第28話
とにかく明るいところへ。
文具店を出ると、誰からともなく走り出し、車や人の往来がある大通りに出るまで、ただ走り続けた。
息が切れそうになって、ようやく立ち止まったのは、見覚えのある交差点へ来てからだった。
「信じらんないよ」
はあはあと息を吐きながら、翔太郎が口を開いた。
「あたしだって」
恵奈も言う。
膝がガクガクしている。久々に、こんなに走ったように思う。
必死だった。文具店から遠ざかれば遠ざかるほど、恐怖は増していった。後ろから何かが追いかけてくる気がして、走るのをやめられなかった。
息が整うと、現実感が薄れた。まわりの喧騒や明るい店先が、なぜか作り物の世界のように感じる。存在するはずのないおじいさんとの遭遇のほうが、現実感を持って思え返せる。
けたたましくサイレンを鳴らしながら、道路を救急車が通り過ぎていった。同時に、ポケットの中のスマホが振動した。
その振動が、自分の体の芯の震えと似ていて、ただ呆然としている。
「ソウ、電話」
そう言った恵奈の顔が、前から来た車のライトに浮かぶ。
颯真はスマホを取り出した。
電話をかけてきたのは、母親だった。帰りが遅いことを心配している。クラスの大半がいなくなっている状況で、帰りの遅い息子を心配しているはずだ。
「うん、今、散歩の途中――だいじょうぶ、友達といっしょだだから、コンビニでしゃべってるだけ――わかった、もう、帰るよ」
母親にはそう言ったが、まだ帰るわけにはいかなかった。道の先にコンビニがある。イートインコーナーのあるコンビニだ。
「あそこで書こう」
颯真は翔太郎を促した。
「ほんとに戻せるのかよ、そんな鉛筆で名前を書くだけでさ」
「わからない」
わからないのだ。だけど、やってみるしかない。今はそれしか方法がないのだ。
気持ちが急いて、ふたたび走った。
有難いことに、コンビニのイートインコーナーは空いていた。六つある椅子には誰も座っていない。
いちばん安いA4のノートを買い、お腹が空いてきたと言い出した恵奈とともに、菓子パンと飲み物も用意して場所を確保した。
広げたノートの一頁目に、鉛筆を立てる。
「書くよ」
はじめに、樹の名前を書いた。
はっきりと、力強く。
「次は、おまえな」
颯真が鉛筆を向けると、翔太郎がぞんざいに受け取り口を尖らせた。
「ほんとに全員の名前を書くのかよ」
「それはおまえのせいだろ」
翔太郎がクラスの「あ」行から書き始めた。蒼井翔也、井上宏太。ただし、殴り書きみたいな字だ。
「ちゃんとした字で書きなさいよ!」
恵奈が怒った。
「そんな字じゃ、戻ってこないかもしれないじゃない」
「関係ねえよ」
ふてくされた表情で、翔太郎は続ける。
恵奈が、パンとテーブルを叩いた。
「真面目にやって!」
「なんだよ、やってるじゃん」
翔太郎が言い返す。
「ちゃんと戻ってきて欲しいって気持ちで書いてって言ってるの。信じて書いてって言ってるの」
翔太郎が、横を向き、呟いた。
「信じろったって、さ」
「何よ?」
恵奈が詰め寄る。
「廃屋に行ってさ、幽霊に会った。ついさっきのことだよ。事実だよ。だけどさ、冷静になって考えてみろよ。有り得ないじゃん。幽霊だよ? 霊だよ? ほんとに俺ら会ったのかな」
「会ったじゃない、おじいさんに。あんたも震えてたじゃない」
「狐に化かされたのかもよ」
「狐?」
「もしくは、俺ら三人、なんかの具合で集団催眠にかかっちゃったのかもよ。そうとでも思わなきゃ、あんな状況」
「いいから、書けよ、翔太郎」
つい怒鳴り声になってしまった。今は、この状況がどれほど異常か、そんなことを考えている場合じゃないんだ。
ふたたび翔太郎は書き始めた。今度は、真面目な字だ。
加藤陸、杉岡直也……。
黙々と翔太郎は書き続けた。手を休めたのは、途中、菓子パンを囓るときだけだ。
「できたよ」
クラス二十三人分を書き終えて、翔太郎は、
「はー、疲れたー」
と、大きく伸びをした。
颯真のスマホが鳴ったのは、その直後だった。
「あんた、どこにいるの!」
母親からだった。
「全然帰ってこないから、あんたまで失踪したんじゃないかって心配してるのよ」
「ごめん。ごめんなさい」
隣で、恵奈のスマホにも着信があり、恵奈が応え始めた。
「学校から連絡があってね」
母親が続けた。
「学校から?」
「詳しいことはわからないんだけど、いなくなってたみんなが戻ってきたらしいの」
「え」
それから母親は、さらに弾んだ声になった。
「亜由さんの婚約者のイツキさんもね、戻ってきたんだって」
「やったあ!」
思わず叫んだ颯真の隣では、恵奈が、
「嘘、マジ、嬉しい!」
と叫び始めた。
指先で丸を作り、颯真は翔太郎に向けた。
「マジかよ」
椅子の上でぐったりとしたままの翔太郎が、驚いた顔になり、そして天井に向けて叫んだ。
「やったぞー!」
棚の入れ替えに横を通った店員が、ぎょっとした顔で翔太郎を見ていった。
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