2.誕生日に寝取られが発覚しました(2)

 一瞬にして、場の空気が凍りついた。

 クラーラとファビアンが言葉を失い、父の両目からは感情の色が消えた。いままでの及び腰はどこへやら、妹だけを溺愛し姉を冷遇する、残酷な公爵の顔になる。


「おまえに拒否権があるとでも思っているのか? うぬぼれるな。勘当されたいのか?」


 鼻で笑う父に、アリーセはにっこりと笑顔で返す。

「どうぞご自由に。私にはツテがありますから、自分一人くらいは養えます」

「なんだと……!?」


 この反応は予想外だったらしい。

 上級貴族の令嬢は通常、勘当されたら野垂れ死ぬだけだ。

 美貌と手管があれば貴族や富豪の愛人や娼婦として暮らしていけるだろうが、アリーセはそれほど美人ではなく、うぶなので男を虜にする手管も知らない。だが。


「お父様も、私が『人魚』と呼ばれていることをご存じでしょう。あれは別に、領地の湖で泳ぐのが趣味だからついたあだ名ではありません――あの湖で水難事故に遭われた方を何度も救ってきた実績があるから、そう呼ばれているのです。おかげで私、お父様が把握されている以上に強いツテがたくさんあるんですのよ」


 ヴェルマー領は毎年夏になると多くの貴族や富豪が訪れる人気の避暑地だ。

 特に三つの小さな湖が連結しているボーグ湖が有名なのだが、この三つのうちの一つ、第三湖に問題があった。

 他二つよりも水深が深く、水草は長大で絡まりやすく、そのくせ穢れた海と同じ水が湧き出るポイントでもあるのか、ボートに穴やヒビが発生しやすいのだ。

 以上の理由から、第三湖には地元の者ならば決して寄りつかないのだが、一番景観がいいこともあって毎年忠告を聞かない貴族がどうしても出てしまうのだ。

 加えて、泳ぎの得意な貴族はめったにいない。アリーセが泳げるのは、幼い頃から湖近くの屋敷で暮らしてきており、自衛のために身につける必要があったからだ。

 ここ四年ほどで、アリーセは第三湖で溺れた観光客を何人も救っている。その中には、有力貴族や豪商の令嬢や令息もいた。


(一人だけ素性のわからない人もいたけれど、ほとんどの人はすごく感謝してくれたし、何かあったらいつでも力になると約束してくれたのよね)


 本当に力を貸してくれるかは若干不安が残るが、彼ら彼女らとは定期的に連絡を取り合い、良好な関係を築けている。期待しても大丈夫だろう。


「私がお願いすれば、侍女や家庭教師として雇ってくれそうな家が少なくとも三つはあります。ああ、裕福な商家の方もいましたから、もしかしたら私を従業員として働かせてくれるかもしれません。命の恩人だと泣いて感謝してくださいましたし……」


 ここまで言ってからチラリと父の様子を見ると、彼は怖い顔をして拳を震わせていた。

(このくらいでじゅうぶんかしら。お父様を本気で怒らせて、縄でぐるぐる巻きにされて荷物のように《奈落》へ送られても困るし……)


 アリーセの目的はあくまで選択肢があるかのように見せかけること。強硬手段に出られては太刀打ちできるはずもない。ここらで折れるべきだろう。


「ですが――」

 と、アリーセはもったいぶって付け加えた。

「お父様には育てていただいたご恩がありますし、なんの罪のない使用人たちを路頭に迷わせ、迷惑を掛けるのも本意ではありません。私のお願いを一つ聞いてくだされば、イグナーツ殿下への輿入れをお受けいたします」


 その言葉に父がハッとして、すがるような目を向けてくる。

「ほ、本当か!? なんだ、お願いというのは。なんでも言ってくれ!」


 言質は取った、とアリーセは内心でほくそ笑んだ。

「クラーラとファビアン様にお父様の持つ爵位すべての継承権を放棄させること。これが条件です」

「…………は?」


 クラーラは別として、ファビアンもアリーセと結婚してヴェルマー家に婿入りし、近い将来、父の有するいくつかの爵位を受け継ぐ予定だった。父にしてみれば婿と結婚させる娘が姉から妹に変わったくらいのつもりだったのだろう。

 だが、そうはさせない。

 母が他界してからずっと冷遇に耐えてきたのだ。それなりに好感を持っていた婚約者まで奪われたのだから報いは受けてもらわねば困る。


(ボーグ湖の人魚三姉妹を見習わなくちゃね)


 伝説の人魚たちはみな一途で愛情深く、湖で漁をする人々にも協力的だが、裏切ったり害をなしたりした者を絶対に許さない。湖底へ引きずり込んで溺死させるのだ。


「二人は両家の顔に泥を塗ったのですから当然でしょう。爵位はヨーゼフ叔父様に継いでいただくのがよろしいかと。お父様とは十二も歳が離れていますし、後継者としても不自然ではありません。何より殿下の婚約者に手を出すような男にヴェルマー家を継がせては、王家との信頼関係にヒビを入れることになりかねません」

