第29話
朝が来た。
すばらしい朝だ。
颯真は体中が軽くなったような気分で、起き上がった。
コンビニで翔太郎と恵奈の二人と別れてから、颯真は家に帰り、やり残した仕事をした。母親に、商店街の人たちの名前を書いてもらったのだ。それはなかなか骨の折れる仕事だった。
母親に、おじいさんにもらった鉛筆で、名簿の中から消した人の名前を書いてくれと頼み、
「なんでそんなことしなきゃならないの?」
と嫌がるのを、顔の前で両手を合わせてまで頼み、ようやく承諾してもらった。
おじいさんにもらった鉛筆で書いてくれと言ったとき、母親はかなり渋った。
「こんなちびた鉛筆で書くのなんか嫌よ」
どうせ書くなら、ボールペンがいいと言ってきかなかった。それを家中のボールペンを奪う勢いで阻止し、どうにか書いてもらったのだ。
おかげで、このすばらしい朝がある。
母親が書き終えた十一時には、商店街の会長から、商店街の失踪者たちが戻ってきたと電話が入った。嬉しかった。心底、ホッとした。
いつもより一枚多く食パンを食べ、颯真は家を出た。昨晩の夕食は、翔太郎たちと菓子パン一つだけしか食べていなかったからお腹が空いていたのだ。それに、緊張から解放されて、食欲が増したというのもある。
学校に向かいながら、笑いがこみ上げてきた。
罪の意識がないというのは、こんなにも心が軽くなるのか。
商店街を通りながら、颯真は働く人たちに挨拶をした。
「おはようございます!」
花屋のおばさんもいる。服屋のアロワナのおっさんもいる。みんな戻ってきたのだ。
スキップしかねない足取りで、颯真は学校に着いた。
教室は、いつもと変わらなかった。いなくなっていた者たちの顔を眺めながら、颯真は喜びに浸った。自分が巻き起こした騒動だというのに、みんなが戻ってこられたのは、自分の手柄のように思える。
翔太郎を探した。この喜びを分かち合えるのは、翔太郎と恵奈だけだ。
教室を見渡すと、翔太郎が窓際で校庭を眺めているのが見えた。
「おい、翔太郎!」
翔太郎は振り向いたが、表情が今ひとつ冴えない。
「どうしたんだよ、浮かない顔して」
「別に」
「みんな戻ってこられてよかったよ。安心しただろ、おまえも」
「まあな。だけどさ、」
翔太郎は廊下のほうを顎でしゃくり、自分の右足のつま先を上げてみせた。上履きに、ケチャップの染みか、赤茶色い雫の痕が見える。誰かがこすりつけたのだろう。
「あいつらが?」
翔太郎の視線の先には、悠人や健がいた。ちょっと離れて大雅もいる。
「多分ね。ケチな嫌がらせ。あいつら、なんも変わってねえよ」
「一日消えたところで変わるわけないか」
「しかも、なんも憶えてないらしいし」
颯真は頷いた。
消えた人たちは、消えた間の記憶がないのだ。
「樹は?」
思わず小声になってしまった自分が情けない。
「知らね。まだ来てないんじゃねえの?」
女子たちの黄色い笑い声が聞こえて、颯真は声のしたほうへ顔を向けた。恵奈が女子たち五、六人と騒いでいる。楽しそうだった。茉莉花や春菜がいる。
瞬間、恵奈がこちらを見て、目が合った。そしてすぐに、視線は外された。昨夜の出来事について、もう関わるつもりがないんだろう。
授業が始まり、いつものように時間が過ぎていった。
樹は登校して来なかった。だが、誰も樹の不在について、噂をする者はいなかった。
空白の一日を過ごし、学校には奇妙な空気が流れている。教育委員会だの警察だの、集団失踪の理由を探る大人たちの出入りが激しかったからだ。しかも彼らの行動は、なるべく大げさにならないよう配慮されているふうがあった。
空白の一日。
奇々怪々の町。などと、そんな特集を組んで番組を作ろうとするテレビの取材や、原因を究明しようとする新聞の取材をシャットアウトするためだ。
学校側としては、何事もなく戻ってきた生徒たちを、何も憶えていない生徒たちを、刺激したくないようだった。
そんな話を、昼休み、給食を食べた後で、颯真は翔太郎から聞いた。
「だけど、ネット上じゃ、かなり騒がれてるよ」
食事を終えたあと、二人で校舎の裏手にある、学校行事の道具が置かれている倉庫へ来た。普段使われない場所で、倉庫の屋根にかぶさるようにしいの木の葉が垂れ下がり、人目を避けるにはいい場所だ。
校舎側に背を向けて、翔太郎はポケットからスマホを取り出した。スマホは放課後まで携帯禁止だ。
「いろんな憶測が流れてる。タイムリープしていたとかさ、学校側の陰謀だとかさ」
「くだらね」
「真相に近いのもあるんだよ」
そして翔太郎が見せてくれたのは、人消しゴムに関するコメントだった。誰かが消しゴムを使って、生徒たちを消したのだろうと、真相を言い当てている。そこから、コメント者は、都市伝説について、自分の考えを披露していた。
だが、なぜ、戻って来たのかはわからないようだ。よみがえりの鉛筆については、都市伝説にもなっていないようだ。
そういえば、翔太郎はよみがえりの鉛筆をどうしただろう。そう思ったとき、校舎の建物の角から人が現れた。恵奈だ。
恵奈は走り寄って来ると、緊張した表情で言った。
「ね、変じゃない? 樹、どうして学校に来ないの?」
「さあ。サボってるんじゃない?」
樹は来ないで欲しい。その願いが根底にあるから、樹が学校をサボるのは大歓迎だ。もう、消しゴムで消されている心配もないし。
「サボってるんじゃないよ。だって、さっき、樹のおかあさんって人が職員室で先生に言ってたもん」
「なんて?」
「だから、樹は行方不明のままだって」
「そんなはずないよ」
亜由さんの婚約者、イツキさんは戻ってきている。それは確かだ。だから、樹だって、戻っているはず。
「もしかして、樹にだけ、よみがえりの鉛筆が効かなかったんじゃ」
「まさか」
「有り得るよな。よみがえりの鉛筆が全員に効くって保証はないんだからな。あのじいさんは、くわしいことは教えてくれてないし」
不安になった。こんなことなら、もっと詳しくおじいさんに聞いておくんだったと思う。
上から、はらりと枯葉が落ちてきて、同時に授業開始十分前のチャイムが鳴った。
「おい、翔太郎」
颯真は翔太郎を振り返った。
「よみがえりの鉛筆、なくしてないだろうな?」
「なくしてねえよ。筆箱に入れてある。なんか、捨てられなくてさ」
「もう一度書くよ」
颯真は二人といっしょに教室に戻った。
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