第30話

 いつき樹、樹。

 

 授業開始までは、あと五分。

 颯真は白いノートの最後の頁を破って、鉛筆を走らせた。颯真の机を、恵奈と翔太郎が囲んでいる。

「なんか、字が歪んでない?」

 恵奈に言われて、気をつけながら鉛筆を動かす。


「おまえら、何、やってんの」

 横の座席の古川が覗き込んできたが、翔太郎に、

「なんでもねえよ」

と遮られる。それでも、古川は諦めず覗き込んでくるし、古川の声につられて、別の数人が、なんだなんだと颯真の机を取り囲んだ。


「習字の練習?」

「なんのおまじない?」

 女子たちも騒ぎ立てる。

 もう、七文字目だ。

 八文字目で、お手本みたいな字が書けたとき、始業チャイムが鳴った。


「だいじょうぶ。これなら効く」

 恵奈は言いながら、自分の席に戻り、

「お疲れ」

と、翔太郎に肩を叩かれた。


 ふう。


 颯真は息を吐いた。樹にもちゃんとよみがえりの鉛筆の効果がありますように。

 よみがえりの鉛筆を、そっと筆箱に入れる。ちびた鉛筆は、筆箱の中にすぐにまぎれた。

 五時間目の授業は英語だった。グラマー。退屈な文法の説明が続く。

 眠気が襲ってきた。昨夜、文具店を探して歩き回った。家に帰ってからも、母親に商店街の人たちの名前を書かせていた。睡眠不足だ。

 

 と、広げた教科書の上に、丸められたメモが落ちてきた。

 なんだよ。

 ときどき、こんないたずらをするやつがいる。大抵、中に書いてあるのは、教師の似顔絵かなんかだ。

 指先で飛ばそうとして、ふと思い止まった。メモの中に、樹という文字が見えたからだ。

 思わず左右をうかがってから、颯真はメモをつまみ上げた。

 開いてみる。


――樹はどこだ

 そして、こう続いている。

――放課後、江後【えご】神社に来い。

 顔を上げ、颯真は前後左右をそっと見回した。ちょうど教師が、黒板をトントンと叩き、

「書き写してから訳すように」

と言ったところだった。

 みんな、前を向き、手を動かしている。颯真のほうへ、顔を向けている者はいない。

 翔太郎を見た。

 翔太郎は窓際の後ろから二番目の席。中央の前側に近い颯真からは、大きく振り返らないと顔が見えない。


「井原!」

 教師の叫び声が響いた。

「後ろになんかおもしろいものでもあるのかー!」

 慌てて黒板に視線を戻す。そこかしこから笑い声が漏れ、恥ずかしい思いをさせられたが、翔太郎と、そして斜め前方に座る恵奈の視線も掴むことができた。

 瞬きを繰り返し、素早く口パクで、

「ヤバい」

と繰り返す。

 ふたたび教師に怒鳴られそうになって、颯真は黒板の文字を写し始めた。


 Have you ever read this book?

 あなたはこの本を読んだことがありますか。

 思わず、

 あなたは人消しゴムを使ったことがありますか。

 そう訳しそうになる。


 誰だろう。

 黒板を見つめたまま、手が止まった。

 誰かが知っている。颯真が樹を消したと知っているのだ。



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