海とブドウ

デリカテッセン38

第1話 扇面の的(せんめんのまと)

 朝日が、寄せる波頭をきらめかせる。

 明けの明星みょうじょう海原うなばらの上にもう見えない。


 浜辺に馬蹄ばていを轟かせて走って来た弓削之介ゆげのすけは、栗鹿毛くりかげに十分な速さを保たせると、両足で馬体を挟み込み、手綱たづなを手放し上体を起こし、左手の弓を上げて右手で矢をつがえ、弓弦ゆつるを引き絞って、海へ射た。

 波の上の小舟では、

「うおっ!」

と、精吉しょうきちが声を上げた。身をのけぞらし、おうぎを立てた旗竿はたざおごと、ザンブと水しぶきを上げて海に落ちる。

「ど、ど、ど、どおおっ!」

 弓削之介は、慌てて栗鹿毛に声を掛けた。

 同時に、弓を握ったままの両手で手綱を引けば、栗鹿毛は、軽く前足をあがいて止まり、迷惑そうにこちらを見る。

 視線を無視して馬より飛び降り、みぎわに駆け寄って、手をひさしにして打ち眺めると、やがて、波間に精吉が頭を出した。

 そうして、小舟に泳ぎ寄ると、旗竿のみを小舟に投げ込み、自身は海に浸かったままで小舟を押してこちらに泳いで来た。

 弓削之介は、「ふう!」と息を吐いた。

 しばらくは、前屈まえかがみになって両手を膝に置いていたが、すぐに、自身も大股で波間に駆け込み、精吉が浅瀬まで押して来た小舟を、舳先を掴んで引き上げた。

 浜に上がると、

「無茶にござりまするな、若君わかぎみ!」

 精吉が、口からぺっぺと潮を吐きながら、声を張り上げた。

 しかし、ゴロゴロと音を立てて再び迫る波を見て、二人は、小舟を、急いで乾いた砂の上まで引いて行った。


 弓削之介は、あはははと笑いながら、弓を放り出して、浜辺の草むらにひっくり返った。


 精吉が、栗鹿毛を引いて歩いて来た。

那須与一なすのよいちも、流鏑馬やぶさめで扇を射たのではござりませぬぞ!」

 そう言って、金棒を浜に突き刺して、栗鹿毛を綱でつなぐ。

 そうして、今度は、着物を脱いで下帯一枚の姿になり、びしょ濡れの衣類を両手で絞っている。

「この精吉めでなければ、旗竿を持った平家の女房を射ておったでございましょうな、若君のお腕では!」

「ぬかせ!」

 弓削之介も、寝ころんだままで声を返した。

「的が悪い!」

「なんと?」

「竿を持っておったが、精吉であったから外したのじゃ。見目麗みめうるわしい平家の女房であったならば、扇面せんめん的中てきちゅうさせたわい!」

「何を言われるやら」

 精吉が鼻で笑った。

「若君がお狙いなさるは、扇面の的ですかな? それとも、平家の女房ですかな?」

 精吉がそう言うと、栗鹿毛が、ブヒヒヒンと笑うようないななきを上げた。


 精吉は、離れて行き、別の草むらに着物を広げる。

 そうして、離れて置いた荷物を取って戻って来ると、背負い袋から、竹皮の包みを取り出して、弓削之介の腹に載せた。

「お?」

 大振りの握り飯である。にわかに空腹が覚えられた。

くりやより、頂戴して来申した」

「気が利くのう!」

 弓削之介は、身を起こして砂浜に座り直すと、竹皮の包みを開き、二つある握り飯の一つを掴んで、精吉に差し出した。

滅相めっそうもござらぬ!」

 身を引く精吉に、

「良いから食え! 主君だ家臣だと申したところで、わしなど、部屋住みの次男坊だ。儀礼ぎれいなど要らん」

「そうは参りませぬ」

「ようは言うわ!」

 弓削之介も、鼻で笑って見せた。

「おぬし、先日、わしの隠し酒を飲んだであろう!」

 そう言うと、精吉の顔が白く凝り固まった。

「ガラスびんの半分も飲みおって!」

 すると、精吉は慌てて、

「半分も飲んではおりませぬ! 茶碗に一杯!」

と言って、「あ!」と口を押えた。

「まったく!」

と言って、握り飯を精吉に押しつける。

「いつか、現場を押さえて成敗せいばいしてくれようと思っておったところじゃ!」

 そう言って、自分の握り飯を食べ始めると、精吉も、並んで座って食い出した。


 栗鹿毛も、綱の届く辺りで草をんでいる。

 海から風が上がって来て、たてがみを揺すると、顔を上げてひとしきり浜を眺め、ブルッと頭を揺らした。


「しかしながら、」

 精吉が声を上げた。

 日が昇るにつれて、その体からは湯気が上がっている。

「あれは、変わった酒でござりましたなぁ。甘いような酸っぱいような」

 握り飯を食い終えて、指をなめている。

「そもそも、色がなんとも。それがし、最初は、若君が醤油しょうゆを隠し飲んでおられるのかと思いましたぞ!」

「あれは、ブドウで造った酒だそうじゃ」

 弓削之介も、握り飯の最後のひと口を、竹筒の茶と共に喉に通して、言葉を返した。

「ブドウでございまするか?」

 精吉が驚いて聞き返すのに、茶の竹筒を「飲め」と投げて渡す。

「長崎に遊学していた小沢が、先日、戻って来たであろう? あやつが土産みやげにくれたのだ」

「長崎土産にございますか?」

南蛮なんばんの品だそうじゃ」

 弓削之介は答えた。

「珍しいもので、楽しみに隠しておいたに、まったく!」

 そう言って、海を眺める。

「あれは、毒見どくみにござる。若君が、あやしい仙薬せんやくなどされて、お身体を壊されては困りますからな」

 精吉が、まだ、つまらぬ冗談などを言っている。


 風が、髪のびんをふるわせて行く。

 外海そとうみに面した浜辺では、波が、季節を問わず静まる事が珍しい。

 大きな波が、のったりした間で寄せては返す。


「不思議なもんじゃのう!」

 弓削之介は、嘆息たんそくした。

「この海の向こうには、ブドウで酒を造る国があるそうじゃ。じゃと言うに、わしは、こんな領国のはずれで、扇面の的を射ることも出来ぬ」

「若君も、馬に乗らずに、浜に立ち、足場をしっかり整えて射れば、船上の的にも当てられましょうぞ?」

 精吉が、くっくと笑う。

 そう言う話ではないのだがな、と、弓削之介は海を眺めていた。

「それに、若君にも、どの様な行く末が待っておられるかは分かりませぬぞ。お世継ぎであられた兄上様が昨年亡くなられた。となれば、若君に、どの様な幸運が回って来るやら」

不穏ふおんな事を申すな」

 弓削之介は、じろりと精吉を睨んだ。

「兄上には、遺児いじの幸松丸が江戸におる。あの坊が、花坂はなさかのお家を継げば良い話だし、父上もまだまだご壮健そうけんじゃ」

「しかし、幸松丸様は、まだ3歳であらせられますからな――」

 精吉が言うのを途中で聞き流して、弓削之介は立ち上がった。

「なんじゃ、あれは?」


 海に、そうじょうの気配が感じられた。


~ 第2話に続く ~

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