5.王子様はお疲れのご様子です

 ――そして、時はアリーセとイグナーツが湯殿で出くわした直後に戻る。


「無理ぃ……」


 とつぶやいたアリーセが浴槽に沈みかけるのを、イグナーツはとっさに腕を彼女の背に回して食い止めた。顔が水面に沈む寸前で抱き留め、夢見心地のままほっとする。


(危なかった。こんなところで寝たら溺れるぞ。いかに人魚姫でも)


 イグナーツは吸い寄せられるように、彼女のこめかみに唇を近づける。夢か幻だと思っていなければ到底できない行為だった。

 ちゅ、と軽く口づけてから、その肌の甘やかな感触と彼女の背中を支える手から伝わる、柔らかい肌の感触と肉体の重みに違和感をおぼえた。


(夢か幻か、どちらかは知れないが、妙に……生々しすぎないか?)


 最後にアリーセを見たのは五年前だ。

 なのに、成長した彼女の裸体をここまで具体的にかつ詳細に思い描けるなんて、自分はこんなにも想像力が豊かな方だっただろうか。

 疲労で朦朧としていた意識が少しずつ冷静さを取り戻していく。そのとき、


「大変だよ、イグナーツ!」


 幼い大音声が湯殿に響き渡り、小柄な人影が飛び込んできた。

 ふんわりとした金髪にくりっとした青い双眸、寝間着のような白い上下を着た紅顔の美少年、いや幼児だった。人間の子供ならば三歳くらいの体型だが、その背には白鳥のごとき純白の翼が生えており、その小さな体は宙を浮遊していた。

 聖剣の精霊、レンだ。

 とはいえあくまで自称だ。彼の姿を視認できるのがイグナーツしかいないからだ。レンという名もイグナーツがつけた。幼い頃に飼っていた犬の名だった。


「ヴェルマー家の従僕が話しているのを聞いちゃった。君の婚約者が輿入れできなくなって、お姉さんのアリーセ嬢が身代わりになったって。アリーセ嬢って、あのアリーセ嬢だよね? 君の恩人で初こ――」


 そうまくし立てていたレンの青い双眸が、イグナーツと、その腕でぐったりとしているアリーセの姿を捉えて丸くなる。

 ここは湯殿であり、当然ながら二人とも全裸である。


「えっとごめん、邪魔をして。僕、物わかりのいい精霊だから見なかったことにするね」


 くるりと空中で方向転換した幼児の襟首を、イグナーツはむんずと掴んで制止した。イグナーツにしか視認できない精霊に触れられるのは、もちろんイグナーツだけだ。


「……待て。いま、なんと言った?」

「だからあ、クラーラ・ヴェルマー公爵令嬢が輿入れできなくなったって」

「その先だ」

「お姉さんのアリーセ嬢が身代わりになったって……そこの彼女が」

「…………」


 ぎぎぎ、と錆びついたかのように動きの悪くなった首を回して、イグナーツは自分の腕の中を見下ろす。

 そこで気を失っている、夢か幻の存在――だと思っていた女性に。


「……本、物……?」

「うん。どう見ても本物だね。てか、幻だったら触れないでしょ」

「………………」


 イグナーツは無言で浴槽から上がると、水浸しのタイルの上にアリーセを横たえた。その美しい裸体をなるべく視界に入れないように目をそらし、大きく息を抜く。


「……死にたい」

「ダメだよ!? わかってるよね!?」

「てっきりいつもの幻かと……」

「あー、幻覚作用のある息を吐く魔物とも結構戦ってきたもんねー。でも今日やっつけた魔物の中にはそういうやつはいなかっ……いやいたかもっ! 僕が気づかなかっただけでいたかもしれないから、あんまり自分を責めないで!?」


 レンに後ろの髪を引っ張られる痛みで、イグナーツは自分が浴槽の湯に顔を突っ込もうとしていたことに気がついた。無意識の行動だった。

 さきほどの彼女に対する行いを思い出し、頭を抱える。


「俺はなんて破廉恥な真似を……」

「うんうん、自分を責めるのは後にしようね! まずはアリーセ嬢をどうにかしないと。のぼせちゃってるみたいだし、体を冷やしてあげないと命に関わるよ」

「た、確かに」


 湯殿はもくもくとした湯気に満ちていて、とても体を冷やせる場所ではない。脱衣所の方がまだマシだろうと、イグナーツは再びアリーセを抱き上げた。裸体は見ないようにして、慎重にかつ丁重に運び、戸を足で開けて脱衣所へ戻る。

 寝台もテーブルもないので、ひとまず床に寝かせることにする。肌に傷がつかないよう慎重に横たえさせ、彼女の胸元から腰の下あたりが隠れるように大判の浴布をかぶせようとしたとき、ふと左肩の痣が目に入った。


「これは」


 思わず手を伸ばしかけたところへ、レンが腕を伸ばして阻止してくる。


「やめておきなよ。これ以上肌に触れたら、君の精神が持たなくなる」

「……それは否定しないが、なぜ公爵令嬢の肌にこんな痣が? まさか、彼女はヴェルマー公爵家で虐待を……」


 腹の奥底でメラッと怒りの炎が起きかけたのを、レンが「どうどう」と取りなしてくる。


「早とちりはよくないよ。旅の途中でできた痣かもしれないでしょ?」

「……そうだな」

「とにかく、さ。今回のことは不運な事故なんだし、役得だと思っておけば? それに夫婦なら一緒にお風呂に入ったって何も問題ないんじゃない?」

「夫婦」


 イグナーツは繰り返した。唐突に登場したその単語に猛烈な違和感をおぼえる。


「誰と、誰が……?」

「君とアリーセ嬢が」

「夫婦……?」

「だからさあ……!」


 話が進まないせいかレンは苛々した様子で、空中で地団駄を踏むしぐさをしてみせる。

 彼が言いたいことはイグナーツにもわかっている。それでもかぶりを振るしかない。


「ありえない。彼女のような人は愛する人と幸せになるべきなんだ。俺とは関係のない、もっと安全な場所で……それがなぜ《奈落》なんかに。婚約者はどうした? 妹君は? こんなこと、到底受け入れられない」

「ありえなくても受け入れられなくても、実際に嫁いできちゃったんだからしょうがないでしょ。異論があるなら、彼女が目を覚ましてから話し合ってみたら?」

「……それしかないか」


 嘆息交じりに言いながら、イグナーツはアリーセに視線を向けそうになって慌てて目を逸らし、体が目に入らないように大きな浴布を被せた。それから自身は手早く下着を身につけて脚衣をはくと、壁際にある呼び鈴を鳴らすための紐を引っ張った。

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