4.奈落に輿入れいたします(2)

 隙あらば一服盛りたがる侍女を送り出し、アリーセは寝室に立ち入って大きな寝台にごろんと横になってみた。

 本当に疲れた。だがそれ以上に体を動かしたい。馬車での長旅で体が硬くなっているのを感じる。ドレスも窮屈でしかたがなかった。

 寝転んだまま、ちらりと部屋の隅に置かれた衣裳櫃を一瞥する。


(着替えちゃおうかしら)


 頭の中で、血の染みが残る洗濯物が風にはためいている。

 どのみち今日はイグナーツに会えそうもないし、目通りの機会がもらえそうならば着替え直せばいいだけだ。

 アリーセは寝台から飛び降りて衣裳櫃に手をかけた。侍女たちはみな忙しそうだし、着替えくらいは一人でもできる。簡単に着られる衣裳なら、だが。


(追い出されたときのために持ってきたものが……あった、これだわ)


 引っ張り出したのは、黒い質素なドレスと白いエプロンだ。一般的なお仕着せに仕様を合わせてあるので、これさえあれば貴族の邸宅などですぐにでも働けるし、動きやすいつくりなのでドレスよりもよっぽど体が休まる。

 ドレスをどうにかこうにか脱ぐことに成功し、お仕着せに着替えるととたんに体が軽くなった。そのまま少し歩こうと思い立って部屋を出る。


(ええと確か、第二城砦は東側が主人の執務と主人に直接仕える者たちの居城で、西側が軍務の場、それと兵士たちの居住空間と療養所になっているんだったかしら? ここは東側だけどまだ廊下は続いているし、とりあえずそちらに……)


 アリーセがつま先を廊下の東の奥へ向けたとき、


「――あなた、そっちは下級メイドは立ち入り禁止よ!」


 突然、叱声とともに肩を叩かれた。振り向くと、似たようなお仕着せ姿の女性が眉をつり上げていた。が、アリーセの顔を見てきょとんとする。


「見かけない顔ね。もしかしてあなた、明日入る予定だった新人?」

「え、いや、私は……なんというか……」


 こんな格好をしているのだからメイドと間違われても当然だろう。かといって王子の身代わり婚約者がメイドに扮する言い訳が思いつかずにいると、


「ちょうどよかったわ、人手が足りないの。さっき第一から怪我人が運び込まれてきたばかりでてんてこまい。一日早くて悪いんだけど手伝ってちょうだい!」

「え? あ、ちょっと……!」


 お仕着せの女性に引きずられそうな勢いで、アリーセは目指していたのとは逆の方向へ向かうことになった。

 そうして半刻後――


「アリー、ちゃんとその人を押さえつけて!」

「はいっ!」

「あんたも、痛いでしょうけど我慢して! そんなに暴れられたら処置できない!」

「わ、わかって……うぐううぅ……!」


 アリーセは怪我人だらけの療養所で、痛みを伴う治療にのたうつ負傷兵を寝台に押さえつけるという大役を仰せつかっていた。

 療養所は元々大広間として作られたと思われる横長の広い一室だった。

 ベッドが数十台ほど整然と並べられており、そのすべてが負傷兵で埋まっていた。ベッドが足りないのか単にスペースが惜しいのか、床に敷いた毛布の上で応急処置を受けている者もいた。白衣の医務官たちも医療器具や薬品を載せたワゴンと一緒にせわしなく動き回っており、お仕着せの使用人たちも何名か駆り出されていた。アリーセを連れてきた女性も既にその中に参戦している。


(ここって、いつもこんななの? 戦場みたいじゃない……)


 ちなみにアリーというのはとっさに出た偽名だ。愛称なので嘘にはならないだろう。


「ぐああああっ!」


 ザックリと裂けた傷を洗われる痛みはとんでもないらしく、無精髭の負傷兵はすがるようにアリーセの左肩を強く握りしめてきた。あまりの痛みにアリーセもぐぅっと小さく悲鳴をあげる。骨が砕けてしまいそうだ。

 だがそれ以上に心配なのは負傷兵の方だ。治療の痛みに耐えるため、思い切り歯を食いしばっている。このままでは歯が折れてしまうかもしれない。また、口で呼吸をしているのも気になった。口腔からの激しい呼吸は過呼吸になるおそれもある。

(ちょっと危険だけど、しかたないわね)


