第6話

 今日一日をどう過ごすか。


 いつきのターゲットになってから、颯真そうまは朝起きると、まずそれを考える。

 

 昨日のことが思い出された。

 あんな目には遭いたくない。いや、昨日はまだましだったかもしれない。日に日に樹の悪知恵はエスカレートしている。


 いっそのこと、学校を休んでしまおうか。


 何度もそう思った。

 休めば、樹たちから逃れられるのだから。

 だが、もし、一日でも休んでしまえば、二度と学校へ行けなくなる気がする。行けなくなった自分はどうなる? 


 逃げ出せばいいと、よく聞く。

 だけど、大人が考えるほど、学校を休むのは簡単じゃない。大海に投げ出され、溺れていく自分が目に浮かんでしまう。そんなふうになるくらいなら、しがみついて耐えていたほうがマシなんじゃないか。


 始業時間の八時十五分より十分ほど前に、颯真は学校に着いた。遅刻して悪目立ちしたら危険だ。さりげなく、みんなの中に紛れて過ごす。それがいちばんいい。

 自分は変わったなと、校門をくぐりながら、颯真は思った。小学生の頃、自分はこんなふうじゃなかったと思う。もっと快活で、他人の目など気にしなかった。間違っているかもしれないと思っても、自分の意見はちゃんと言えたし、目立つことが悪いなんて思ったことがなかった。

 そんな自分が、どうしてこうなってしまったのか。颯真にもその理由はわからない。なんとなく毎日がおもしろくなくなって、気がついたら勉強にも運動にもやる気が失せ、自分に自信が持てなくなっていた。


 俺なんか、何をやっても無理、無理。

 心の中でそんなふうに呟くようになった。一度呟くと、癖になった。自分を信じていた日々の感触を、いまではもう思い出せない。

 

 父親が出て行ったこととは関係ないと思う。理由も言わずに出て行った父親と自分は、まったく無関係なのだ。あの人の行動が影響したなんて、死んでも思いたくない。


「おい、おまえ、何色だ?」

 目の前で怒鳴られて、颯真ははっと顔を上げた。

 怒鳴ったのは、数学の教師で、一組の担任のオーサワだった。

「事前に決められた色があるだろ」

 今日は美術の課外授業で県内の美術館へことを、颯真はすっかり忘れていた。一日目は、黄色い旗の組が向かう日程になっている。普段の組み分けとは別に、生徒同士の交流を図るため、ランダムに色分けしているのだ。


「黄色です」

「だったら早くバスに乗れ」

 オーサワが顎をしゃくったほうに、黄色い旗を立てた大きなバスが停まっている。

 ということは。

「おはようございます!」

 バスに乗り込みながら、颯真はバスの乗り口に立つ教師に挨拶した。

 樹と悠人は、たしか青だった。健は赤。今日はあいつらと別行動ができる。

 割り当てられた座席は、真ん中より少し後ろの窓際の席だった。


「ども」

 隣の席には、蒔田がいた。親しい間柄ではないが、特に問題はない。挨拶を返して、座席に腰を落ち着けた。

 いいようのない開放感、安堵感。今日一日は、ゆったりと過ごせそうだ。

「全員揃ったかー」

 教師の声に、ぼそぼそと返事が上がる。

 バスは出発した。目的地までは時間にして一時間あまり。それから午後二時まで美術館見学をし、そのあとはバスで学校に戻ってくるが、授業はなくホームルームだけで帰れる。


「おまえ、弁当、持ってきた?」

 隣に話しかけると、蒔田は怪訝な表情で、

「ああ」

と頷いた。軽いノリの颯真に戸惑っている。

「俺、忘れちゃった」

「売店があるよ、きっと」

「そうだよなー」

 クククッと笑いがこみ上げてきた。目を丸くしている蒔田を無視して、颯真は清々しい気持ちで窓の外を見つめた。



 何が素晴らしいのかよくわからない抽象的な美術品の数々は、一時間もしないうちに見終わってしまった。

 美術館のまわりは、大きな公園のようになっている。背の高い木が幾本も植えられ、べンチが置かれていた。

 自由行動だから、何をどういう順番で見ても、教師たちに文句は言われない。それをいいことに、それぞれ友達同士で集まって、授業とは関係のない行動をする者も多かった。

 颯真もその一人で、イチョウの木の下のベンチに集まった連中が、スマホのゲームに熱中するのを見学していた。自分でやればいいのだが、人のやり方を見るのは、それはそれで楽しい。

 

 昼になると、蒔田の言った通り、館内にある売店でサンドウィッチと飲み物を買った。

 どこで食べようか。

 さっきのベンチへ戻ってもいいけど。

 そう思ったとき、横を通り過ぎた女子の声が耳に入ってきた。


「恵奈(けいな)、そんなの信じるなんてヤバくない?」

「マジなんだってば」

「どこの話?」

「ツイッターにあったんだよね。場所は特定されてなかった」


 ゆっくりと顔を上げて、颯真は行き過ぎていく女子たちを見た。一組の女子たち三人だった。名前は――一人ならわかる。小学校が同じだった。そう。近藤恵奈こんどうけいな。当時、短かった髪が伸び、後ろで結ばれていた。狐の尻尾のような束ねた髪が、動くたびに揺れている。

 

 恵奈の横顔は、昔と変わらず輝いて見えた。勉強も運動もそつなくこなし、それなのに、人と距離を置いている印象がある。ちょっととんがった感じのする女の子。

 大きな、じっと見つめられると吸い込まれそうになる目が印象的だった。

 当時から、男子たちの憧れの的だ。

 

 恵奈が、独り言のように呟く。

「消しゴムで消したんだって。ターゲットの名前を書いてね。そしたらいなくなっちゃったんだって」

「えー? 怖い。消えちゃったの?」

 真ん中を歩く女子が、黄色い声を上げた。怖いと言いながら、嬉しそうな笑い声を上げている。

 

 消しゴムで消したんだって。

 

 音声をリフレインさせたみたいに、その言葉が、彼女たちの後ろ姿から糸を引くみたいに流れ出て、颯真に近づいてくる。

 ――消しゴムで消したんだって。

 天井の高い館内の空間に、彼女たちの声が溶けていく。

 

 自然と足が彼女たちのほうへ吸い寄せられていった。彼女たちは、館内の廊下を歩いていく。

 大きな鉄の車輪のようなオブジェが置かれたロビーに、女子たちは出た。その壁際に、楕円形の雲みたいな低い椅子がある。幾人かの生徒たちが、弁当を食べるために座っている。そういえば、館内で昼食を摂るときは、ここを使うようにと引率の先生が言っていたような。

 

 女子たちは、雲の端っこに腰掛けた。

「はい、恵奈の分」

 一人が恵奈にジュースを手渡す。

「ねえ、その卵焼き、かわいくない?」

 弁当箱を広げた一人に、ほかの二人が顔を寄せる。

 颯真は彼女たちのすぐ近くに腰掛けた。

 彼女たちは、しばらく弁当箱の中のおかずを交換し合った。その都度、

「おいしい」

と口にし、それから話題は韓国のアイドルの話へと移る。


 一人ぽつねんと、女子たちのすぐ脇でサンドウィッチを食べる自分がマヌケに思えた。

 悪目立ちする前に、席を立とうか。

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