第18話
「ね、おかあさん、思い出して」
マンションに戻り、居間に入ると、颯真は母親に向き直った。
目の前には、困惑したままの母親の顔がある。
「昨日、ここで町内会の名簿を作っていたでしょ」
訝しげに、母親が頷く。
「そのとき、消しゴムを使ったよね?」
「消しゴム?」
「そうだよ。たしか、おかあさんが書類を片付けたあと、テーブルの上に消しゴムのカスがあった。使ったよね?」
目を丸くして、母親が頷いた。
「そりゃ使ったわよ。間違えたら書き直さなきゃならないから」
「その消しゴム、どこから持ってきたの?」
「どこからって」
「僕の部屋からじゃない? その消しゴム、僕の部屋にあったものなんじゃない?」
「さあ、そんなこと言われても」
「思い出してよ! 大事なことなんだ!」
怒鳴り声になった颯真に、母親が不安げな目を向ける。
「使ったわ……。そう確か、あんたの部屋に落ちていた消しゴムを。だけど、それがどうかしたの?」
やっぱり。
絶望的な気分になった。
「どうして? 使っちゃいけなかったの? 使いかけの普通の消しゴムよ。大事なものならそう言ってくれれば――」
「今、どこにあるんだよ?」
「どこって……」
おろおろと母親が周りに視線を流した。
「昨日使ったあとどうしたんだったか。そう、たしか」
しゃがみこむと、テーブルの抽斗を開ける。
ボールペンやクリップ、何かのレシート、爪切り。そんなものの中から、消しゴムがつまみ上げられた。
「あった。これでしょ?」
颯真は母親の指先から消しゴムをひったくった。
人消しゴムだった。樹の名前を消した、消しゴム。
颯真が使ったときより、消しゴムはさらに丸みを帯びている。半分ほどに小さくなってしまっている。昨日、母親が使った証だ。
「な、なによ。どうしたのよ」
「ね、おかあさん。これで、昨日、誰の名前を消したの?」
「誰? そんなの憶えてな――」
「思い出して! 大事なことなんだ」
「憶えてないってば。だけど、名簿を見ればわかるわ。ね、颯真、どうしてそんなこと、知りたがるのよ」
「名簿は?」
怒鳴った颯真の勢いに押されて、母親はテレビの横の棚に向かい、頁をめくる。
「ここ。書き直したのは、この頁」
広げられたA4サイズの名簿を、颯真は受け取った。示された頁に目を凝らす。母親が言っていたとおり、幾人もの町内の人の名前が記されている。
あいうえお順に並んだ文字を追っていく。
ない。花屋さんの名前も、お弁当屋さんの名前も、そしておっさんの名前も。次の頁を開いてみた。明らかに消された跡がある。
「どうして、どうしてこの人たちの名前を消しちゃったんだよ!」
「どうしてって、この人たちは、先に寄付を貰ってるから……」
ああ!と呻いて、颯真は両手で頭を抱えた。
「な、なんなのよ? どうしたっていうのよ? 颯真」
もう、間違いない。この消しゴムは人を消せる。
颯真は人消しゴムを握り締めて、玄関へ向かった。
「ちょっと、どこへ行くの?」
助けて。
もう、限界だ。こんなひどいことになるなんて。こんな恐ろしいことになるなんて。
始まりは、あの文具店だ。
戻すんだ、あのおじいさんに。おじいさんに戻せば、消えた人たちが戻ってくるのか、それはわからない。だけど、あのおじいさんに訊くしか方法がないんだ。
そのとき、ふいに、颯真と母親のスマホが鳴り出した。両方とも、着信の合図だ。
こんなときに、誰だ。
苛立ちながら、颯真はスマホを耳に当てた。母親はちょっと遅れてスマホを手に取る。
颯真の耳に飛び込んできたのは、担任の秦野の聴き慣れた声だった。
「お、おまえ、無事なのか?」
いつになく焦った声だ。
「は、はい」
わけもわからず、颯真は返す。
「え? どういうことですか?」
と、隣で母親が言うのも耳に入る。
「大変な事態が起きてるんだ」
担任の声は上ずっている。
「クラスの大半が、いなくなったんだ」
「いなくなった?」
瞬間、ぞわりと颯真の腕に鳥肌が立った。
「いなくなったって、それ、どういう……」
「行方不明になってるんだよ、うちのクラスのほとんどが!」
秦野は半泣きだ。
と、横で、母親が叫んだ。
「はい、無事です。うちの子は、家にいます」
母親には、誰が電話をかけてきたんだろう。校長か、それとも警察だろうか。
「だ、誰がいなくなってるんですか」
スマホを持ち替えて、颯真は秦野に訊いた。
「稲森に、河野、椎名も佐藤も、進藤も長尾も中出川も吉原も。みんな同じ時刻に、一斉にいなくなったんだ。おまえ、何か、聞いてないか? みんな、示し合わせてどこかへ行ったとしか思えん。何か聞いているなら」
「聞いてません。知りません」
掌の中で、消しゴムを握り締めた。この消しゴムのせいだ。クラスのみんなの名前を書いて消した覚えはないから、誰かがもう一つ持っているんだ。それで、みんなは消されてしまったんだ。そうとしか思えない。
だけど、そんなことを、担任に言えるか?
