第3話
「や、やめろー!」
叫びながら、反射的に腰のロープを引きちぎろうとしたが、背中の結び目はびくともしない。
ライターの朱色の炎が、悠人の鼻の前で揺れている。
「点けるよ」
大雅が笑った。炎の照らされた大雅の細い目がますます細められ、口角が上がる。
「大雅、録画しろよ」
悠人が顎をしゃくる。大雅は黙ったまま、ポケットからスマホを取り出した。
「おもしろい動画がとれるんじゃね?」
頷く大雅を、颯真は正視できなかった。大雅、おまえ、ほんとに撮るのか?
「走れ!」
樹が叫んだ。
颯真は走り出した。その途端、樹と悠人の笑いが吹き出す。
あはははははははは!
「おい、健!」
ライターが、健に投げられた。
工場を出ると、すぐにまた別の廃屋に突き当たった。それを通り抜けると、だだっ広いガレージになった。セイタカアワダチソウやヒメジョオンが、コンクリートの地面からところどころ地面を突き破って伸びている。
ロープを付けているせいで走りにくかった。それでもなんとか、ガレージの真ん中あたりまで来た。だが、健はまだ、五メートルほど後ろだ。
きっと、手加減しているのだ。あっという間に追いつけるはずなのに、長く楽しみたいというわけなんだろ?
笑い続けている樹と悠人。
あいつら、いつか殺してやる。この世から消してやる!
そのとき、まるでヒョウが獲物に飛びかかるように、健がダッシュしてきた。
「わあぁあああ!」
あっという間だった。ぼわっと点いた火がすごいスピードで上に上がってきた。同時に白い煙が立ち上がる。火薬の臭いが鼻をつく。パチパチパチパチパチパチ! 花火が燃える。
颯真は歯を食いしばって、ロープを掴み、先端をコンクリートに叩きつけた。それでも火は消えない。
「わああああああ!」
叫びながら、颯真は走り続けた。火が消えそうになると、健が追いついてライターを近づけてくる。
走り続けた。走っても、ロープは離れない。後ろの炎は迫ってくる。尻尾のように体に付いたロープが、燃えながら追いかけてくる。
水だ。水で消すしかない。それなら川へ行くべきだ。それなのに、颯真は川と反対方向へ走っていた。川なんかへ行ったら、溺れてしまう。大きな川なのだ。堤防の下はちょっとしたランニングスペースみたいになっているが、その先の地面は、ストンと水面になっている。
ガレージの先にある道路を走った。幹線道路で通行人は少ないが、車の交通量は多い。車の窓に、いくつもの人の顔が見えた。
みんな笑っている。
きっと大笑いしている。
目を丸くして、訝しげな表情だが、心の中では笑っているはずだ。罰ゲームか何かで、ふざけたことをしていると、そんなふうにしか思っていないだろう。
助けてなんかくれない。他人は人の不幸を喜びはしても、救済の手を差し伸べてはくれないのだ。樹たちのターゲットだった前の同級生に、何もしなかった自分が思い出される。
これは、ほんとうの憎しみから出た行為。
颯真はいつも感じていた。樹は本気だ。樹は本気で、いたぶる相手を憎んでいる。どういう理由で、樹の中にそんな憎しみが生まれたのかは知らない。
颯真の通う中学校は、近隣三校の小学校から生徒が集まってきている。樹は颯真とは別の小学校だったから、樹がどんな小学生だったのかわからない。噂ではいろいろ聞いた。両親が離婚したあと、樹はどちらにも引き取りを拒まれて一時期施設にいただとか、アル中の父親に殴られて育っただとか、その父親は樹にろくな食事を与えておらず、樹は給食の半分をうちに持って帰っていただとか。反対に、金持ちの両親は、金だけ樹に与えて、兄ばかりかわいがっているだとか。
どれも嘘かもしれなし、真実の部分もあるのかもしれない。だが、あの憎しみだけは、本物なのだ。
教師は見抜いていないだろう。樹が首謀者となって、いじめを繰り返していることを見抜いているくせに、樹の憎しみの深さには気づいていないのだ。樹には、どこか人をくったようなところがあって、大人にも一目置かれている。いや、おとなしく卒業してくれればそれでいいと思っているのかもしれない。
幹線道路を走り続けて、気が付くと、颯真は静かな住宅街の路地を歩いていた。相変わらずロープの尻尾はぶら下がったままだが、もう、火は消えている。
樹たちの姿はなかった。健が追いかけてくる気配もない。どうにか逃げおおせたのだろう。明日はまた明日で逃げなくてはならないだろうが、今日のところは、ともかく逃げおおせたのだ。
空を見上げると、暗くなった西の空に、一番星が輝いていた。その輝きを見た途端、颯真の体から力が抜けた。どれぐらい走ったのかわからない。体育の授業で走らされるマラソンよりもずっと長く走ったのは確かだ。
ここはどこだろう。
見覚えのない風景だった。といって、知らない町のはずはない。闇雲に遠くへと走ってきたからといって、学区内から外れてはいないはずだ。
道の先に、橋が見えた。幅が三メートルほどの、小さな橋だ。
あんなところに橋なんかあっただろうか。この町には、いくつもの川が流れている。ひとつの川からまるで手足みたいに支流が伸びているのだ。
とりあえず、橋を渡ることにした。橋を渡れば、案外帰りの近道になるかもしれない。
静かだった。橋を上を通る人も車もないし、街灯も橋の先にぽつんと一つあるきりだ。
なんとなく不安になって、リュックサックからスマホを取り出し、位置情報を得ようとした。ところが、なぜか圏外になっている。
「なんでだよ」
とにかく、巻かれたロープを取り外すために、颯真はしゃがみこんで、背中に腕を回した。結びの部分に指を這わせ、ロープをつまもうと力を込める。取れなかった。悠人のやつ、こんなに固く結びやがって。
息を思い切り吸って腹を凹ませ、結び目を前に持ってきた。こうすれば少しは作業がやりやすい。
結び目の間に指を差し込もうとした。でも、入らない。ボンドで固めたかのような結び目はビクともしない。こびりついた火薬の臭いがするだけだ。
「ざけんな!」
情けなくて、ふいに鼻の奥がツンと酸っぱくなった。
拳を握り締め、結び目の塊を叩く。樹たち一人一人の顔を思い描きながら、叩く。結び目は腹の上にあるから、叩くと腹が痛い。
馬鹿みたいだ。自分で自分の腹を殴りつけている。
そのとき、チリリンとベルが鳴った。咄嗟にロープの結び目を両手で隠し、顔を上げる。
颯真の脇を一台の自転車が通り過ぎていった。運転者は、背中にロゴの入った箱を背負っている。街でいつも見かける配達員だ。
自転車は黒い影となって、路地の先を進んでいった。影はやがて、まわりの闇に溶け込んでいく。
ふと、街灯の光の下に、一匹の黒猫が現れた。
猫はじっとしている。誰かを待ってるみたいに、こちらに顔を向けたまま動かない。
猫の足元に、鏡があった。楕円形が膨らんだみたいな形の鏡。
いや、鏡じゃない。大きな水たまりだ。水たまりに建物の明かりが映っている。あたたかい色味の明かりだ。
黒猫が、水たまりからぷいと離れた。
颯真は顔を上げて、建物を見上げた。建物には看板が出ている。何かの店のようだ。
ふいに、喉の渇きを覚え、颯真はゆっくりと店のほうへ引きつけられていった。
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