8.お互い様なので謝罪は結構です(3)

 最後に優しく微笑んで、イグナーツは部屋を出ていった。頭を下げて見送り、扉を内側から閉じたミアがふうっと安堵の吐息をついた。


「身代わりはバレちゃいましたけど、怒られずにすんでよかったですね」

「……そうね」


 自分でも落ち込んでいるのがわかる声が出た。

 よかったとはとても思えない。なぜだろう。

 父の思惑どおりになどなりたくないし、嫁入りを断られたらツテを頼って働こうと、嬉々としてお仕着せまで用意していたのに。


「お嬢様?」


 ミアが心配そうに呼びかけながら近づいてきた。そうしてアリーセの顔をまじまじと見つめると、何かを察したようで肩を優しく抱いて長椅子に導いてくれた。

 腰を下ろすのを待ってから、屈み込んで下から顔をのぞいてくる。


「先に、ミアの勘違いでしたら謝罪いたします。もしかしたらですけれどお嬢様……イグナーツ殿下に惹かれていませんか?」

「……へっ?」


 アリーセは思わず目をぱちくりさせた。

(殿下に惹かれている? 私が?)


 確かに、とても魅力的な容姿をされているとは思っていた。実際にしっかり話をしたところ、決して見目だけではない人だということもわかった。

 王族らしからぬ寛大さと謙虚さ、責任感から来る強い意志。


(それに……気持ちの良い女性だと言ってくださった……)


 彼の一挙手一投足に目を奪われ、心が乱され、胸がきゅっとなったり鼓動が速まったりしている自覚はあった。だがそれでも。


「そ、そんなわけないじゃない。美形なんてクラーラとファビアンで見慣れているどころか見飽きているくらいなのに、そんな一目惚れみたいなこと……」

「っきゃあああ! やっぱりーっ!」


 しかし、ミアはアリーセの言葉を逆の意味として受け取ったらしい。奇声をあげて勢いよく立ち上がるものだから、アリーセは驚いてびくりと肩を跳ね上げた。


「み、ミア?」

「さっきからそんな気はしてたんですよぉー! やったあーっ! 一年中冷めた目をして『どうせ私なんて』って顔をしていらしたお嬢様に、ついに春が! ミアは嬉しくて空も飛べそうです!」


 ミアは満面の笑みを浮かべて、くるくると謎のダンスを踊り出す。


「だから、違うって言っているじゃない! どうして逆の意味に受け取るの!?」

「その反応こそ図星ってことじゃないですか、もう! 何年お嬢様に仕えていると思っているんです? ミアの目はごまかされませんよ!」


 こうも自信満々に言われてしまったら、アリーセに反論の余地はなかった。


(そうなのかしら? 私、殿下に一目惚れしたの? 言われてみたら、そんなような気がしなくもないけれど……それにしても出会いがひどすぎない?)


 初対面で全裸を見て一目惚れするなんて、うら若き公爵令嬢としてどうなのか。

 それに、問題は他にもある。


「……わかったわ。殿下にちょっと惹かれかけていることは認める」

「なんでそんなに渋々なんです? よかったじゃないですか、結果的に好きになった人に嫁げたんですから。こんな幸運、めったにありませんよ!」

「私にはミアが喜んでいることの方がわからないわ……」

 アリーセは額を押さえて嘆息する。


「殿下は私と結婚したくないっておっしゃっているのよ。追い出されるのは時間の問題だとわかっているのに、どうして喜べるの?」


 しかしミアはぴたりとダンスの回転を止めると、不思議そうに振り向いた。


「ですが、殿下はこうおっしゃってたじゃないですか。『あなたを妻とすることに不満があるわけではない』って。それって、公爵様やクラーラ様に軽んじられた件を脇に置けば、お嫁さんにしても構わないって意味にも聞こえませんか?」

