第5話 オレも記憶も救われました。

 夜半に目が覚めた。

 女神との邂逅を終えた後、痛みに耐えかねて気を失っていたようだ。床に転がるように横たえられていた体はすっかり冷え切っていた。

 体を起こせば、体中が軋むように痛んだ。散々叩かれた尻は多分腫れ上がっているのだろう、熱を持ったように疼いていた。


「……いてぇ……」


 あのクソ女神。絶対碌なもんじゃねぇ。心の中で毒突いた。気持ちは何も晴れなかった。


 オレは消えるのか。オレはちゃんともう1人いて、そっちはちゃんと願いを叶えて貰って幸せになって、……でも、オレは消えるんだな。オレだってオレなのに。オレはオレのままではいられないんだな。


 ……まぁ、前向きに考えるなら、オレが突然消えちまうようなことになってなくて良かったと言える。父さんにも母さんにも妹にも心配掛けずに済んだ。女にモテるようにしてもらったから、嫁さんはなんとかなるだろう。金があれば父さん母さんの老後だって心配ない。力があれば、何かあっても、大丈夫。ちゃんと、皆を守れる。さすがはオレ。


 ただオレが、自分が消えるのが寂しいだけだ。

 記憶はどんどんぼやけていく。今はもう、大学の友人達の顔さえ危うい。早すぎねぇ? と思いながら笑えば、口の端が切れていたのだろう、引きつるような痛みが走った。


 痛みを堪えて、外に出る。あたりは暗かったけれど、幸い空には月が浮いてた。それも2つも。

 あの女神、地球じゃないとこの女神だったんだなぁとぼんやり思った。つまりここって、異世界じゃないか? つまりこれって異世界転移か。魂だけ、それも半分だけだけど。更にいうなら、本当のオレはちゃんと元通りの世界にいて、どうやら幸せになりそうだけど。

 明るい月に照らされて、昼よりもずっと寒い世界を、ハヤテはゆっくりと歩きだした。地面を踏む足先が寒さに痺れるのを、人ごとのように思った。


 磨かれた金属の前にたどり着いて、そっとその表面に指先を触れた。

 昼間に見たのと変わらない、骸骨みたいな少女が映った。少しだけ、哀しそうに笑っていた。


「オレ、全部忘れちゃうんだってさ。お前の中に吸収されて消えるんだって。

 ……あー……愛し子、なんて、どう考えても名前じゃないよな。せめて名前くらい付けろってんだよなぁ。名無しなんて、そんなの、あんまりじゃないか……。愛し子なんて全然ちっとも名前じゃねーよ」


 なぁ? と呼びかけて、けれども少女は答えない。独り言は空しくて、けれども言葉は止められなかった。


「名前、オレが付けてやるよ。最後にさ。オレが……消えちゃう前に。

 そうだなぁ……。

 あのさ、……マナ、ってどうだろ。オレの妹の名前なんだけどさ。

 あいつさぁ、すげぇ生意気なの。父さんも母さんも甘やかすからさ、オレもちょっとだけ甘やかしてたからさ、傍若無人だし、自分が一番だし、碌なヤツじゃないんだけど、多分今のお前にはさ、あいつのそういう、自分を大事にするとこや可愛いとこをさ、ちょっとだけでも分けてやれたらなって思うんだよ。

 ……それにさ、オレは、ハヤテって言うんだけど、お前の中に消えるなら、お前の……多分兄ちゃんみたいなものになるかなって……思うし。だったらお前に妹の名前を付けるのって、別にそんなにおかしくないと思うし。

 あ、別にシスコンとかじゃねーよ? そりゃ妹は可愛いけど、憎たらしくもあるし、喧嘩もいっぱいしたしな。いや、うん、いつも負けてばっかだったけど」


 話している間にも、まるで手のひらに掬った砂が、指の間からこぼれ落ちていくように、記憶はオレの中から消えていく。

 父さんの顔も母さんの顔も妹の顔も、もうぼんやりしていて、思い出せない。自分の元の顔さえも、おぼろげだ。


「オレの半分を――オレにとってはオレの全部をお前にやるんだから、せめてさ、お前――マナ、オレの分まで幸せになれよ。美味いものいっぱい食べて、あったかい部屋で寝て、可愛い格好したりしてさ、楽しいこともたくさんして、いろんな人と、大切にしたりされたり、優しくしたりされたりして、……たくさん、たくさん、笑ってくれよ。それが『生きる』ってことだろ?」


 ぽんぽん、と自分で自分の頭を撫でた。だってきっと、マナにはこうしてくれる人はいない。これから先現れたら良いなと思うし、現れますようにとは思うけれど、少なくとも今はいない。


「大丈夫。マナならできるよ。きっと出来るよ」


 だってオレをやるんだからな。だから、ちゃんと生きろよ。オレを糧にして、ちゃんと生きてくれよ。


 精一杯の笑顔を浮かべる。日頃動くことがなかったのだろう少女の口元は上手く笑顔を作れなくて、歪に震えて歪むばかりだったけれど、第一歩なんてみんなそんなもんだ。誰だって最初から全部ちゃんと成功なんてしないもんだ。だから大丈夫。

 意識が揺らめく。目の前がぼやけていく。


「ハヤテ」


 マナの唇が動いた。ぼやけていた視界が、急にクリアになっていった。


「まって、ハヤテ。行っちゃ、やだ」


 マナ。呼ぼうとして、けれど口は動かなかった。


「1人は、やだ。いっしょ、いて。いっしょが、いい」


 マナが泣いていた。動かなかった表情が歪んでいた。


 もう、記憶は零れていなかった。残った全部を、マナが救い上げてくれていた。

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