Fin.

西野ゆう

終わりを知らない人たち

「じゃあ、お疲れっしたあ」

「お疲れえ、また明日」

「ういっす」

「ああ、沖寺はちょっと、いいかな?」

 皆が業務の終わりに散り散りにそれぞれの帰るべき場所や、帰るべき場所に向かうのを後回しにするための場所に向かう中、私は呼び止められた。

「え? いやあの、私は」

「女と予定でも? ないっしょ。まあ、五分で済むから、五分で」

 上司の河合は二台並んだパソコンのモニターの隙間から私の方をチラリと見て、鼻で笑いつつ私の時間を奪った。

「はい、予定はないですけど」

 予定はないが、職場からは一刻も早く出たい。そう思った私は、この仕事を辞めるという選択肢をこの時に持った。


「沖寺ね、今月の目標と今日時点での実績、言える? ちゃんと把握してる?」

「してませんね。なので、私辞めます」

「は? 辞めるって何を? その勤務態度を改めるって」

「この会社、辞めます」

 再び河合がモニターの隙間から侮蔑の笑みの破片を飛ばしてきた。

「別にお前にやめられても困らんが、それなりの筋を」

 ヘラヘラと人を馬鹿にした口調で話す河合に腹が立ったわけではない。そう思う。ただ、手っ取り早く辞めるには、この方法もアリだと思った。私はとにかくこの場を一刻でも早く去りたいのだ。

 河合のデスクの前に真っ直ぐ立っていた私は、両肘を軽く曲げて、腕でバランスをとりながら素早く左足を右足の前に交差させるように踏み込ませた。

 左肩越しに河合の目を一瞬睨み、狙いを定めて、首、肩、腰と上から順番に回転させる。今度は右肩越しに河合の笑みが消えた顔を睨みつけ、左足一本で前方に跳躍すると共に、体重と遠心力の大半を右足の裏に乗せて、モニターの間をかき分けるようにして河合の喉元にぶつけた。

