第11話
放課後になった。
掃除当番の颯真は、箒と塵取りを持って、廊下を掃いた。
ゴミを集め終え、モップかけが終わった。バケツの水を廊下の端にある洗面所に捨てにいく。
絞ったモップを洗面所の壁に立掛けた。これで掃除は終わりだ。
樹は来なかった。一日欠席してくれたのだ。
さっさと帰ろう。樹がいなくても、仲間の連中が調子に乗って何を因縁つけてくるかわかったもんじゃない。たちに見つからないうちに。
颯真は教室に荷物を取りに戻ると、リュックサックを掴み、素早く廊下へ出た。
階段を駆け下りる。
誰も追いかけてこなかった。このまま逃げ切るぞ。
二階と一階の踊り場を通りかかった。そのとき、踊り場でたむろしている男子数人の声が耳に入った。
「樹がいないらしいよ」
「いないって、なんだよ」
「昨日の夜からいないんだって」
「家に帰ってないの?」
同じクラスの男子たちだった。
「親が学校に電話してきたらしい」
「サボって遊びに行ってんじゃないの?」
元々樹は、無断欠席の多い生徒だ。授業の途中で、しらっとした顔でやって来るなんていうのも珍しくない。
「あいつ、とうとう誰かにボコられて、どっかでぶっ倒れてるんじゃない?」
「恨んでるやつ、多いからな」
樹がいなくなった?
思わぬ朗報に、颯真の心は弾んだ。樹さえいなくなれば、この世界はどれほど穏やかになるだろう。
安全。
青信号。危険なく渡れる。今日から明日を渡れる。
「家出?」
「それはないよ。さっき職員室で聞いたんだけどさ、スマホも財布も家に置いたままらしいんだ」
「へ、なんだよ、それ」
「消えたみたいないなくなり方」
「まさか、そんなはずないだろ」
なんでもいい。とにかく、樹がこのまま学校に来なければいい。
通り過ぎた颯真は、足取りも軽く階段を駆け下りた。
多分、今日だけだ。こんなしあわせを感じられるのは。明日になれば、樹はやって来るだろう。
校門のところで、悠人と健を見かけた。二人は颯真を一瞥しただけで、何も言ってこなかった。二人は何か話し込んでいる様子だった。表情が暗かった。樹の行方を心配しているんだろうか。
樹といっしょに、おまえらも消えちまえ。
心の中で呟いたとき、颯真はふいに思い出した。
昨日の夜、消しゴムで消したことを。
樹と書いて、人消しゴムで消したんだ。
――まさか。
颯真は立ち尽くし、そして大きく頭を振った。そんなことあるはずない。
ざわざわとした不安が胸にひろがっていった。何かわけもわからない力で、世界が狭められていくような。
そんなこと、あるはずない。
自分に言い聞かせる。
後ろから歩いてきた女子たちに抜かれた。一年生かもしれない。知らない顔ぶれだった。
何も変わらない。いつもの放課後。
ただ、違うのは、脅威だった樹の姿がないことだけだった。
学校の連絡網が回ってきたのは、夜の九時を過ぎてからだった。
出席番号順だったから、颯真のところに電話をしてきたのは、あまりしゃべったことのない、長尾海司だった。
学校側は、樹の行方について、思い当たる者がいるかどうかを訊いているらしい。心当たりのある者は、学校に連絡するようにという達しだった。先生たちは、職員室に詰めているという。
警察にも通報されたらしい。途中で電話を母親に変わったから、警察云々は、母親から聞いた。
「ねえ、同じクラスの樹くんって、親しかった?」
立ちすくんでいた颯真は、反射的に首を振った。
「そうなんだ。どんな子だったのかしらね」
答えない颯真に、母親は不審感を抱かない。樹からいじめを受けていたことを、颯真は母親に言っていない。
「ともかく、親御さんは心配よね。なんでもないといいけど」
長尾の話によれば、樹の両親から学校へ連絡があったのは、六時間目が過ぎようとした頃だったらしい。昨夜、戻って来なかった樹について、両親は友達とでも遊びに行ったのだろうと思い不審を抱いていなかった。学校へ電話をかけて初めて、両親は樹が今日欠席していると知った。
学校が警察へ連絡したのは、それから三十分後。その後、杳(よう)として行方がわからないという。
長尾は事務的に連絡事項を伝えてきただけで、個人的な意見や感想は言わなかった。放課後、階段の踊り場にいた男子たちと違い、流れている噂を知らないようだ。
それとも、知っていても言わなかったのかもしれない。颯真も噂を耳にしたことを口にしなかった。ただ、幾人かの生徒は、これから学校へ集まるのだと教えてくれた。樹の情報を交換し合うためでもあるし、落ち着かなくて家にいられない生徒もいるのだという。
自分の部屋に入り、颯真は呆然と机の前に座った。漠然とした不安が、放課後からずっと続いている。
机の上には、消しゴムがあった。昨日、樹の名前を消した消しゴムだ。
スタンドの明かりの下で見る消しゴムは、どこからどう見ても、ごく普通の消しゴムにしか見えない。人一人を消してしまえるような、そんな恐ろしい力を持った消しゴムには見えない。
「考えすぎだ」
何度も自分に言い聞かせてきたセリフを、颯真は口にした。あの樹のことだ。ほかの中学の生徒や、年上の仲間がいて、どこかで遊んでいるに決まっている。家に連絡もせず帰宅していないということは、何か問題が生じているのかもしれないが、大事にはならないだろう。
ただ喜べばいいんだ。樹がいなくなったことを、喜べばいい。明日から、どれだけ毎日が楽になるかしれないのだ。
消しゴムをつまみ上げると、角が丸くなっているのに気づいた。おじいさんにもらったときから、新品ではないと思ったが、よく見ると、五ミリほどは使った形跡がある。
――その消えちゃった子。まだ見つかってないんでしょ。
美術館のベンチで、そう言った女子の声が蘇る。
他にもいるのかもしれない。
颯真は戦慄した。
この消しゴムの角が丸くなっているのが証拠じゃないか。誰かが、誰かを消そうとして使用したから、だから、角が丸くなっている!
颯真は部屋を飛び出した。
玄関へ走り、慌てて靴を履く颯真に、居間のソファでテレビを見ていた母親が驚いた。
「どこ行くの?」
「学校!」
「学校? どうして」
「みんな、心配して集まってるから」
自分は心配していると言えるだろうか。純粋に、樹の無事を願っているわけじゃない。人消しゴムが関係しているのか確かめたいだけだ。
母親は止めなかった。
「気をつけてね。先生たちはいるみたいだから安心だけど。あんまり遅くならないで」
「うん」
学校に行ったって、人消しゴムが関係しているのかどうかわかるとは思えない。とはいえ、颯真はいてもたってもいられなかった。
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