おわりに……人は何をもって詩を書くのか?

 この文章において二度、「批評は批評論である」と書いたように、批評とは一個の創作たらざるを得ないものです。批評とは、作者が同意するにせよ、しないにせよ、コマーシャリズムに属するものであり、作品に対して隷属することを表すものです。わたしは、この小論において、ひだかたけし氏の作品を紹介する労を取りました。ですが、解説する労を取りませんでした。そのことに、読者は否と言うかもしれません。

 わたしがこの詩人に出会ったのは、2019年のことです。やんごとなき事情から、わたしが現代詩フォーラムというウェブサイトに詩を投稿し、最初にポイントをつけてくれたのがひだかたけしさん他数名の詩人でした。わたし自身は、今は詩を書いてはいません。少なくとも、そう認識しています。わたしの書くものは詩ではない、と。そこに、今回の依頼があり、わたしは詩というものと正面から向き合わざるを得なくなりました。

 これは、今まで何度もこなしてきた対決であり、当初は容易に感じられるようなものでもありました。しかし、詩と詩人とは異なります。詩はひとつの製品であり、詩人とは生きた生産者です。詩人を評するとは、畢竟ひとつのコミュニケーションなのです。それは、わたしがもっとも苦手とする点です。生きた詩人と対決し、彼/彼女が気に入るようにも、気に入らないようにも書かなければいけない……。

 そこに、「批評」という文学の一カテゴリーの弱点をも感じるのですが、押されている(劣勢な)ゲームほど楽しい、そうした昂揚も感じます。ひだかたけしという詩人は、わたしにとってはまだまだ未開の分野を宿している詩人です。それを現代詩という括りで片づけることは容易いのです。ですが、わたしはこの詩人に対して、真っ向から「詩とは何であるのか?」という姿勢をもって望みたいと思います。そしてその戦いに……多分、わたしは敗北したでしょう。

 この論考を書き終え、わたしはほっとした気持ちもあり、同時に寂しくもあります。「ひだかたけし」という詩人が、「他人」になってしまったという思いがあるのです。その詩は切り刻まれ、解釈され、ひとつの「商品」になってしまった。……これは、わたしが望んではいないことでした。わたしは、解釈しても解釈しても、その詩人の詩心には到達し得ていない、ということを感じています。語彙? レトリック? そんなものが、詩を味わうに際して重要な意味を持つものでしょうか?

 わたしは、この「ひだかたけし」という詩人を、粗野な詩人だとも、丁寧な詩人だとも言うことができます。「〈根源悪〉の原体験」という、氏の代表作を読むとき、読者はそこに剥き出しの悪意、粗暴さを感じることでしょう。つまり、「粗野さ」です。ですが、その悪意は実に丁寧に描写されています。「鉛色の工作機械」「金属音」「灰色の作業服」「灰色の漆喰壁」──そこに表されているものは、無機的な物に対する恐怖であり、それらへの対処法を、作者は「丁寧」に叙述してみせます。

 実は、こうしたことは注釈・解題を離れてこそ伝えられることでもあるのです。わたしは、第一章から第七章までをそのまま省いても良かったのです。「この詩を読め!」と、リンクさえ張れば。……ですが、そんな横暴に読者は納得しないでしょう。ひとつの詩を伝えるために、それ以上の言葉が必要とされる、そのことは皮肉です。ですが、その皮肉にわたしは殉じる者です。RPG(ロールプレイング・ゲーム)を楽しむように、わたしはその謎解きに奔走したいのです。

 ひだかたけしという詩人が、日本の詩史に名を連ねるのも、そう遠い未来のことではないでしょう。わたしたちは、せいぜい五十年程度待てば良いのです。もっとも、このことは詩人が「詩を書き続ける」という態度を捨てないという前提においてですが。わたしは、ある一人の詩人を褒め過ぎる、ということも、貶し過ぎる、ということも望んではいません。すべてにおいてフラットでありたい、というのがわたしの姿勢です。そして、それが詩の世界からわたしを排除するものでもあるでしょう……。詩という芸術は極めて個人的なものであり、その個人という存在への没入によって、初めて対象化されるものです。そこに例外はないと言えます。詩が評価されるのも、評価されないのも、まさに詩という文学が持つ本質によっているのです。

 わたしは、この小論を書いて自分自身に呆れています。「全然、ひだかたけし氏の詩の解説になっていないなあ……」と。もちろん、わたしは言い訳することも可能です。この依頼は唐突なものであり、わたし自身には十分な準備ができていなかった、と。しかし、わたしはこうも思うのです。「詩を読んだときに感じる戦慄、スリル、それに勝る芸術的な感興はない」と。

