7.お互い様なので謝罪は結構です(2)
(――え?)
突然土下座した王子様の頭を、今度はアリーセが見下ろす立場になる。
きれいな渦を描く銀髪のつむじをぼんやりと眺めていると、イグナーツが突っ伏したまま続けてきた。
「まさかあなたが湯殿にいるなんて思いもよらず、とんでもない無礼を働いてしまいました。疲れていたとか幻覚作用のある魔物の吐息を吸ったとか、そんなことは言い訳にはなりません。なんとお詫びしたらいいのか……! あなたが望むのでしたら、どのような罰も受けるつもりです!」
そこでようやくアリーセは現実感を取り戻した。王族がたかが貴族に頭を下げるなんてとんでもない。土下座ともなればなおさらだ。
「おやめください殿下!」
とアリーセは両膝をついて、できるかぎり目線の高さを王子に近づける。
「どうかお顔を上げてくださいませ! そのようなことをなさる必要はございません。殿下の湯殿を勝手に使った私が悪いのですから」
「いいえ、あなたは何も悪くありません。聞けば、執事長があなたのために湯殿を準備させたと言うではありませんか。それを確認もせずに使用した俺が悪いんです」
「あ、あれは不運な事故ですわ! とにかく、お気になさらないでください! 私も気にしておりませんから……」
本当はものすごく気にしていたが、王子に土下座をされるよりはマシだ。
ぴく、とイグナーツの広い肩が揺れた。彼が絨毯に手をついたまま顔だけを上げる。
「許してくださるんですか?」
上目遣いで見ないでほしい。うるんだ青い双眸が可愛すぎてときめいてしまう。これで二歳も年上だなんて反則だ。
「も、もちろんです」
「肌を見たのに?」
「………」
やっぱり見られていた。
羞恥に顔が熱くなるのを感じながら、アリーセはつとめて冷静に取り繕った。
「私は殿下の妻になるためにまいりましたので……夫婦なら問題はないと思います」
「夫婦」
イグナーツはぽつりと繰り返すと、ようやく土下座を辞めて立ち上がった。
彼も冷静さを取り戻したようだが、それにしては声音に厳しさが感じ取れる。まっすぐと呼ぶにはやや上からの眼差しは、アリーセを通り越して別の誰かを睨んでいるように思えた。
「その件ですが、俺は同意したおぼえがありません。俺の婚約者はあなたの妹君だったはずなんですよ……アリーセ・ヴェルマー公爵令嬢」
うっ、とアリーセは内心でうめいた。
(まさか一目でバレるなんて……)
とはいえ、妹のクラーラは美人で有名だった。髪の色こそ同じでも美人でもない娘が妹の振りをして嫁いできたら、不審に思われてもおかしくないだろう。
「私は――」
「ああ、ごまかそうとしても時間の無駄です。あなたがアリーセ嬢だということはわかっていますので。ひとまず、事情を説明していただけますか?」
「……承知いたしました。ですが、その前に一つよろしいでしょうか?」
「なんですか?」
「どうして、私なんかにそのような丁寧な言葉遣いを?」
湯殿で出くわしたときのことは記憶が曖昧なのだが、あのときのイグナーツはこんな丁寧な話し方をしていなかった。もしかしたら独り言だったのかもしれない。
イグナーツは一瞬きょとんとした後、「ああ」とようやく気づいた様子で左眼の下にある傷跡を掻いた。癖らしい。
「特に理由があるわけではないのですが、あなたに対してはこの話し方が自然というか当然のような気がしたんです。実際、自分ではまったく違和感がありませんし。あなたが不快だと言うのならやめますが」
「不快だなんて、とんでもないですわ」
大げさなほど首を横に振ってみせる。誤解されてはかなわない。
イグナーツの表情が安堵したようにやわらいだ。年相応の青年の素が垣間見えた気がして、アリーセは内心ウッとうめいた。ちょっとした表情の変化すら、いまの自分には刺激が強い。なぜなのだろう。
「そうですか。ではこのままで――それで、事情をうかがっても?」
「は、はい。少し長くなりますので、そちらへおかけになってください」
調子を崩されるのを感じながら、アリーセはイグナーツをテーブルセットへと促した。彼が長椅子に腰掛けるのを待ってから向かいの席に座る。
その間に、いつの間にか退室していたミアがティーセットを載せた銀盆を抱えて入室してきた。土下座騒ぎ中にこうなることを予測して動いていたようだ。ほとんど音を立てないベテラン侍女の所作で、二人ぶんの紅茶を用意する。
(バレたからには、洗いざらい話した方が誠意が伝わるわよね……)
と考え、アリーセは正直に打ち明けた。ただし父や妹にやり返したことや、輿入れしてからのことは重要度が低いので割愛した。
すべてを聞き終えたイグナーツはティーカップを受け皿へ戻すと、
「甘く見られたものだ」
と眉をひそめて不快感をあらわにした。
感情の吐露だからか、このときばかりは敬語が外れている。
「妹がダメになったら姉を身代わりにすればいいと? 王族との婚約をなんだと思っているんだ。王家への忠誠心が少しでもあるのなら、中絶させてでも契約を優先させるのが筋だろうに」
