第27話
あの夜のままだった。
くたびれた感じの二階家。
引き戸から漏れる明かり。
中を覗くと、文具が並べられているのが見えた。なぜだか、あんなに生い茂っていた雑草は跡形もない。
ごくりと、喉が鳴る音がした。自分だったのか、それとも翔太郎が唾を飲み込んだのか。
三人で顔を見合わせた。
頷き合う。自然と拳に力が入る。
颯真が引き戸に手を掛けた。あの夜と同じように、引き戸は軋んだ音を立てる。
「ごめんください」
颯真は声を上げた。
しんとしている。
「いないのかな」
翔太郎に袖を引っ張られた。
「なんか気味が悪いよ」
「当たり前でしょ、ここは存在しない文具店なんだから」
恵奈は気丈に振舞っているが、恐怖で震えているんだろう。額に汗がにじんでいる。
ロウソクの火が揺れた。
「わっ」
と、三人で叫んでしまった。
と、奥のほうから声がした。
「いらっしゃい」
「ひぇっ」
翔太郎が叫んで、よろめいた。恵奈は後ずさって、颯真の後ろに隠れる。
「や、君はこの前の」
現れたのは、あの夜と同じおじいさんだった。今夜もあの夜と同じように、あたたかそうな厚手の黒っぽいカーディガンを羽織っている。大きな黒縁の眼鏡も同じだ。
颯真は勇気を振り絞って、おじいさんをじっと見据えた。
目の前にいるのが、霊だとは信じられなかった。こちらを見つめる目はしっかりしているし、そして、足もあるじゃないか。
それでも、この人は、存在しないんだ。いや、この世に存在しないだけで、どこかに『いる』のかもしれない。そのどこかから、おじいさんは目の前に現れている。
「この前はお世話になりました」
颯真は頭を下げた。ロープを外してくれた。その瞬間の、ホッとした気持ちが蘇る。
「なに、世話なんかしとらんが」
そしておじいさんは、翔太郎と恵奈に視線を移した。おじいさんに見つめられて、恵奈と翔太郎が震え上がるのがわかった。翔太郎の口から歯の鳴る音がする。
「今夜はお友達もいっしょに買い物か?」
「いえ、そうじゃなくって」
颯真はポケットから消しゴムを取り出した。
「おや、ずいぶんと使ったんだな」
おじいさんが、消しゴムを見る。
「悪いが、追加はないぞ」
「違うんです。僕ら、これを返しに来たんです」
「返しに?」
おじいさんの目が光った。
「こんなに使ってしまって、それなのに返すなんて虫がいい話ですけど」
颯真は腕を伸ばして、消しゴムをおじいさんに渡した。おじいさんの皺だらけの手が、消しゴムを受け取る。
「お願いです」
颯真はふたたび頭を下げた。
「消した人たちが戻る方法を教えてもらえませんか」
「戻る方法?」
「使って後悔しているんです。でも、まさか、ほんとうに、これで人が消せるなんて思ってなくて」
話していると、霊と対面しているのが不思議ではなくなった。おじいさんから醸し出される雰囲気は、普通の老人と変わらない。いや、むしろ、優しい感じだ。
「たくさんの人たちがいなくなってしまったんです。僕ら、ほんとうに困ってしまって……どうしていいかわからなくなってしまって……。これをくれたあなたに訊くしかないと思って、それでここに……」
「お願いです」
後ろから、恵奈も声を上げた。
「教えてください。このまま、友達がいなくなったままなんて耐えられない」
ふんと、おじいさんが鼻を鳴らした。それから、颯真と恵奈、そして翔太郎を順番に見据える。眼鏡の奥の目からは、なんの表情も読み取れない。
「これを使ったときは、消えて欲しいと思ったんだろう?」
颯真は曖昧に頷いた。憎いとは思った。いなくなってくれとも願った。といって、こんな結果を望んでいたのかどうか。
「これは素晴らしいモノなんじゃよ」
おじいさんは掌に載せた小さな人消しゴムを愛おしそうに見つめる。
「わしは死んでからも、孫の陽太を轢いた男への憎しみを捨てなかった。おかげで、こんな素晴らしいモノが手に入ったんじゃ。もし、この人消しゴムを、生きているうちに手にしていれば、轢いた男の名前を書いて消しただろうに」
犬を連れたおばあさんの話が蘇る。おじいさんは、失意のうちに、憎悪を溜め込んだまま亡くなったのだ。
そして、恐ろしいモノを手に入れた。
「世の中にはな」
おじいさんはそう言いながら、ゆっくりと人消しゴムを、目の前の平台の上に置いた。
「取り返しのつかんこともある」
「取り返しのつかないこと……」
一瞬だった。颯真は思う。ほんの一瞬、悪魔のささやきに耳を傾けたのだ。それが、こんな事態になるなんて。
だが、このまま引き下がるわけにはいかない。消えた人たちを取り戻すためなら、なんだってできる。
「まあ、方法がないとは言わんが」
「えっ?」
颯真は顔を上げた。
おじいさんがしゃがみこんで、文房具の並べられた台から、何かつまんだ。その様子を、固唾を飲んで見つめる。
おじいさんは、一本の鉛筆を、颯真の顔の前にかざした。
「これはよみがえりの鉛筆といってな」
「よみがえりの鉛筆……」
「これで、消えた者たちの名前を書けば――戻ってくる。ただし、消しゴムを使った者が書かなきゃならん」
人を消せた消しゴム同様、なんの変哲もない鉛筆だった。深緑色で、模様はない。濃さの表示もなく、つるりとしている。長さは、五センチほど。新品じゃない。
「どうしても必要というのなら、これをあげよう」
おじいさんはそう言って、颯真の手に鉛筆を持たせた。
「あ、ありがとうございます」
「ありがとう、おじいさん」
恵奈も続いて叫んだ。
ふんと、おじいさんはふたたび鼻を鳴らし、じっとこちらを見つめる。
「出ようぜ」
翔太郎にうながされて、颯真は恵奈とともに店の出口へ向かった。
引き戸に手をかけながら、もう一度お礼を言おうとしたとき、おじいさんが声を上げた。
「おい」
振り返ると、おじいさんは、店の奥のほうに戻ってしまっていた。光が届かないせいで、まるで幽霊か何かのように見える。いや、霊なのだ。この世に存在しない者なのだ。
気味悪さを感じながらも、おじいさんの言葉を待つ。
「消した者を戻して――」
おじいさんの声は、徐々に小さくなった。
「後悔せんようにな」
おじいさんはスーッと店の奥へ行ってしまった。
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