第15話

 おまえが人消しゴムで消したんじゃないの?

 

 翔太郎の声が蘇る。

 あのときの翔太郎の、何もかも見透かしたような目も蘇る。

 

 まさか!

 学校からの道を走りながら、颯真は何度も心の中で叫んだ。

 そんなのありえない!

 

 叫ぶたびに、不安が増してくる。もし、もし、亜由さんの婚約者が行方不明になったのが、人消しゴムのせいだったら。

 母親の言葉を反芻する。

 イツキさんが行方不明になってから、二週間経ったと母親は言った。樹が消えたのと同じ頃だ。

 食事をしててね、お手洗いに立ったんだって。それでそのまま行方不明になったんだって。

 母親はそうも言った。

 

 状況は同じだ。二人とも、忽然と姿を消している。

 樹と書いた。元の白い紙になるまで、何度もこすってその名を消した。そのせいで、亜由さんの婚約者まで消してしまったとしたら。

 どうしよう。

 人消しゴムを使って以来、初めて、深い罪悪感にさいなまれた。樹が失踪して以来、不安な気持ちはあった。いくら憎いやつだとはいえ、見つかるといいと思ってきた。だが、日常では、平穏を取り戻した日常では、樹を憎んだ罪悪感に責められることはなかった。自分のせいだなんて、思ってなかったからだ。

 

 だけど。

 颯真は唇を噛み締めた。

 

 人消しゴムで、イツキさんまで消してしまったとしたら。樹同様、自分のせいで……。

 家に着き、颯真は自分の部屋へ直行した。人消しゴムが気がかりだった。ふたたびこの手に載せて眺めてみても何もわからないだろう。そうは思うが、いてもたってもいられない。

 リュックサックを背負ったまま、颯真は机の上の消しゴムを探した。人消しゴムを使ったのは、机の上だった。それは確かだ。だが、それから消しゴムをどうしたのか思い出せない。

 あるはずだ。捨てた憶えはない。

 ところが、机の上には見当たらなかった。ボールペンや鉛筆が転がっているだけで、消しゴムはない。

  積み上げられた教科書と参考書をどけ、ノートをひっくり返してみた。電気スタンドを持ち上げて、机の端まで見てみたが、やっぱりない。

 落としたのかもしれない。椅子をどけて、机の下にしゃがみこんで探した。

だが、ない。


 廊下に転がったのかもしれない。

 廊下へ出て、探してみた。

 でもない。

 居間まで来た。やっぱりない。

 

 ふーっ。

 颯真はソファに腰掛けた。見つけたところで、二人の失踪が、消しゴムのせいだとわかるわけじゃない。

 じゃあ、どうしたらはっきりするんだろう。

 

 そのとき、ポケットのスマホが振動して、颯真はびくりと体を起こした。

 母親からだ。

「うちに着いた?」

 母親の声の向こうに、電車の音が聞こえた。東京へ向かっている最中のようだ。この町から都心へは、私鉄で三十分もあれば行ける。

「うん、さっき帰ってきたとこ。でも亜由さんから電話はないよ」

「そう。今、智也さんといっしょなんだけど、亜由さんからは連絡がないままなのよ」

「今日、亜由さんのところに泊まるの?」

「そうね。多分そうなると思う。智也さんから、おかあさんもいっしょに亜由さんを支えて欲しいって言われてるから」

 亜由さんがヤケを起こして何か問題を起こさないか、それが心配なのだろうが、本心では、智也さんにどう見られるかなのだろう。


「ごめんね、ソウちゃん。一人でご飯、食べて」

「うん、いいよ」

 しあわせを掴もうとしている母親の邪魔になってはいけない。自分が智也さんを父親として受け入れるかどうかは別として、颯真はそう思う。

 母親との会話が終わると、部屋が急に静かになったように思えた。いまだリュックサックを背負っている自分に苦笑する。

 ばさりとリュックサックをソファの上に投げた。

 そのまま、ソファに横になった。


 人消しゴムはどこへ行っちゃったんだろう。

 捨てるはずはないし。まさか、勝手に消えたとか。

 考えていると、なんだか、あの消しゴム自体がほんとうにあったものなのかあやふやに思えてきた。

 あの日の、どす黒い気持ち。地獄の底を這いずり回ったような気持ち。

 夕暮れどきの文具屋も、おじいさんも、そして手渡された消しゴムも、全部夢なんじゃないか。

 

 おじいさんの顔が蘇った。そして差し出された手も。

 うつらうつらしてしまったのだろう。蘇ったおじいさんの姿は、店の奥へ遠のいていきながら、奇妙な形に変化していった。絵の具が混ざり合うように、闇におじいさんの背中が溶けていく。溶け出すと、ぐるぐる渦を巻いて、それからただの真っ黒な闇になっていく――。


「颯真!」

 呼ばれて飛び起きると、目の前に、母親がいた。

「こんなところで寝たら風邪ひくわよ」

「あ、れ。泊まってくるんじゃ」

「帰ってきたのよ、亜由さん」

 そう言いながら、母親はキッチンへ向かった。エコバッグをキッチンカウンターにどさりと置く。どうやら夕食の買い物をしてきてくれたようだ。

「食べてないでしょ」

うんと返事をすると、

「生姜焼き作るから」

と、エプロンを腰に巻いている。

 颯真はキッチンへ行き、冷蔵庫からペットボトルを出しながら、訊いた。


「突然いなくなったって、どういうこと?」

「そうなのよ、イツキさんが」

 そう言ってから、

「生姜、取って」

と言う。

 冷蔵庫の野菜室から生姜の欠片を見つけ、渡す。


「レストランで食事中、お手洗いに立ってそのままらしいのよ。変でしょう?」

「外国って、どこ?」

「アメリカ。西海岸のポートランドって町にいたらしいわ」

「聞いたことない、そんな町」

「IT関連の企業が多いみたいよ。おかあさんもよく知らないけど」

 トントンと、リズミカルに生姜が刻まれる。

「どんな人? イツキさんって」

「いい人よ。おかあさん、一度会ったことがあるの。亜由さんを守ってくれそうな頼りがいのある感じだったな」

「恨まれたりしてた?」

「えっ?」

 包丁の動きが止まって、母親が颯真を振り返った。


「いや、なんでもないよ」

 もし、イツキさんが人消しゴムで消されたとしても、人に恨まれたりするような、そんなタイプの人だったら、颯真以外の誰かに名前を消された可能性があるんじゃないか。そう思った。そうであれば、罪悪感は薄れる。

「亜由さん、前に一度辛い目に遭ってるでしょう? だから、今度の相手は慎重に選んだみたいよ」

「うん」

 くわしい事情は颯真にはわからなかったが、智也さんが漏らした言葉から推測すると、亜由さんは以前付き合っていた人に、嫌なフラれ方をしたらしい。そのせいで、亜由さんは自殺未遂みたいな騒動を起こしたとか起こさなかったとか。

 だから、智也さんは、娘とイツキさんとの結婚をとても喜んでいたのだ。


「あんなちゃんとした人が突然行方不明になるなんて」

 ラッパ飲みしようとしたペットボトルを、颯真は冷蔵庫に戻した。

 どうしよう。どうしたらいい?



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