第二話

 アイリスーーインターネット上で名前を轟かせる顔を隠したシンガーだ。

 大手動画投稿サイトであるGootubeやハッピー動画で、自分の歌を投稿してきた。

 彼女の持つ圧倒的な歌唱力と、今までカバーしてきた楽曲の表現方法から、人に寄り添うネット歌手として知られている。


 彼女の本当の姿……それは、白坂彩という名前の一人の中学三年生の少女である。

 中学生である彼女に歌に費やすような時間があったのは、彩には今まで友達がいなかったからだ。

 本来なら友達と遊ぶ時間を彩は歌に費やしてきたのだ。

 そして、それを今までずっと誰にも言ってこなかった。

 今日、学校で初めてできた友達とカラオケに行くまでは……。


「お兄ちゃん、聞いて聞いて!」

咲良は家に帰ると、真っ先に兄である夏生の部屋を訪ねた。

「おう! どうした、咲良?」

夏生は妹の急な来訪に目を丸くしている。

「あのね、私ね、あのアイリスと友達になったの!」

夏生は、一瞬わけがわからないという顔をしたが、それはすぐに驚きの顔へと変わった。

「あ、アイリスってあの!? 咲良がずっと憧れていた中学生シンガーがうちの学校にいたってことか!?」

咲良は嬉しそうに頷いた。

「そうなんだよ! なんだか夢見たい……」

夏生は咲良が喜んでいるのを見て、自分も嬉しくなった。

「そっかー良かったな! せっかくできた友達なんだし、大事にしろよ!」

「お兄ちゃんに言われなくてもわかってるって」


夏生はふと心配そうな顔をした。

「咲良、学校始まってから二週間が経つけど、体調は大丈夫か?」

「えっ? うん! なんかね、今の私すごい元気でなんでもできそなんだ!」

咲良はそう言って、満面の笑顔を兄に見せる。

「へへ、そっか。そりゃあ良かったな! あまり張り切りすぎて倒れんなよ」

「もう! それもお兄ちゃんに言われなくてもわかってるって」

兄の部屋を出た咲良は、ずっとやりたかったけれどできなかったことを始めようと決意した。


次の日に朝早くの学校で、咲良はすぐにいつもの3人を集めた。

「みんな! アタシ達で一緒に歌わない!?」

咲良は両手を机に置いて、前のめりで三人の顔を見た。

彼女は今すぐにやりたい気持ちが伝わってくるくらい、目を輝かせている。

「えっ……」

彩は自分の手を強く握りつぶして、その場から一歩引いた。

彼女の瞳の奥には、困惑の色が浮かんでた。

一瞬、彩の頭の奥で昨日の風景が流れた。

おそらく咲良がこんなことを言い始めたのは、昨日の彩に影響されたからだろう。


「いいんじゃないですかー。みんな、歌がとても上手ですしー」

恵梨は後ろで手を組んで、ニコニコ笑っている。

まるでこうなることを予想していたかのようだ。

その横で紅葉は、一人深刻そうな顔をしていた。

「いやちょっと待ってくれ。歌を歌うって、それはまさかネット上で歌うってことなのか!?」

「そうだよ?」

紅葉の質問に、咲良は首をかしげながら答えた。

咲良の中では、それ以外の選択肢が存在しなさそうだ。

「嫌だ! 絶対に嫌だ!」

紅葉はとうとう顔が真っ青になってしまった。


「船橋さーん、落ち着いてー」

恵梨ののんびりとした口調で、紅葉は落ち着きを取り戻した。

我に返った紅葉は、とても焦ったような表情をしていた。

「も、申し訳ない。私はその……インターネット上で自分の声を晒せるほど、歌が上手いと思ってなくて」

紅葉は俯いてしまった。


そんな彼女を見て、恵梨と咲良は顔を合わせた。

「なんだ! そんなことならぜーんぜん大丈夫だよ」

咲良は笑って紅葉の顔を見た。

「だってもみじちゃんの歌はカッコよくて安定してるんだもん」

「そ、そうだろうか?」

「そうですねー、船橋さんは比較的音域が低いですから、私達にとって船橋さんの歌は必要なんですよ」

「う、うーん……。な、ならやってみようか……な……?」


その様子を彩は黙って見ていた。

紅葉がやる気になってしまった。

次は、彩の番だ。

咲良は彩の目を見た。

彼女の真剣な目から彩は目を背けたくて仕方がなかった。

「よし、彩ちゃん! アタシ達と一緒に歌ってくれませんか!?」

咲良は頭を下げた。

「……」

彩は声が出なかった。

彼女の目尻は不安そうに下がっていて、右手は自信の顎に触れるか触れないかの位置にある。

頭の中ではいろんな言い訳が錯綜していて、うまく回っていなかった。

「……彩ちゃん?」


「白坂さん……彩ちゃんは、私達と歌いたくないんですよねー」


その恵梨の一言は、四人の空気を一瞬で冷たくするのに十分な威力を持っていた。

「ちょっと木崎、何を言ってるんだ! 白坂はまだ何も言ってないだろ!」

最初に事態を理解した紅葉は、恵梨に反論する。

紅葉の゙目の奥では、いくつかの感情がドロドロに混ざっているようだ。

「何も言えないから、私が白坂さんの声を代弁してるんですよー」

恵梨はそんな彼女達の様子を見て楽しんでいるのか、言葉を続けた。

「恵梨ちゃん、静かにして。私は彩ちゃんの返事を待ってるの!」

咲良は、恵梨の方を振り向かなかった。


「このまま待ってても、返事は返ってきませんよー?」

恵梨は、首を傾げるふりをした。

「じゃあ待つよ。だってアタシは、ここまでいっぱい待ったから」

咲良はまだ恵梨の方を向かない。

しかしながら、咲良の声は小さく震えていた。

恵梨は一瞬だけ真顔になって、またニコって笑った。


「良かったですねー、白坂さーん。優しい友達ができてー」

彩は息を呑んだ。

彼女の目はとても険しくなっている。


「でもー、私は優しくないので待ちませんよー」

恵梨の口元は笑っているが目は笑っていない。

その表情を見て、彩ではなく紅葉が、恵梨に対して嫌気が差した。


「ねえ、白坂さん。白坂さんは、私達のこと友達として信用していないんじゃないですかー?」


咲良は口を開けて、少し顔を強張らせている。

彼女は必死で自分を取り戻そうとした。

「信用していない? 馬鹿みたいなこと言わないで。……そんなことないよね、彩ちゃん」

初めてできた友人の信じられないというような感情を聞いて、彩はようやく口を開けた。


「木崎さんは、人の気持ちがわかるんだね。尊敬できるよ」


そのときの彩の顔は清々しいほどの笑顔だった。

「彩ちゃん……?」

咲良は、何かわけのわからないものにショックを受けたせいで、口を少し開けてぼんやりするしかなかった。

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