「ぐ、それは……た、確かにそのとおりだが……」

「お父様っ!?」


 クラーラがそんな話は聞いていないとばかりに驚いた声をあげる。一度は父にすがりついてみせたものの、彼の心が完全にアリーセ側に傾いてしまったことを察すると、きっ、とこちらに非難がましい目を向けてくる。


「お姉様! いくらファビアン様を盗られて悔しいからってあんまりじゃ――」

「それからファビアン様」


 アリーセはクラーラの発言を強めの声で遮り、婚約者もとい元婚約者に目を向けた。

 ファビアンはあわれなほど怯えた様子だったが、アリーセには彼をいじめ、もとい糾弾するつもりはない。つとめて優しく微笑みかける。


「そんな顔をなさらないでください。私はあなたを恨んでおりません」

「……僕を許してくれるのかい?」

「それを決めるのは私ではないでしょう。もちろんお父様でもクラーラでも、あなたのお父様でもない……あなた自身なのではありませんか?」

「……っ!」


 ファビアンがはっとした顔になる。いい反応だった。

 アリーセはわかっていますよと言わんばかりに胸へ手を当て、畳みかける。


「他の誰でもない、過ちを犯したあなた自身があなたを許せないのではありませんか? 行いに対する相応の罰を受けたいと感じておられるのでは? 爵位を継承しないことですべての甘えを断ち切り、ご自分の力だけでクラーラとこれから生まれる子を守って生きていく……それこそがあなたの償いであり、父親としての覚悟なのではありませんか?」


(私に対する償いにはまったくならないけれどね。でも、彼にはこういうおキレイな言い方が『効く』のよ)


 ファビアンは基本的にいい人なのだ。人より少しだけ流されやすくて、人より少しだけ自分に甘く、そして少しだけ短絡的なだけで。

 アリーセの読みどおり、ファビアンは天啓を得たとばかりに目を輝かせた。


「君の言うとおりだよ、アリーセ。僕は断罪されたかったのかもしれない……」

「ファビアン様!?」


 クラーラが何を言ってるのこの人、とばかりに声をあげるが、ファビアンの自罰感情で潤んだ眼差しは恋人の方を見ていなかった。


「僕は君を裏切った。その罪は一生背負って生きていかなければならない。こんなことでは君への償いにはならないだろうけど……いまは、君の寛大さに甘えさせてほしい」

「大変な苦労をなさるでしょうが、頑張ってください。クラーラとお腹の子のためにも」

「ああ……!」

「どうしてそうなりますの!?」


 クラーラがまたも素っ頓狂な声をあげる。

 一連の話の流れがおかしいことに気づいているのは、アリーセ以外ではもはや彼女だけだ。父にすがりファビアンにすがり、二人とも説得は不可能だと判断すると、噛みつかんばかりの勢いで詰め寄ってくる。


「こんな嫌がらせはあんまりですわ! ファビアン様が爵位を継げなかったら、お腹の子はどうなってしまいますの!? 赤ちゃんに罪はありませんわ!」

「何を言っているの、クラーラ。私は別に、ファビアン様がうちの事業に関わることまでは禁じていないわ。それに、あなたたちの子にヴェルマー家の爵位を継がせないでほしいだなんて、一言も言っていないわよ?」

「……え?」


 クラーラが拍子抜けしたような声を漏らす。

「お父様の爵位は叔父様に継いでいただくとして、その後のことまでは口出しするつもりはないわ。あなたたちの子どもが将来爵位を継げるよう、叔父様とよく相談するといいわ。もしも揉めるようなことになったら、私もあなたたちに加勢してあげる」

「……本当に?」

「もちろんよ。甥っ子か姪っ子かわからないけれど、可愛い妹の子どもだもの。心から幸せになってほしいと願っているわ」


 にっこりと答えつつも、

(まあ無理でしょうけど。叔父様はまだお若いし、奥様との仲もいいし)


 貴族ならば誰だって自分の子に爵位を継がせたいだろう。それを、王家に睨まれる要因を作った姪と略奪婿との間に生まれた子に譲るとは到底考えられない。

 が、それについては口にしないでおく。父の寵愛を一身に受け、優しいファビアンを落としたクラーラである。彼女なら叔父を丸め込める可能性はじゅうぶんある。多分。

 アリーセは気を取り直して、ぱんっと手を打った。


「それでは、さっそく書面を作成いたしましょう」

「書面?」

 父が訝しげな目を向けてくる。

「ええ!」とアリーセはつとめて明るく振る舞った。


「記憶だけではすぐに曖昧になってしまいますもの。きちんと書面に残しておけば憂いなしです。叔父様にもすぐにお知らせしましょう。そうそう、法的に正しい書面にするために公証人も呼ばなければなりませんね。さあ、善は急げですわ――」


 そこから先はトントン拍子に話が進んでいき、アリーセは家族と婚約者に裏切られた薄幸の令嬢にはとても見えない晴れやかな表情で、《奈落》へ向けて出立したのだった。

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