言えない。信じてくれるはずはないじゃないか。そういう自分だって、どこかで、この消しゴムの力を信じられないのだ。
「無事なのは、おまえと、翔太郎と近藤だけだ。あとはみんな、クラスの二十三人、なぜだかわからんが、行方不明になってる!」
「翔太郎と近藤と、僕……」
翔太郎の名前が出た途端、颯真は引っかかるものを感じた。翔太郎には、消しゴムの存在を明かした。あのとき、翔太郎は信じなかったが、もしや。
上の空で担任との電話を切り、颯真は翔太郎へ電話をかけた。
横で、母親が、
「ねえ、どういうこと? あんた、なんか知らないの?」
としつこく叫んでいたが、無視するしかなかった。
翔太郎はすぐに出た。
「お、おまえ、もしかして」
「みんなのこと?」
翔太郎の声は落ち着いていた。それがかえって不気味に感じる。
「そうなんだな。そうなんだな、やっぱり」
はははっと引きつった笑い声が漏れた。声が反響しているのがわかった。どこにいるのだろう。
「おまえ、なんで人消しゴムを持ってるんだ?」
「なんでって、おまえから頂戴したんだよ」
「ぼ、僕から?」
「そ。おまえの家に行ったとき、おまえ、樹を消した消しゴムだって、僕に見せてくれたじゃん」
だが、人消しゴムは、ここにある。母親が使った残りが、この掌にある。
「人消しゴムはここにあるぞ。おまえ、どこかで別の人消しゴムを手に入れたんじゃ」
「違うよ。おまえの人消しゴムを使ったんだ。今、おまえが持ってる人消しゴムをよく見てみろよ。半分になってるだろ」
掌を開いて、消しゴムを見た。
小さくなっているのは、母親が大量に使ったからだと思っていた。それだけじゃなかったんだ。翔太郎が、半分に折って持ち出していたのだ。
翔太郎を
ほんとうは、そうじゃなかったんだ。
あのとき、翔太郎をは部屋で一人になるチャンスはあった。颯真はトイレにも行ったし、喉が乾いて、飲み物を取りにキッチンへも行った。
「おまえ、なんでみんなを」
絞り出した声は、かすれてしまった。
「颯真なら、俺の気持ちがわかると思ったけど?」
「わかんねえよ!」
と怒鳴り返して、いや、わからなくはないと思った。樹を消してしまった自分と同じ気持ちになっていたのなら、消しゴムを使いたい気持ちは、わかる。
だけど、どうして、クラスの大半なんだよ?
「今、どこにいるんだ?」
翔太郎から人消しゴムを取り戻さなくては。
「学校だよ」
どこか
「みんながいなくなったって先生から連絡をもらって、俺は無事でいる証拠に、学校へ顔を見せに来たんだ」
「待ってろ、動くなよ」
怒鳴りながら、玄関へ向かう。
「颯真、どこ、行くのよ!」
叫ぶ母親に、
「学校!」
と返して、颯真は表に出た。
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