「歯を食いしばっちゃダメ! 口を開けて!」


 負傷兵は医務官の指示と思い込んだのか、言われるままにぱかっと口を開ける。その隙間に、アリーセは清潔な布巾を突っ込んだ。


「噛んでいいわ! 落ち着いて、鼻で呼吸をしてください!」

「……ふんっ、ふー、ふーっ」


 その拍子に肩を掴む手が緩んだので、アリーセはさっとその手首を掴んでマットへ誘導し、シーツを掴ませた。


「ふ、ふままい……」

「謝らなくていいですから、ゆっくり呼吸して!」


 負傷兵は脂汗まみれの顔でうなずくと、布巾をしっかり噛みしめてふーふーと鼻で呼吸し、ときおり傷口をえぐられる痛みでくぐもったうめき声を響かせる。

 医務官が消毒し終えた傷を縫合し、ガーゼを当てて包帯を巻いたら処置は終了だ。


「――はい、もう大丈夫。ちゃんと安静にしていれば数日で動けるようになるわ。もちろんお酒は厳禁だからね!」

「わかってるよ……怖えなあ、ハイネは」


 精根尽き果てた様子の負傷兵が、唾液まみれになった布巾を外してぼやいた。本当に限界だったらしく、汗まみれの顔のまま寝息を立てはじめる。鎮痛薬が効いたらしい。

 ハイネと呼ばれた医務官はタライの水で両手を洗うと、髪を覆っていた防護布を外してふうと息をついた。癖のない金髪が肩にすべり落ちる。あらためて見ると、凜とした風情のきれいな女性だった。年齢はアリーセより十は上で、背は頭一つぶんは高い。


「ありがとう、助かったわ。初めてとは思えないくらいの手際の良さね」

「昔、湖の近くに住んでいたから、溺れた方の救命処置の経験があっただけです。水中で怪我をする人もいたので」


 アリーセは正直に打ち明けた。人魚なんて呼ばれるきっかけになった経験が、こんなところで役に立つとは、人生何があるかわからないものだ。


「一刻を争う処置の経験があるなんて、心強いわ。私はハイネよ。よろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 差し出された手を取り、握手を交わす。雇われたわけではないが、同じ城砦で暮らすのだから「よろしく」で問題ないだろう。しっかりと手を握られたとき、ずきりと肩が痛んだ。さきほどの負傷兵に掴まれたところだ。


「肩、大丈夫? あいつ力の加減ってものを知らないから。軟膏を塗ってあげるわ」

「このくらい大丈夫ですよ、本当に――」


 いま軟膏を塗ってもらっても湯浴みで落ちてしまう。負傷兵のための貴重な薬を無駄にさせるわけにはいかない。なんと言って断ったらいいのかと難儀していると、


「あっ、あなた! そんなところで何をしているのっ!」


 と聞き覚えのある声が響いてきた。

 顔を向けると、侍女のミアが顔面蒼白になってこちらに駆け寄ってきていた。


「こ、こっちも手が足りないのに、困らせないでください! 戻りますよ!」


 アリーセの状況を一目見て察したらしく、話を合わせてくれたようだ。ありがとう、と目線でお礼と謝罪を伝えると、彼女は半泣きの目で睨んできた。お怒りのご様子だ。

 ハイネが目を丸くする。


「やだ、他に仕事があったんだったら言ってよ。ごめんね、引き留めて」

「いえ、いいんです」

「よくありませんっ! 戻りますよ!」


 ミアはこれ以上ハイネに関わればボロが出ると思ったのか、アリーセの手首を掴んで大股で診療所を出ていった。強引だが、いい判断だった。


「ありがとう、ミア。助かったわ」

「お願いですから余計なことはなさらないでください。ミアは肝が冷えました」


 涙目でぷりぷりと怒る侍女が可愛くて、アリーセは思わず噴きだしそうになった。


「執事長が湯殿の準備ができたとおっしゃっていましたよ。このまま湯殿に直行いたしましょう。その格好のまま戻れば使用人のふりをしていたことがバレますし」

「確かにそうね……」


 アリーセはさきほどの手伝いで血しぶきのついたお仕着せを見下ろした。輿入れ早々、間者のような動きをしていたと思われたら印象が悪くなる。


「もう、本当になんでそんなことを……お疲れすぎておかしくなりましたか? 気付け薬がありますけど飲みます? 馬でもガンギマリになる強烈なのがありますが」

「い、いらないし、悪かったってば! 大人しくお風呂に入るから、後で着替えを持ってきてくれる?」


 思えば、判断を誤ったのはこのときだったのかもしれない。

 執事長に見つからないように部屋へ戻り、適当なドレスに着替えてから改めて湯殿へ行っていれば、王子と全裸で対面するなどという間違いは起きなかったはずだ。

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