないとはいえ、普通の精神ではありえないと思えた。


(四年前、あるいはその前かしら? 殿下の身に何かあったのかしら)


 アリーセには想像もできなかった。できるわけがない。想像するにも、アリーセはイグナーツのことをあまりにも知らなすぎる。

 出会ったばかりだから、というだけの意味ではなく。


 国のために人柱となるさだめの王子のことを、社交の場で話題に出す者はいなかった。

 みなが聖剣の王子の存在を認識しながらも目を逸らして、華やかな上流階級の暮らしを楽しんでいた。

 それはたった一人に責任を押しつけているという罪悪感からくるものかもしれないし、あるいは目を向けたら興が冷めるという薄情な理由からかもしれない。

 そしてそんな大人たちに育てられたアリーセにとって、《奈落》も聖剣の王子も、おとぎ話のように遠い世界の人物だったのだ。


(私たちはもっと知るべきなんだわ。殿下のことも、《奈落》のことも)


 アリーセがある決意を固めようとしていたとき、ハイネと入れ替わりに隣室からミアが戻ってきた。

 なぜか機嫌のよさそうな彼女は小走りに近づいてくると、そっと耳打ちしてくる。


「助手の方からいい情報を仕入れました。なんと! 殿下がここに来てからフッた女性の中に、赤い髪の女性はいなかったそうです!」


 イケますよ! と親指を立てる侍女のおかげで、重くなりかけた気持ちが少しやわらぐ。

 アリーセは急に侍女が愛しく思えて彼女の頭を撫で、侍女は得意顔で受け入れた。

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