 首の骨が折れる感触が、足の裏から股関節、脊椎を通って脳を突き抜けた。

「短い間でしたがお世話になりました」


 私はこの日、こうして会社を辞めた。

 田舎の三流大学を卒業して、都会のこの会社で働くことが私の物語だったなら、今頃テーマソングと共にエンドロールが流れ、全てが終わっている。

 エンドロールを最後まで見る物好きもいないだろう。

 しかし、まだ終わらない。

 終わってくれてもいいのに。いつ終わってくれても。

「お兄さん、お仕事の疲れ、癒していきませんか?」

 なぜ会社から駅に向かう途中にこんな小さな歓楽街が押し込まれているのか。

 この都市の街づくりは間違いだらけだ。

「疲れてないから」

 客引きを断るセリフとしては可笑しかったのだろう。明らかにその容姿だけで今の仕事を任せられている女は素の笑顔を見せた。

「疲れてなくても、いかがですか? 二時間で五千円だけですよ」

「すみません、無職でお金ないので」

 嘘だ。

 無職なのはたった今無職になったばかりだが、金はある。多くの人間が、労働意欲を失う程度には。

「やだ、お兄さん本当に面白いですね」

 私は面白い話などひとつもした覚えはない。それなのに、なぜ今目の前にいる女はこんなに笑っているのか。

 ああ、私の話を笑っているのではない。私という人間を笑っているのだ。

 私は下から覗き込むように私を見て笑う小柄な女の顎の下を右手一本で掴み、右耳の下に親指を強く押し込んだ。

 五秒とかからなかった。

 私が手を離すと、女は普通では絶対に倒れない倒れ方でアスファルトに崩れ落ちた。もうこの商売ができるような顔ではなくなっている。

 まだだ。まだ終わりを迎えない。

 終わり。

 終わりとは一体なんなのか。

 私の終わりは、このまま警察に捕まり、十分な証拠で短期間に終わる裁判の後に死刑が執行されることか。

 それともその前に手っ取り早く自害することか。

 あるいは、私以外の全てが終わることか。

「もう一人くらいいっといた方が確実か」

 私がそう考えている横で、顔面とぐにゃりと曲がった腕で身体を支えるように蹲ってオブジェのような格好になっていた女の尻を、子供が足でじわっと押している。

 私の中学生の娘だった。塾の帰りに私の姿でも見つけたのだろう。

「お父さん、まだ帰らないの?」

「ん、帰るよ。今帰っているとこじゃないか」

「ふうん、それにしては遊びがすぎるね。これ、使う?」

 娘はそう言って制服のポケットからナイフを取り出した。

「いや、刃物は苦手なんだ」

「そっか。そうだね。じゃあ、どうする?」

「帰りながら考えるよ」

 そう言って娘と駅まで向かう途中で今時珍しくなった「開かずの踏切」の遮断機が降りた。

 いつもより長く開かなくなった遮断機の先には、細かい肉片になった娘が散らかっている。


 まだ終わりの文字は出てこない。

 何を終わらせればいいのか。

 何を終わらせれば、あの時救えなかった娘の幻が消えてくれるのか。


「じゃあ、お疲れっしたあ」

「お疲れえ、また明日」

「ういっす」

「ああ、沖寺はちょっと、いいかな?」

「え? いやあの、私は」

「女と予定でも? ないっしょ。まあ、五分で済むから、五分で」


 一年前のあの五分がなければ、私は娘と何事もなく家に帰っていたのだろうか。

 もっと仕事に身を入れていれば、そもそも河合から呼び止められる事もなかったのだろうか。


「沖寺、今日は一周忌じゃないのか? カトリックでも一周忌の法要と同じようなものはあるんだろう? 休んでも良かったのに。どうせ暇なんだから」

 そう言った河合の言葉に、私は私の終わりを夢想していた。

「終わらないんですよ、課長」

「ん?」

「追悼ミサをしたところで、私の悪夢は終わらないんです」

 私はワイシャツの襟を掴みながら言った。汗が滲む。息が詰まる。首を吊って失敗した跡が私を嗤っているかのように痒みを与えてくる。

「そうか。無理はするな、っていうくらいしか掛けてやっる言葉も見当たらんが、本当に無理はするなよ」

「はい」


「じゃあ、皆、お疲れ」

「沖寺さん、お疲れ様です。お気をつけて」

「お疲れ様です、課長、沖寺さん、お先に失礼します」

「はい。お疲れ様。課長、私も失礼します」

「あ、沖寺はちょっといいか?」

 眩暈がする。河合の顔が歪んで見える。

「いや、私は」

「分かってるさ。これ、家に帰ってからでいい。目を通しておいてくれ」

「はあ」

 河合が手渡してきたものは、B6サイズの封筒だった。手に持つと、中身はごく薄い紙切れだと分かった。これくらいなら一言今言ってしまえば済むだろうに。私はそう思いつつも、河合が言う通りに受け取って帰宅後に封を開けることにした。

 私は、私の希望で一年前の家からは引っ越した。あの踏切はもうないが、高架化したあの線路の下を歩く気にはなれない。

「ただいま」

 家に帰ると妻も帰ったばかりのようで、リビングの電気は点いているが扉を開けてもまだ夕飯の香りは漂ってこない。

「愛莉?」

 返事はないが、バスルームからシャワーの音が聞こえた。

「今日はジムが混んでたのか」

 妻は週に三度ジムに通っているが、コロナ禍が収束して以降人が増えたらしく、たまにジムでのシャワーを諦めて、自宅までランニングして帰ってくる。その行動も、娘のことを少しでも忘れるためだと私は思っている。

 私は自分の部屋の明かりをつけ、デスクの上に置いてある娘の写真に祈ったあと、河合から受け取った封筒を開けた。やはり中に入っていたのは一枚の薄い紙。

「Fin.」

 そう表に大きく書かれている。

 私は唾液を飲み込み、紙を裏返した。

「君の物語は既に終わっているよ。今は君の妻である愛莉さんの物語の中だ」

 何のことだ?

「愛莉、開けるぞ」

 シャワー中の妻に一言声を掛け、バスルームの扉を開けると、妻は血のバスタブに白くなって横たわっていた。


「キミたちの命は神のものだよ。管理者であっても所有者ではない。そう厳しく教わらなかったかい?」

 闇の中で声が響く。

「ああ。しかし、すべての命は平等であるべきだろう。ならば死も平等であるべきだ」

「まったく、地獄に堕ちてくる人間に限って口だけは一丁前でやんなるね。少しはキミの伴侶を見習うといい」

「伴侶? 愛莉は、元気にやっているのか?」

 闇は答えない。静寂と闇は時間の経過を判断できなくする。

 ようやく答えが返ってきた時に、どれだけの時間が経過していたのか。

「全うした。キミとは違って悪夢にも負けずね」

「そうか。じゃあ、もう全部終わったんだな」

「終わり? 終わりなんてないさ。すべての所有者は神なのだから。終わっているのはキミの地上での物語だけだよ」


「じゃあ、お疲れっしたあ」

「お疲れえ、また明日」

「ういっす」

「ああ、沖寺はちょっと、いいかな?」

「勘弁、して下さい」

 闇が嗤う。

「無理だね。まだキミの罪は浄化されていない」

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Fin. 西野ゆう @ukizm

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