 これは、詩の至上主義を謂いするものではありません。単に、わたしの好みの問題です。わたしが、ひだかたけし氏の詩を好きでなければ、それを取り上げたでしょうか? 皮肉な言い方ですが、もしそうでなければ、わたしは対価を要求したかもしれません。このことは二つの意味を持ちます。ひとつは、批評というのは簡単ではないということ。もうひとつは、ひだかたけし氏の詩が自発的な感想を誘発するものである、ということです。わたしも、氏が親しい友人であり、優れた詩を書く作家であれば、このような長文は書きたくないのです(いえ、紛れもなく、氏は優れた詩を作家であるのですが)。

 ですが、愚痴は止めましょう。その代わりに、わたしは読者に対してひとつの問いをぶつけたいと思います。「あなたは、この『ひだかたけし』という詩人を好きになりましたか?」と。「理解したか?」とは問いません。そんなものは、批評の役目でも、目的でもないからです。面白くなければ、何をもっての批評でしょうか? それは正しく愚痴に過ぎません。この小論は、文学者は嫌うであろう、コマーシャリズムそのものなのです。

「ああ、言ってしまった」という気もちがないわけではありません。わたしは、この批評を依頼されたときに、少なからず戸惑いました、「それは重いよ」と。ですが、批評家の重さと詩人の重さ、あなたはどちらをより重いと捉えるものでしょうか? ……多分、わたしは最初から敗北を覚悟した戦いを挑んでいるのでしょう。そして、そのことに関する弁明はしますまい。「詩>批評」という不等式に、わたし自身は全面的に賛同するものです。

 この小論を「批評」として読まれてきた方、「詩の紹介」として読まれてきた方、どちらに対しても伝えたいことがあります。すなわち、「詩は、書くだけでは詩たり得ない」と。

 ひだかたけし氏は、その初期においては「時間」の欠如によって、その中期においては「時間」の存続によって、詩を書いてきた詩人です。それは、一人の詩人の歴史において、順当な成長であると言えます。人は、書くことによって、生きることへと帰るのです。氏は、多分無意識ながら、それを実行してきた詩人でした。

 氏が自意識を過大評価する詩人であれば、あるいはこのような批評は依頼しなかったかもしれません。そして、詩を書くことを停止していたかもしれません。自己を切り刻むところに、答えというものはないからです。わたしは他人であるからこそ、氏の詩について、好きなことを書くことができました。氏の詩が真の詩であると言い、「詩論」へと羽ばたかせていくことも可能です。そこに、わたしが詩を離れてしまったという一抹の寂しさは伴うのですが……。

 何をもってしても言いきれない、ということをわたしは思うのです。「詩人の側に立つか、批評家の側に立つか?」と問われれば、わたしは迷いなく「批評家の側に立つ」ことを選びます。詩人が、それを「喧嘩を売っている」と考えても、往来です。ひだかたけし氏本人は、この批評に納得しないでしょう。いいえ、むしろ納得してもらっては困ります。氏の詩には「時間」がある、いや「時間」がない、そういった些細な注文に右往左往してもらっては困るのです。

「生来の詩人(生まれながらの詩人)」とは、「言葉」に対して戦う宿命をもった詩人であり、そのことは、ボードレールの言う次のような言葉が後押しします。すなわち、「詩人こそが最高の批評家である」と。やはり手元に資料がなく、この言葉がどの作品から出てきたものなのか、今は判然としません。ですが、ボードレールは「言葉という素材を扱う以上、人は批評家たらざるを得ない」という趣旨のことを言っていたような気がします。これは引用でもないような典拠ですが、わたしはその主張のために、曖昧さを犠牲にしましょう。

 SF作家である、神林長平はこう言いました。「人の社会とは、言葉というヴァーチャルなものを媒介にしている以上、ヴァーチャルなものである」と。これも、正確な引用ではありません。「言壺」という作品のなかにある、何らかの言辞を要約したものでしょうか?(ここに、わたしは評家としての不徹底を思うのですが……) 「言葉」「ヴァーチャル」──文学を目指す人であれば、同一の次元には存在させたくないような言辞でしょう。

「人は何をもって詩を書くのか?」……これは、詩人にとっては根源的な問いです。こうした絶望的な問いに対面することを拒んだ詩人は、詩人たるを得ません。ひだかたけしという詩人が、そうした「三文詩人」でないことは、この小論に引用した詩の一節からも明らかでしょう。この論を否定するのであれば、わたしは「氏の詩を読んでください」と言うでしょう。この小論を読むよりもはるかに膨大な労苦と、それに勝る幸福感が、そこには待っています。「詩を読むことの幸福がここにはあり」という。

