第5話
ふたたび橋を渡って、幹線道路まで出ると、スマホの位置情報が動き出した。
画面に目を凝らす。
幹線道路は、町の南北を貫いているはずだ。それなら、南へ向けて歩けばいい。
自宅のマンションに着くと、七時を過ぎていた。母親はまだ帰っていなかった。そういえば、今朝、遅くなると言われた気がする。
母親は工業部品を扱う中小企業で営業をしている。普通六時過ぎには帰宅するが、ときどき取引先で話が長引くと九時を回る。それでも、ほかの社員より、時間の融通はきく方らしい。この会社は、母方の親戚が経営している。
ダイニングのテーブルの上に、メモ書きがあり、冷蔵庫にあるチャーハンを食べるようにとあった。いつもなら、制服も着替えず何か口に入れるのに、今夜は食欲がわかない。
冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、ラッパ飲みした。ボトルに直接口をつけるなと、母親から口酸っぱく言われているが、気にしていられない。喉を鳴らして飲むと、ようやく救われた気になった。
自分の部屋に向かった。十畳のダイングキッチンの向こうに部屋がある。
西側にある八畳の部屋は、昼間の熱気がこもって、空気が澱んでいた。西日の当たるこの部屋は、秋でもTシャツ一枚で過ごせるほどだ。
元々、颯真の部屋は、玄関脇にある六畳の部屋だった。ここに移ったのは、父親が出て行ったから。ここは元々父親の書斎だった。
がらんどうになった部屋に、母親は強引に移れと言った。多分、さびしかったんだろう。離婚の詳しい理由は、小学六年生だった颯真にはわからなかったが、痕跡を消してしまったように部屋を空けて出て行った夫を早く忘れたかったんじゃないかと思う。
ベッドにダイブした。枕に頭を押し付けて、目を閉じる。樹や大雅の顔が浮かんできた。花火に火を点けられたときの笑い声も。
心臓の鼓動が早くなった。
思い出してはいけない。どうにか保っているもの――意地やプライドを減らさないように、思い出してはいけない。
スマホで録画を始めた大雅の顔が浮かんで、瞬間、吐きそうになった。一人だと思う。一人であいつらと戦わなくてならないと思う。
玄関の鍵が回る音がして、颯真は目を開けた。
スタスタとスリッパの音がする。母親の音より、ちょっとだけ重かった。足音は近づいてくる。
ドアが開いた。
「なんだ、いたのか」
智也さんだった。母親の取引先の社長の息子で、母親と親しい。付き合っていると、二ヶ月ほど前、母親から告げられた。
「ごめんな、ノックもしないで。いると思わなかったけど、テーブルの上にペットボトルがあったからさ、もしかしてと思って」
「構いません」
智也さんは、情けないような顔になって、黙った。そんな顔をすると、ゆるキャラのくまモンが叱られたみたいに見える。
颯真の父親は、智也さんとは正反対の、冷たい感じのするちょっとしたイケメンだった。そんな父親が自慢だったが、母親はあえて正反対の男を選んだのだろう。母親より十歳以上年上の、そろそろ六十に近い年齢だ。
顔だけじゃなく、全体的にふっくらとした体型で、本人は気にしてジムに通っている。母親とは、そのジムで知り合ったらしい。
知り合ってみると、取引先の社長の息子だとわかったのだと、母親が嬉しそうに話していたのを思い出す。
悪い人じゃなかった。それは確かだ。母親が智也さんと付き合うことに反対するつもりはない。ただ、悪い人じゃないからといって、父親の代わりになるかといえば、それは無理だ。
智也さんが家に来るようになって、颯真は母親とあまり口をきかなくなった。自分でも、どうしてかはわからない。
「焼きそば、作ってきたんだよ。魚介類の焼きそばなんだ。うまいぞ、食べるだろ」
智也さんも母親同様バツイチで、二十九歳の一人娘がいる。亜由さんだ。亜由さんは都内の下町のほうで一人暮らしをし、智也さんは自分の両親と同居している。料理の好きな智也さんは、腕を振るったとき、ときどきこうして持ってきてくれる。
はいともいいえとも答えないで、颯真はふたたびベッドに顔を埋めた。
「腹が減ったら、来いよ。俺、ビール、飲んでるから」
ドアは静かに閉められた。智也さんは、遠慮しているのだ。思春期の少年に、どう対処していいのかわからないのかもしれない。そんな遠慮がちな態度も、妙に腹立たしい。といって、我が物顔で家に来られたら、自分は家出してしまっただろうが。
寝返りを打った。汗をかいた制服のシャツが、臭う。
ふと、ズボンのポケットに違和感があった。
手を入れた。消しゴムが入っていた。
――人を消せるんだ
そう言ったおじいさんの声が蘇った。
バカバカしい。
颯真は指先でつまんだ白い消しゴムを見つめた。
なんで、あんなことを信じちゃったんだろう。
そう。信じてしまったのだ。あの一瞬は。それで、消しゴムを突き返さなかったのだと思う。
古びた文房具店だった。
場所はよく思い出せなかった。どの道からあの場所へ行ったのか、よくわからない。
颯真は指先で消しゴムを飛ばした。
消しゴムはフローリングの床の上に落ち、机のほうへ転がっていった。
瞼が重くなった。
玄関のほうから、母親の明るい声が響いてきたが、起き上がる気力はなかった。
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