3.奈落に輿入れいたします(1)
ヴェルマー公爵領を出立して十日ほど経った頃、アリーセたちを乗せた馬車列は《奈落》のあるゴルヴァーナの地へ入った。
第二王子イグナーツは三年前に聖剣を授かってから、《奈落》の淵に建設された城砦でみずから騎士団を率い、魔物と戦いつづけているという。
窓の外へ目を向けてみれば、葉のない木々がまばらに映える荒野が見えた。
――ゴォォォォーン――
もの悲しい風景に、教会の鐘を思わせる大きな反響音が轟いてきた。鐘の音にしては大きく不気味さがあったが、同乗する侍女ミアは安堵したように少し表情を緩ませた。
「お嬢様、近くに教会があるようですよ。立ち寄ってお祈りしてまいりましょう!」
「ミア、これは鐘の音ではないの。冥響といって、《奈落》から響いてくる自然音よ」
アリーセが説明すると、ミアはひぇっと小さな悲鳴をあげた。心に平穏を与えてくれる鐘の音と思えたものが、まさか不安の元凶である《奈落》から響いてくるものだとは思いもしなかったようだ。
「ああ神様、どうか不幸な我らに一片の慈悲を!」
「ミアったら、大げさね」
「噂の死地、魔物の巣窟の《奈落》に来たんですよ!? 怖くて当たり前です! ……お嬢様は妙に落ち着いていらっしゃいますけど……」
「輿入れが決まってから《奈落》について少し勉強したから、不必要に怯える必要はないとわかったの。大丈夫、殿下に追い出されたときのための準備もしてあるから」
父からの提案を受け入れてから、アリーセは、
「《奈落》について勉強する時間をください」
と言って時間を稼ぎ、その間にツテのある高位貴族の令嬢や豪商の令息などと連絡を取りまくった。そのうち、複数の家から勘当されときは使用人として雇ってもいいと約束を取り付けられたし、アディソン公爵家の令嬢からはクラーラたちに復讐をしたければ協力するとまで申し出られた。これ以上ない収穫だった。
(逆に、イグナーツ殿下の子を宿して政争に巻き込まれたときには後ろ盾になる、とも言われたけれど……そちらの可能性は薄いでしょうね)
十中八九、身代わりなど即バレして追い返されるとアリーセは踏んでいる。
それでも万が一イグナーツの寵愛を受けられて、王太子に複数の妃がいる状況で未来の王の母となったらどうなるか、考えてみた。
おそらくだが、王太子の側妃に迎え入れられ、子は王太子の養子となるだろう。その後自分がどのような待遇を受けるか。想像してみたがあまり明るい未来は見えなかった。
「……それでもミアは、お嬢様が気の毒でなりません。お嬢様は何も悪くないのに。悪いのはクラーラ様とファビアン様なのに……」
ミアはぐっと唇を噛みしめて続く言葉を言いよどむと、しばらく思考を巡らせてから何やら決意したような顔になって再び口を開いた。
「お嬢様、もし、もしもですけれど……この世を儚むようなことがありましたら、どうぞミアにご用命を! 実家のクランツ商会の力をもってすれば、苦しまずにこの世とお別れできる薬を複数ご用意――」
「そういうのはいらないから……あんまり思い詰めないで、ね?」
心配性をこじらせた侍女から身の危険を感じ、アリーセは冷や汗とともにとりなした。
そこからさらに馬車に揺られること半日ほどで、城砦の手前にある長大な城壁にたどり着いた。
城門で身分確認をすませると、いよいよ城砦の内部へ通される。
城砦は二重構造になっており、《奈落》に接するように建てられた第一城砦と、そこから少し南に離れた第二城砦とで構成されている。アリーセが輿入れしたのは第二城砦だ。
玄関アプローチで馬車を降りると、男性用の上等なお仕着せの男に出迎えられた。
歳は四十路ほどで、亜麻色の髪を整髪油で後ろに丁寧に撫でつけている。広い額と理知的な双眸には高い品性と憂慮が感じられた。
「ようこそお越しくださいました、ヴェルマー公爵令嬢。長らくの旅路、大変お疲れさまでございました。私はこの城砦の執事長を任されております、ヤコブと申します。以後お見知りおきを」
彼はアリーセを「ヴェルマー公爵令嬢」と呼んだ。「アリーセ」とも「クラーラ」とも受け取れる。嘘をつくのは心苦しいと感じていたので、アリーセは名乗りを省略した。
「お出迎えに感謝いたします。こちらこそ、どうぞよろしく。ところで、イグナーツ殿下はどちらに? 今日はお目通りできるのかしら?」
「第一城砦におられますので、本日中にお目通りできるかどうかは……実は文が届いたばかりでして、殿下はまだご覧になっていないかもしれません」
遠方へ手紙を送る場合には〝伝書鷹〟を使うのが基本だ。中でも「三速」に分類される最速・長距離用を使えば、馬車で一週間の距離を二日で運べるはずなのだが。
(お父様ったら、わざと一速を使って手紙を遅らせたわね? 殿下が急に早まった輿入れを疑問に思われて、確認される時間を作らないために)
そんなこんなで、アリーセは城砦の中へ案内された。馬車に同行した従者たちが荷物の搬入をはじめたので、アリーセはミアだけを伴って執事長の後についていく。
城館は外観通りの堅牢で実用的な造りをしていた。上等そうな絨毯こそ敷かれているものの、調度品は威厳を保つための必要最低限といった程度で、美術品などは一切ない。
ミアはそれが不満らしく、アリーセにだけ聞こえるくらいの小声で愚痴った。
「……こんな地味なお屋敷、お嬢様にはふさわしくありません」
「……いいじゃない。お父様のような権威主義者よりよっぽどいいわ」
それよりも、誰ともすれ違わないことの方が気にかかる。
ヴェルマー公爵家の三倍以上の使用人がいるはずなのに、廊下を歩いていてもまったくすれ違わない。それだけ多くの者が魔物との戦闘支援に回されているのだろう。
長い廊下を西に向かって歩きながら、ふと窓の外へ目を向ける。
中庭に向いた窓の外には、たくさんの洗濯物が風にそよいでいた。北側の棟が使用人棟になっているのだろう。医療従事者のものらしき白衣もあれば、血の染みが残ったシーツや病衣などもある。
作法に則った華やかなドレス姿が場違いなものに思えたとき、執事長が足を止めた。
「こちらが奥様のお部屋になります」
淡色の壁紙に囲まれた品の良い一室だった。家具も調度品も一級品で揃えられており、続きの間となっている寝室には大きな天蓋付き寝台が用意されていた。イグナーツの婚約者が輿入れするときのために用意されていた部屋なのだろう。
このすべては妹が捨てたものだと思うと、妙な気分になった。
「長旅でお疲れでしょう。お夕食の時間まで、どうぞこちらでごゆるりとお過ごしください」
「どうもありがとう」
「すぐに湯殿をお使いいただけるよう準備をいたします。このあたりは温泉が多く湧いておりまして、当城砦の湯殿は源泉掛け流しとなっております。きっとお気に召していただけると自負しております……他に何かお申し付けがございましたら、呼び鈴を鳴らしてください」
それでは、と執事長は一礼して去っていった。
連れてきた侍女や従者たちがさっそくアリーセの私物を運び込み、整理しはじめる。
「お嬢様、すぐにお茶をご用意いたしますね! このミア、実は滋養強壮にいい薬を持ってきておりまして――」
「薬なしの、普通のお茶にしてちょうだい……」
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