「……おっしゃるとおりです」
過激な発言だが、アリーセも同じことを考えたのは事実だ。
同時に自分は婚約者に見合わない、不合格だと言われた気分になって胸が痛んだ。
「やはり、殿下はクラーラとの結婚をお望みですよね」
「望んでいたわけではありませんが、ここまであけすけに軽んじられると腹は立ちます。愛する婚約者を奪われたあなたにも同情を禁じ得ません」
「愛する?」
ファビアンとは子どもの頃に婚約したから、長い時間をかけてそれなりに愛を育んでいたと思われたのかもしれない。
「エルケンス辺境伯令息とはそこまで親密だったわけではありません」
「……そうなんですか?」
「ええ。まあ、仲が悪かったわけでもないですし、裏切りに傷つかなかった言えば嘘になりますが。それに、いちおう仕返しはしてきましたし」
「仕返し?」
「た、たいしたことはしていませんので……お気になさらず」
「そう言われると余計に気になります。俺のいないところであなたの嫁入りがどう決まったのか、俺には知る権利があると思います」
そう言われると弱い。
「……承知いたしました」
観念して、さきほどは省略した誕生日の復讐内容をぽつりぽつりと口にする。
「――というわけなんです」
アリーセの話に耳を傾けている間ずっとこらえていたのか、イグナーツは「ふっ」と声を漏らしたのを皮切りに、
「ふふふっ、はははははははっ!」
たまらないとばかりに大声で笑い出した。
あまり笑っては悪いという意識が働いているらしく、右手が中途半端に持ち上がっているが、本人にはもうこらえる気はないようだ。
「ははっ、いや失敬。しかし舌先三寸で、よくそこまで……くくくっ。あなたがそんなに気持ちの良い女性だとは知りませんでした。最高だ。ヴェルマー公爵の悔しがる顔が目に浮かぶようだ」
蒼い双眸を細め、白い歯を見せて大笑いする姿は年相応か、それよりも若い青年のようで屈託がない。
そんな彼をぽかんと眺めていたアリーセは、きゅうっと胸が苦しくなる。笑顔がさわやかで可愛いから――というだけの理由ではなく。
(令嬢らしくないと呆れられるか引かれると思ったのに……肯定してくださるなんて)
〝気持ちの良い女性〟という評価に思わず口角が上がりそうになる。
ひとしきり気がすむまで笑うと、イグナーツは指先で目元を拭ってから息をついた。
「あなたのおかげで俺も少し胸がすきました。ありがとう」
「いえ、私は自分のためにしただけですわ」
「そうでしょうね。いまのはあなたの仕返しであって、俺のじゃない」
まるでこれからやり返すという宣言のように聞こえて、アリーセはどきりとした。
イグナーツの表情から笑みが完全に消え失せている。
ここから先はあまりいい話になりそうもない。浮つきかけた気分が一気に冷え込んで急降下するのを感じた。
「どちらにしても、この結婚を受け入れるわけにはいきませんね。いくら家同士の結婚とはいえ、身代わりを立てれば裏切ってもいいなどと思われては困ります」
「……私も同感です。身内が大変なご無礼をいたしまして、恥ずかしく思います」
アリーセが頭を下げるより早く、イグナーツが手で制止してきた。
「あなたに謝られる理由はありません。それと……あなた一人の謝罪ですませるつもりもありません」
強い否定の言葉を放ちながら、「ああ」と断りを入れる。
「誤解のないよう敢えて言いますが、あなたを妻とすることに不満があるわけではないんです。俺がこの仕打ちを受け入れたら、次の聖剣の王子まで軽んじられることになりかねない。それは困るんです。俺には当代の聖剣の王子としての責任があります」
「責任……ですか」
「そうです。悪しき前例を残すわけにはいかない」
アリーセは喉の渇きをおぼえて、ティーカップの縁に口をつけた。
(この御方は、次の聖剣の王子のことまで考えていらっしゃるのね)
過酷な宿命を天から押しつけられたようなものなのに、自分が死んだ百年後のことまで考えて行動している。アリーセの周囲にはいなかったタイプだ。
(クラーラを嫁入りさせていたら、ただでさえ心労の多そうな殿下の負担がさらに増していたでしょうね。だからといって私なら良妻になれるっていうわけでも……)
それについてはアリーセには思うところがあったが、イグナーツが立ち上がったので思考を打ち切った。見送りのためにアリーセも立ち上がる。
「話してくれてありがとう。おかげで事情を把握できました。この件はしばらく俺に預からせてください」
「……承知いたしました」
と一礼しつつも、突き放されたような感覚に襲われて不安になる。
そんな心情が声に出ていたのか、扉に向かいかけていたイグナーツが足を止めて振り向いた。アリーセを見てくすっと苦笑する。
「そんな顔をしないでください。悪いようにはしませんから。お互いにとって、よりよい決着方法を見つけるつもりです――それでは、おやすみなさい」
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