第4話
明かりが漏れた建物は、古びた二階建てだった。
入口は下半分が摺硝子になっている引き戸で、中を覗くと、平台が並んでいるのが見えた。
平台の上には、ノートやら鉛筆やらが、飾り気のない箱に入れて陳列されていた。
文房具店だ。
それはわかったが、不思議な感じがした。
こんなところに文房具店などあっただろうか。この辺りに来た憶えはなかったから、ここに文房具店があるのを気がつかなかったのだろうか。
それにしても、文房具店なら、学校の近くにあるんじゃないだろうか。こんな住宅街の中にあるのは奇妙な気がした。筆記用具やノートの類を、普段颯真は、ショッピングモールの百均か書店で買う。文房具だけ扱う店というのを、そもそも知らない。
そのとき、中で人が動いたように見えた。なんだか、覗いているだけなのは悪い気がして、颯真は店の引き戸に手をかけた。
引き戸は重かった。ちょっと持ち上げてみる。すると、ギギッと音を立てて開いた。
小さな店だった。外から見たとき、あたたかく感じた明かりは、棚のあちこちに置かれているロウソクの光だった。ロウソクは簡素な燭台にのせられている。
今どきロウソクの火を明かりにしているなんて。
だからだろうか。店の中には、焦げたような臭いがただよっている。
そのとき、店の奥で人影が動いた。
「いらっしゃい」
現れたのは、おじいさんだった。年齢は、多分、八十歳ぐらい。いや、もう少し若いのだろうか。颯真には見当がつかない。祖父母は遠い田舎で暮らしているし、近所の老人に年齢を尋ねたことはない。
小さいおじいさんだ。百六十五センチの颯真よりも背が低い。痩せているから、余計に小さく見えるのだろうか。まだ秋の始めだというのに、厚手のあたたかそうな黒っぽい色のカーディガンを羽織っている。頬骨の張った皺だらけの顔。顔を覆うような大きな黒縁の眼鏡。
そんなおじいさんの姿が、ロウソクの光の中で浮かび上がる。
「何か探し物があるのかね?」
「いえ――その」
ただ興味本位で入ってきただけだから、何を買う予定もない。慌てて目の前の箱の中を見た。HBの鉛筆が数本入っている。
指先で、鉛筆に触れた。普段、鉛筆は使わない。学校の授業中ノートをとるときも家で宿題をするときも、シャープペンシルを使っている。
どうせなら、シャープペンシルの芯を買おう。そう思ったとき、おじいさんが近づいてきた。
「なんだね、それは」
おじいさんは、颯真の腰に巻かれたロープを指差した。瞬間、カッと顔が火照った。すっかり忘れていたのだ。自分が無様な姿をしていることを。
おじいさんの問いに答えられないまま、颯真は鶏の骨のようなおじいさんの人差し指を見つめた。
「外してあげよう」
「え?」
颯真は思わず顔を上げた。
「取りたいんじゃないのかね」
曖昧に頷いた。今更かっこつけても仕方ないのに、素直に頷けなかった。
おじいさんは踵を返し、店の奥へ行くと、鋏を手に戻ってきた。
「こりゃなかなか丈夫なロープだ」
おじいさんの手にあるのは、それほど大きな鋏じゃなかった。ぐいぐいとロープに刃をこすりつける。
切れた。腹回りが楽になった。
「ありがとうございます」
照れくさくて、うつむいたままお礼を言う。
パチリと音を立てて鋏が平台の端に置かれた。おじいさんは何も言わない。なぜ、颯真がロープなんかを体に巻きつけているのか訊いてこない。
ロープが丸められた。そのまま無造作に床に上に投げられる。
「こんなもの、いらないんだろう?」
「は、はい」
おじいさんの黒縁の眼鏡の奥で、レンズのせいで大きく膨らんでいる目が、何もかも知っているんだぞというように颯真を見返している。
「あ、あの……シャーペンの芯はありますか」
気まずくて、颯真は訊いた。
「ふん」
おじいさんの返事はそれだけだった。颯真は体を屈めて、平台を見ていった。三角定規、ノート、コンパス。シャーペンの芯はどこにあるんだ?
「あんたにこれをあげよう」
四角く白い消しゴムが差し出された。
「え――、でも」
消しゴムは筆箱の中に、予備を含めて三個持っている。
「あんたに必要なのは、この消しゴムだ」
「僕、消しゴムは持っているんですが」
もちろん、いくつあっても困らないものだけれど。
ま、いいか。
颯真は思い直した。ロープを外してくれたのだ。言うことをきいて、この消しゴムを買ってもいい。
「いくらですか」
財布を取り出そうと、リュックサックの肩紐に手をかけた。
「代金は、いらん」
「でも」
「この消しゴムは、人を消せるんだ」
「は?」
颯真はまじまじとおじいさんを見つめた。冗談を言いそうな人には見えなかったが、中学生に合わせて、何かおもしろいことを言おうとしているのだろう。そう思った。
すると、おじいさんは、指先で眼鏡を上げ、心持ち体を反らした。
「あんた、信じとらんな」
「はあ、まあ」
笑うべきだった。もしくは、何か毒のある返事をして、おじいさんを喜ばせるべきじゃないか。
「白い、真っ白な紙と鉛筆を用意してな、あんたが消えて欲しい人物の名前を書く。それから、この消しゴムで書いた名前を消せば、そいつは消えてくれる」
言い聞かすように、おじいさんはゆっくりと言った。
「――消えて欲しい人物」
知らず知らず、颯真の顔が強ばった。ついさっき、
おじいさんは深く頷いた。
「そいつだ。そいつの名前を書いて、これで消すんだ」
目の前に差し出された消しゴムは、何の変哲もなかった。三センチほどの幅の長方形。紙で巻かれていないか、新品ではないのかもしれない。よく見ると、角が少し丸みを帯びている。
おじいさんに右手を掴まれた。乾いてひんやりしたおじいさんの手が、颯真の掌を広げていく。
開いた掌に、消しゴムが置かれた。
「わしは誰にでもこれを渡すわけじゃない」
「え」
颯真はおじいさんの濁った茶色い目を見返した。
「この店は、たどり着くべき資格がある者にしか見つけられない」
「たどり着くべき資格のある者……」
「さあ、もう、帰るといい」
おじいさんはそう言いながら、颯真の右の掌を閉じた。その途端、ふっと風が吹いてロウソクの火が一つ消えた。
「今日は、もう店じまいだ」
おじさんに背中を押され、颯真は店の出口へ向かう。
入ってきたときと違い、引き戸はすんなりと開き、颯真は店の外へ出た。
振り返ると、店の中は真っ暗で、おじいさんの姿も並べられた文房具も見えない。
颯真はとぼとぼと歩き出した。右の掌の中には、消しゴムがある。
ふいに、表通りからの喧騒が聞こえてきて、颯真は我に返った。橋が見える。うちに帰るには、あの橋を渡らなくてはならない。
なぜか、逃げ出したいような心持ちになって、颯真は駆け出した。
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