第10話

 その夜、眠れないと思ったが、夕食としてカップラーメンを食べ、遊んでいるうちに眠ってしまった。頬に当たった硬い何かに目が覚めた。頬の下に携帯ゲーム機があった。

 

 喉が渇いて起き上がり、キッチンへ行った。ペットボトルの水をラッパ飲みしながら、母親の部屋を覗くと、まだ帰っていなかった。

 母親のベッドの脇にあるデジタル時計の数字を見た。午前一時二十七分。

 母親が帰っていないからといって、心細くはならないし、心配でもない。ただ、ムカついた。いままでにも、智也さんと出かけたことは何度もあったが、こんな時間まで帰らなかった夜はない。

 

 朝になって、妙にハツラツとした母親から、話があると言われた。

 コーンフレークに牛乳を注ぎながら、母親はちょっと甘えたような目で颯真を見た。

「何?」

「大事な話だから、今夜、帰ってきてから話すわ」

 目の前に置かれたコーンフレークの皿を近づけながら、もう一度言う。

「何」

「だから」

「今、言って」

 こちらを見下ろす母親が瞬きを繰り返す。目のまわりに塗られた色が、今朝はいつもとなんか違う。


「智也さんのことなんだけど」

 ああと、声に出さずに頷いた。

「結婚を申し込まれたのよ」

「へえ」

 予想していた展開だから、衝撃なんかないのに、胃の下あたりが凹んだ気がした。そういう気分というのではなく、実際に誰かに押された感触だ。


「ソウちゃん、反対?」

 ソウちゃん。いつ以来だよ、その呼び方。

「どっちでもいいよ」

 コーンフレークはすごく甘いが、あんまりおいしくなかった。スーパーのプライベートブランドの製品で、ちゃんとしたメーカーのより安いのだ。安物はやっぱりまずい。

「うん」

 母親は自分の分のコーンフレークの皿を片手に持ったままだ。それをトンと音をさせて、テーブルの上に置いた。


「もし、ソウちゃんが反対だっていうんなら、おかあさん――いいんだけど」

「別に」

「別にって――」

「だから、別にどうでもいいから」

 父親が出て行ってから、二年になる。その間、母親が苦労をしているだろうことは、颯真にもよくわかっている。母方の親戚から援助はしてもらっているが、生活は大変になったし、生活のための仕事をしている母親が、いろんな我慢をしているだろうことは、中学生なのだ、わかっている。


 だからってーーだからって。


「あの人、子どもいるじゃん」

 智也さんの一人娘の亜由さんを思い出した。一度だけ、会った。半年ぐらい前、みんなで食事に行ったのだ。智也さんとは違って痩せていた。眼鏡をかけたおとなしそうな人だった。正直、もう、顔をはっきり思い出せない。

「亜由さんは賛成してくれてるって」

「だったらいいじゃん」

「でも、颯真が――。亜由さんはもう大人で独立して別の場所に住んでるし」

 顔を上げたとき、スプーンが皿に当たって、金属的な音をさせた。嫌な響きだった。


「え、俺も智也さんといっしょに住むってわけ?」

「だって、家族になるんだから」

 颯真は立ち上がった。

「ちょっと待ってよ、ねえ、颯真。今夜、ゆっくり――」

 リュックサックを片手で掴んで、そのまま玄関を出た。後ろで母親が何か言ったが聞き返さなかった。


 早足でマンションを出て、途中の公園までは、ほとんど駆け足でやって来た。一秒でも早く家から離れたかった。

 公園の横を行き過ぎながら、ふいに力が抜けた。リュックサックを背中にかけ直す気力も湧かない。


 一体、誰のせいなんだろう、こんなに腹立たしいのは、こんなに苛立つのは。

 出て行った父親の顔が浮かんだ。あいつのせいだ。そう思えれば簡単だ。それなのに、どうしても父親のことを恨めない。


 学校では、給食の時間まではぼんやりと過ごした。樹が欠席していた。おかげで、平穏な一日だ。

 昼休みが終わって、五時間目の授業は社会で、すさまじい眠気に襲われた。社会の教師は担任の秦野だ。五十代のベテラン教師だが、長い教師生活の中で生徒を指導しようという情熱を失してしまったのか、授業に集中しない生徒をみつけても叱ることはない。

 種子島に鉄砲伝来。

 先生が黒板に書いた。

「種子島がどこにあるかわかるかー」

「瀬戸内海?」

 誰かが言って、ドッと笑い声が上がる。颯真も笑った。楽しめた。樹がいないと、こんなに楽しいんだ。

 と、

「おい、何をニヤついてるんだ?」

 秦野に注意される。教室にクスクス笑いが広がったが、颯真のおだやかな気持ちは乱されなかった。



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