 さて、わたしはこの小論を終えなければいけません。そして、それに適切な言葉を思い浮かべられません。もし、ひだかたけし氏が詩集を出版していれば、それを購入できるリンクを提示して終わらせていたことでしょう。また、最初に立ち帰り、現代詩フォーラムにおける氏のアドレスを提示することも可能です。ですが、そのどちらもわたしにとっては納得がいかないものです。わたし自身は、氏の今後の詩の発展を期待したい、このような小論による批評だけでは終わってほしくない、という思いがあるためです。批評というのは、その最初から対象に負けているものですが、わたしはさらなる「負け」を期待したいのです。

 氏の詩が成長途上にある、ということをわたしは否定しません。現に生きている詩人が成長ということを拒んだとき、良い詩が書けるとも思いません。しかし、「成長≠完成」でもあるのです。それは、実は似通ったものであり、「時間」というものを排斥したとき、直近するものとなります。ここでサルトルを持ち出しても良いのですが、十分な資料がないために、それは止めておきましょう。ですが、サルトルが言葉と格闘した思想家であったことは、伝えておいても良いかと思われます。

 言葉との格闘というのは、日常生活がそれを可能にしているようには、容易なものではありません。現代語、古語、外国語……世界にはさまざまな言葉があふれています。それらはすべて、詩人にとっての題材であり、イマージュを喚起させるものです。と同時に、全身をもって格闘しなければいけないものでもあります。詩人というのは、言葉の世界におけるブルーカラーなのです。「汗水垂らし、人は詩を紡ぐ」……その他に、どんな共感の方法があるでしょう?

「ひだかたけし」という詩人は、この点において誠実な詩人だと言えます。最後に、この詩を引用しましょう。2019年12月に書かれた、「疼痛宿痾」(*1)という詩です。


  生きているから痛いのさ?


  そんな生半可な答えでは納得せぬ


  生きて生きて死んででも

  千年万年かかってでも

  この宿痾の根源 

  必ず突き止めてやる受け止めてやる


 この詩は、氏の創作のなかでは、必ずしも良作とは言えない詩です。そして、ここで「良作とは言えない詩」を取り上げたことに、わたしは初めてほっとしています。というのは、わたしの目的は氏の全人生の肯定ではなく、詩人生の肯定であるからです。実はこの詩も改定されているのですが、わたしはこの改定は無効にしたいと思います。氏は、初出において、その詩想を言い切っていたはずなのです。ですが、なぜ詩人はこれほどまでに言葉と格闘するのでしょうか?

 ここに、第一章で引き合いに出した、画家ドガのような姿勢があります。詩人はすなわち、誰に顧みられることがなくなったとしても、詩を書き続けるだろう、と。わたしが、氏を「生まれながらの詩人」であると評する所以です。詩人は、詩を「書きたくて」書いているのでしょうか? 詩を「書かざるを得ずに」書いているのでしょうか? 第五章で引用した「夏の後ろ背を蹴る」にもあるように、氏の詩は自己充足感のために書かれた詩ではないようです。では、いかなる理由によって、何を目的として詩人は詩を書くのか?

 それは根本的な問いであり、この小論が目的とすべき部分です。ですが、わたしはあえてその答えを提示しないでおきましょう。早急に答えを求めることは、早急にその問いを終わらせてしまうことにつながります。読者は、その混み入ったパズルを解くという楽しみを、答えの提示によって奪われてしまうことにもなりかねないのです。……最後に、「人は何をもって詩を書くのか?」という問いに対する答えを提示して、終わりにしましょう。──わたしは、この小論においてそのことをすでに書き終えている、と。いささか不細工に過ぎますが、わたしはこの小論を終えます。

 

(追記)


 この小論は、この「おわりに」を含めれば全九章。2022年9月から、同10月にかけて執筆したものになります。今はただ、憔悴しています。この文章を初めから読み直すという気力もありません。今後も、この論考に大幅な改定を加えることはないでしょう。というのは、ひだかたけし氏は今現在も詩作をし、次々とその作品をアップロードしつづけているからです。この小論は、単なる「扉」に過ぎません。やがては、過去のものとなることでしょう。最後の最後に、氏の詩が公開されているアドレスを、再掲しておきたいと思います(*2)。「読むことのスリル」は、そこから真に始まるのですから。      



*1) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=352975

*2) https://po-m.com/forum/myframe.php?hid=11286

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読むことのスリル──ひだかたけし小論 白石多江 @tae_392465

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