第9話 第二章


         第二章

 消えろ、消えろ。


 呪文のように、颯真は呟いた。


 消えろ、消えろ。

 呪詛の呪文だ。樹の顔を思い浮かべながら、呟き続ける。


 呟き続けるうちに、呪文は樹に向かっていかなくなった。呪文は、颯真の中で沈み、颯真自身に染み付いてくる。

 消えてしまいたい。このまま、理科の実験で見たフラスコの中の水蒸気みたいに跡形もなく。

 といって、消えられるはずがなかった。通りに建つ店のガラス窓に、しっかりと写った自分の姿を見ながら、颯真は途方に暮れる。

 いつもと同じ道を歩く。夕暮れの町並みも、すれ違う人も、その人が連れている小さな顔の犬も、何もかもが自分を嘲笑っているように思える。

 消えろ、消えてしまえ。世界が狭くなっていく。目の前しか見えない。いや、目の前さえ見ていない。心は、暗くて歪んだ何かを見ている。

 

 マンションのエレベーターに乗り、いっしょに乗り込んできた管理人さんから顔を背けて、五階で降りた。家のドアを開けた途端、洗濯機が回る音がした。

「帰ったの?」

 ベランダのほうから、母親が叫んだ。

 返事をせず、颯真はまっすぐ自分の部屋へ向かった。誰にも会いたくない。何もしゃべりたくない。

 ベランダのドアが閉まる音がして、足音が近づいてくる。

 部屋の前に来たところで、母親に呼び止められた。

「ただいまぐらい言いなさいよ」

 ドアノブを押して、そのまま部屋に入り、母親の目の前でバタンとドアを閉めた。

「なんなの? せっかく早く仕事が終わったのに!」

 ドアの向こうで母親が怒ったが、颯真は返事をしなかった。ベッドに腰をかけ、それからゆっくりと体を横たえた。

 

 疲れた。

 ただ、それだけだった。

 机と椅子を運んだからじゃない。いままでのすべてに、もう、疲れた。もう、どうでもいい。ただ、疲れた。


「ねえ、颯真。今夜なんだけど、智也さんが来るのよ、それでね」

 母親はまだドアの前にいるらしい。

「来たら、三人で焼肉を食べに行こうって言ってるんだけど」

 寝返りを打って目を閉じた。

 うるせえんだよ。

 智也さんになんか会いたくないんだよ。あのマヌケなふっくらした顔が大嫌いなんだよ。

 こめかみが少し、ズキズキした。


「ねえ、颯真、どうしたの?」

 ドアが開かれた。

「具合、悪いの?」

 母親の声のトーンが変わった。そのままベッドに近づいてくる。

「どうかしたの」

 肩に置かれた手を乱暴に振り払った。

「うるせえよ」

 ふーっと、母親がため息を漏らす。

「行きたくないなら行かなくてもいいけど」

 立ち上がる気配がした。


「予約してくれてるから、おかあさんは行くよ。お腹が空いたら、うちにあるものを食べて。カップラーメンしかないけど」

 それから母親は、ふたたびため息をついてから、ごそごそと動いた。

「ちょっとは部屋の片付けしないさいよ。掃除機をかけろとは言わないけど、床の上のものぐらい拾って――」

 枕の横に、床の上に脱ぎっぱなしにしてあった服や靴下が置かれた気配がした。

「きったないわね。いろんなものが落ちてる」

 目を開けなかったが、母親が出て行ったのは、空気が動いてわかった。颯真と言い争ったあと、母親は絶対にドアを閉めない。ほんの少し開けて、出て行くのだ。

 そんな気弱な一面が、颯真には腹立たしい。舌打ちが出てしまう。

 

 颯真が起き上がったのは、智也さんが迎えに来て、何やら小声で話をしたあと、二人が出て行ってからだ。

 窓は暗く沈んでいた。自分でも気づかないうちに、眠っていたのかもしれない。

 少し、寒気がした。

 起き上がって、母親が拾ってくれたトレーナーを着ようとしたとき、ぽろりと何かが落ちた。

 消しゴムだった。あの夕暮れどきの古びた文具店でおじいさんからもらった消しゴム。さっき母親が部屋に入ってきたとき、床のものを拾っていた。そのとき、これも拾ってくれたのだろう。

 トレーナーに片腕だけ通した格好のまま、颯真はベッドの上に置かれた消しゴムを見つめた。


――名前を書かれた人は消えちゃうらしい。

 美術館で女子の一人が言った声が蘇る。

――あんたが消えて欲しい人物な名前を書く。それから、この消しゴムで書いた名前を消せば、そいつは消えてくれる。

 おじいさんの声も蘇る。

 信じてはいない。信じられるはずがない。

 ただの都市伝説だ。都市伝説は、まやかしと決まっている。

 颯真は消しゴムをつまみ上げた。

 そのまま、机に向かう。ふと、今日美術館に持っていったクロッキー帳を思い出した。美術館で気に入った作品があれば模写するように。そう教師に言われて、大半の生徒が持参していた。

 リュックサックからクロッキー帳を取り出して、頁を開いた。絵を書くのが好きなわけじゃないから、中は新品のままだ。真っ白い紙が重なっている。


 机の上に転がっていた鉛筆を掴んだ。


 樹。


 走り書きした。

 なぜか、ひどく疚しい気がした。誰かに見られているはずなんかないのに、思わず左右を見回す。窓のカーテンが開いている。慌てて立ち上がり、カーテンを閉める。

 キュッキュッと、かすかな音をさせて、名前を消した。筆箱にあるほかの消しゴムより、若干硬い。そしてすんなりと文字は消えてくれない。

 ゴシゴシこすらなくてならなかった。指先に力を込めて、何度もこする。

 

 消えた。

 樹という文字が消され、紙はもとの真っ白に戻った。

 知らず知らず、掌に汗をかいている。


「ふん」

 クロッキー帳を向こうへ押しやって、颯真は大きく息を吐いた。

「どうかしてるぞ」

 伸びをすると、椅子の背もたれが低く鳴った。



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