6.お互い様なので謝罪は結構です(1)
(――あら?)
ぱちり、とアリーセが目を覚ますと、そこは大きな天蓋つきの寝台の上だった。
ここはどこ? と一瞬考えてから、《奈落》の城砦に着いてすぐに案内されたアリーセ用の居室にある寝室だと思い出す。窓の外は既にどっぷりと夜の帳が落ちていた。
(いつ寝たのかしら。全然おぼえてないわ……確かお仕着せに着替えて……)
動きやすい格好に着替えてぶらついていたら、新しいメイドと間違われて診療所の手伝いをすることになったのだ。
それからミアがやってきて、湯殿の準備ができていると言われたのだ。それで大きな湯船に浸かってうたた寝していたらのぼせてしまった。さらに運の悪いことに、戦闘を終えた聖剣の王子イグナーツが――
「ああっ!?」
アリーセはがばっと上掛けを剥いで起き上がった。すぐに自分の体の状態を確認すると、絹のワンピースになった寝間着に着替えてあった。
裸ではない。ということは。
「お気づきになられましたか?」
侍女用の控え室の扉が開き、ミアが入ってきた。物音が聞こえたのかもしれない。ほっとした顔で駆け寄ってくると、コップに水差しの水を注いで差し出してくる。
「まずは、お水をどうぞ。脱水症状になってはいけませんから」
言われてみれば喉がカラカラだ。
アリーセはうなずいて、差し出されるままにコップの水をちびちびとすすった。こういうとき一気に飲むとむせることはわかっている。
ゆっくり飲んでふうと息をついてから、アリーセはミアを上目遣いに見た。
「……何があったか、説明してもらえる?」
「湯殿でのぼせて倒れているのをイグナーツ殿下が発見したと聞きました。本当にびっくりしましたよ。お嬢様が裸に浴布だけの格好で運び込まれたときは、本当に肝が冷えました……あ、着替えはこのミアがいたしましたから、どうかご安心を!」
侍女は笑顔で胸を張るが、アリーセは全然安心できなかった。湯殿でイグナーツと出くわしたときの状況がミアが聞いたという話と若干異なるのもあるが、
(イグナーツ殿下には見られたということよね……私も見ちゃったけど)
細身ながら筋肉による隆起がはっきりとしたたくましい体を思い出し、また顔が熱くなってくる。と思ったら、鼻の下にむずがゆい感覚が生まれた。
「お嬢様、鼻血が!」
「うっ、ごめんなさ……」
アリーセが慌てて鼻元を覆うと、ミアがすぐに布巾を用意してくれた。血のついた手を拭い、鼻まわりを圧迫するように押さえてくれる。止血剤を使うほどではなかったので、自然に血が止まるまで安静に過ごした。
ようやく出血がおさまった頃、アリーセは寝台で横になったままミアに目を向けた。額に載せた濡れタオルがズレ落ちてくるのを直しつつ訊ねる。
「……あなたも、イグナーツ殿下にお目通りしたのよね?」
「ええ、もちろんです。殿下みずからお嬢様を運んでくださいましたから」
ミアが笑顔でタオルを取った。タライに張った水にくぐらせてから水気をしぼり、また額の上に載せ直してくれる。ひんやりした感触が肌が帯びた熱を吸い取ってくれるようで心地よい。
「どう思った?」
「え? もちろんとても心配しましたよ。当たり前じゃないですか」
「そうじゃなくて……殿下の印象」
ミアは頬に手を当てて、うーんと虚空を見上げて言葉を選びはじめた。
「お嬢様がお求めの返答かはわかりませんが……ものすごい美形でしたね」
「……そう、ね……」
「ファビアン様も美男子でいらっしゃいましたが、またタイプが異なると言いますか。ファビアン様は虫も殺せないような繊細な美青年でしたが、イグナーツ殿下はお若いながらも美丈夫という印象で、さすがみずから兵を率いて魔物と戦う聖剣の主でいらっしゃるなと――」
そこまで言いかけて、ミアは「あっ」と口元を手で押さえた。気まずそうに目を伏せる。
「侍女の身分でお嬢様の婚約者を評するなんて、分をわきまえないことを申しました。いまの発言はどうかお忘れください」
「気にしないで。殿下の印象を訊ねたのは私の方なんだから」
深々と頭を下げる侍女の頭頂部を見下ろして、アリーセは慌てて取りなした。
実際そのとおりで、ミアは自分の質問に答えただけだ。それを聞きながらアリーセも内心でウンウンとうなずいていたから、分をわきまえないのは自分も同じだ。