「え……」


 アリーセは固まった。

 その発想はなかったが、言われてみればそう受け取れないこともない。そう思ったとたん、急に手が小刻みに震えてきた。


「ど、ど、ど……」


 どうしよう、の一言も言えないほど動揺していると、ミアが近づいてきて安心させるように両手をがっしりと握りしめてきた。つぶらな瞳がきらりと輝いている。


「まだ勝機はあります。諦めちゃダメですよ、お嬢様! いざとなったら、このミアにおまかせを! クランツ商会の昨年度売り上げナンバーワンの惚れ薬をご用意――」

「……そういうのはいいから、本当に。ていうかそれ、本物?」


 ただでさえ寿命の短い聖剣の王子に一服盛ろうとする侍女を諫めつつ、アリーセはもしかしたらの可能性に鼓動が速まるのを感じていた。


 ***


 自室へ戻ったイグナーツは、感情のままに利き手の拳を壁に叩きつけた。

 ボゴッと嫌な音を立てて壁が陥没し、壁紙越しに石片がパラパラと崩れ落ちる。

 第一城砦と第二城砦はともに完全石造りの堅牢な構造をしており、人の力で壊せるようなものではない。純粋な膂力ではなく、聖剣を宿しているがゆえの特別な打撃力だった。


「エルケンス辺境伯の令息か……殺してやる。ヴェルマー公爵もだ」

「お、落ち着いてイグナーツ! 気持ちはわからないでもないけど、君には誰でも殺せる力があるから冗談にならないって!」


 すかさず聖剣の精霊レンが甲高いで制止してくる。いつものこととはいえ軽いわずらわしさをおぼえ、イグナーツは虚空を浮遊する幼児を一瞥した。


「誰も冗談など言っていないが」

「なお悪いよー! 聖剣は用法を守って正しく使ってよー!」


 レンの姿や声を認識できるのはイグナーツだけなので、これだけ騒がれても人に聞かれる心配はない。

 ちなみに、さきほどアリーセと話していたときも空中からのツッコミがうるさくてたまらなかったが、鋼の意志で無反応を貫き通した。

 彼女のことを思い出したとたん、気持ちがずんと沈みかける。


「……これが落ち着けるか。婚約者と結婚する直前になって文字通り奈落に突き落とされて、さらに近々人柱になる男に嫁入りさせられたんだぞ。なぜ彼女がこんな仕打ちを受けなければならないんだ」


 イグナーツの蒼い双眸が、遠い日の記憶を映し出す。

 アリーセはおぼえていないようだが、イグナーツは五年前に一度だけ彼女に会ったことがある。

 いや、「会った」という表現は適切ではないかもしれない。

 遭遇した――あるいは発見されたと言うべきか。

 ひどい出会い方だったので、彼女がおぼえていなかったのは幸いだった。

 もう一度会いたいと痛烈に願っていたと同時に、二度と顔を合わせたくないと思うほど恥ずかしく、当時の自分を情けなく思っていた。


『振り向かせたい人がいるんです。難しいのはわかっていて、もしかしたらまったくの無駄に終わるかもしれないけれど……』

『後悔したくないんです。やれるだけやったって、胸を張って生きていきたくて』

『それでもダメだったら……相手の方を後悔させてやるつもりです。私を愛せばよかったって、ぐぬぬってしているところを笑い飛ばして差し上げるわ!』


 湖のほとりでずぶ濡れになり、開かない右目を気にしつつも笑う少女の姿を思い出し、胸の奥が痛んだ。

 あの言葉とあの笑顔に導かれて、イグナーツは腹をくくったのだ。

 彼女が無事に望みを遂げられることも、心から願っていた。だというのに。


「その言い方だと、クラーラ嬢はどうなってもよさそうに聞こえるね」

「会ったこともないしな」

「ひどっ」

「手紙のやりとりはしていたが、あんなに結婚を待ちわびているようなことを言っていたのに、俺が聖剣を宿したと知ったとたん返事がぴたりと途絶えたからな。なんとなく察してはいたが……それでも反故にするのは勝手がすぎるだろう」

「ま、それもそうだね。公爵からしたら二分の一の賭けだったんだろうけど」


 クラーラの婚約が決まったとき、イグナーツはまだ聖剣を宿していなかったことになっている。実際は、訳あって隠していただけなのだが。


「気に入らないのはわかるけどさ、アリーセ嬢との結婚は受け入れてもいいんじゃない? 百年後の聖剣主のためとか大嘘ついてたけどさ、アリーセ嬢の立場も考えてあげなよ」

「……確かに、問題はそこだな」


 イグナーツは長いため息をついた。目下の悩みどころはそこだった。

 アリーセとの結婚を断ったら彼女はどうなるか、そこまで考えねばならない。

 いくら貴族家や商家にツテがあるといっても、アリーセはあくまで一人の令嬢でしかない。ヴェルマー公爵のような国王派を取り仕切る大貴族ならば、仕事のアテがいくつあっても簡単に握りつぶせるだろう。

 阻止するためにはより強い権力が必要だ。あるいは――敵の力を削ぐ大義名分が。

 ふと思いつくことがあって、「レン」とイグナーツは声を掛ける。


「婚約破棄の慰謝料はどのくらいだろうか」

「え? 僕が知るわけ……」

 レンはそこまで言いかけて、何やら思いついたらしく嫌な顔をする。


「……イグナーツ。何か、よくないことを考えてない?」

 当たり、と胸中でにやりと応えて、イグナーツは呼び鈴を鳴らした。


(俺の人魚姫にしてくれたことの報いは受けてもらう。必ず)


 怒りに共鳴するように、《奈落》からの冥響がゴオーンと鳴り響いた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る