(とにかく、はしたない感想を抱いたのが私だけじゃなくてよかったわ)
思い出したらまた顔が火照ってきそうだったので、アリーセはこれ以上考えないことにした。
「少しお腹が空いてきたわ。夕食の時間は過ぎてしまったわよね? 簡単なものでいいから何かもらえないかしら」
「承知いたしました。すぐに厨房へ確認いたします――」
そのとき、扉をノックする音が響いてきた。
音が少し遠いので寝室の扉ではなく、続きの間になっている居室の方の扉だろう。ミアがタライをサイドテーブルに置いて隣室へ確認へ走る。話し声のようなものが聞こえてきた後、侍女は血相を変えて戻ってきた。
「イグナーツ殿下がお越しですっ!」
「なんですって!?」
アリーセは跳ね起きた。その勢いで鼻の詰め物がポロリと床にこぼれ落ちる。
ミアが「どうなさいますか?」と聞くより早く寝台から飛び降り、寝間着のボタンに手を掛ける。
「こんな格好でお目通りなんてできないわ。ミア、支度する時間をいただけるように伝えてきてくれる?」
「承知いたしました」
王族を廊下で待たせるわけにはいかない。貴族令嬢の身支度は時間がかかるのだ。初の対面がひどい格好だったので今度こそしっかりしておきたかった。
伝言を終えて戻ってきたミアが、てきぱきとアリーセの身支度を調える。
彼女が用意したのは普段クラーラが着ていそうな、上等なドレスだった。光沢のある落ち着いた色の繻子織りに、縁取りの長いレースが美しい。
「どうしたの、これ。クラーラの新しいお古?」
「いえ、公爵様が大急ぎで買い付けたようです。素敵ですよね。なんでも、王都で一番人気のお針子の店で、見本品として飾られていたドレスだそうですよ」
「……お父様が? 珍しいこともあったものね。死の前兆かしら」
「冗談が物騒です、お嬢様。ミアが思いますに、お嬢様が殿下に気に入られないとご自分が困るからではないでしょうか」
「なるほど……」
アリーセの見栄えが少しでも良くなるようにと、大急ぎで購入してきたわけか。
新しいドレスは見本品だけあって試着もしやすい構造で、着付けにはさほどかからなかった。とはいえ髪型まで凝っていられる状況でもないので、長い赤髪は緩く編んで胸元へ垂らすことになった。就寝前ならこのくらいが自然だろう。
アリーセは寝室を出ると、居室で立ったまま待機した。準備が整ったむねを伝えに行ったミアは、戻ってくるなり扉の横に避けて頭を下げた。
イグナーツがやってくる気配を感じ、アリーセもまたドレスのスカートをつまんで頭を下げた。部屋の絨毯を踏むかすかな足音のあと、扉が閉まる音が響く。
頭のつむじに強い視線を感じる。やがて、ふー、と吐息が聞こえてきた。
「顔を上げてください。ここは宮廷ではありませんから、無駄な礼儀は不要です」
穏やかな声が降り注ぐように響いてくる。
言われるままに、アリーセはおそるおそるお辞儀を解いた。
イグナーツは秀麗な顔を困ったように曇らせてこちらを見下ろしていた。
淡い色のボタンシャツに胴着、脚衣に革靴というくつろいだ格好だ。だがそれゆえに、彼の体格の良さが薄い生地越しにはっきりと見て取れる。
アリーセの胸はのぼせたときのように脈打った。
(さりげない服装をされているのに、こんなに格好いいなんてありえる? 人柱より国宝にした方がよくない? 無形遺産とかそんな感じの名前で……ああダメよアリーセ、あんまりじろじろ見ては失礼だわ。なのに目が吸い寄せられてしまう……!)
早く挨拶を口にしたいのをぐっとこらえる。
貴族に過ぎないアリーセから王族であるイグナーツに声をかけるわけにはいかない。本人は宮廷ではないから作法は不要だと語ったが、高位の貴族令嬢であるアリーセには礼儀が骨の髄までしみついている。
イグナーツの青い双眸が逡巡するように揺れた。気まずそうに横へ逸れたかと思いきや、彼は何かを決意したかのようにぐっと唇を噛みしめる。
その直後――彼はいきなり膝を折ると、絨毯に勢いよく両手をついた。
「申し訳ありませんでした!!」
アリーセは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
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