第六章……詩との対決

 さて、ここまで書き進めてきて、読者諸氏はこの小論に何を見出したでしょうか? ひだかたけし氏の作品の卓越性でしょうか、あるいは詩というものの歴史的な側面でしょうか、それともわたし自身の傲慢さでしょうか。わたしはこの小論の執筆を任されたとき、正直戸惑いました。現代に生きる詩人とは、生身の人間そのものであることに他ならないからです。

 ですが、文学の世界では人間が人間を評するという傲慢が許されてきました。このような態度は、一個の生きた人間を商品という無機物に還元する試みに過ぎないでしょう。そのことが過大評価されるのは、なぜか? その答えのひとつは、「人間とは一個の商品たり得る」というものです。商品化された人間は、すべからく自らが商品となる道を選ぶことになります。そこが、アマチュアとプロフェッショナルの差であり、近接点でもあります。

 わたしは、この「ひだかたけし」という詩人と接して以降、その詩を紙面で読みたい、ということを伝えてきたのですが、氏はまだその準備が出来ていないと言います。この小論が公開され、読者の目に触れ、それから何年かの月日が経った後、このことは「過去の事象」に過ぎなくなっていれば良いのですが、この「ひだかたけし」という詩人の詩が、一般の読者(詩には詳しくはない読者)の目に触れるのは、いつの日のことでしょうか? わたしは、それが早ければ良いとも思い、詩人が熟成してから、その日が来れば良いとも望んでいます。

 この章の副題は「詩との対決」というものです。それは、読者諸氏がそろそろこの詩人に対して反発を感じても良い頃合いだということを感じるからでもあり、この詩人に対して果敢に挑戦してく機運を抱いても良い頃合いだとも、思うからです。人が詩を書くとき、あるいは詩を読むとき、その詩そのものからは離れた何事かへと、飛翔していくものである、読書という行為は対象を超える、と思っているからです。詩を書くにしろ、書かないにしろ、詩の読者は畢竟超越者たらざるを得ません。詩の読者は、詩を通して世界そのものを感じるのです。

 ここで、わたしに課せられた課題は、「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」という詩作品を読み解くことです。この詩については、まず序章においてその冒頭部分を引用しました。「(改訂8)」と題されているように、この詩はいくどかにわたって改定されており、「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」は、現代詩フォーラムに残されている詩のなかでは、その十番目にあたる作品です。もう一度、その詩の冒頭部分を引用しましょう。

 

  薄暗い

  漠然と広がった

  空間のなか

  台形の

  ノッペリとした

  大人の背丈半分程の

  鉛色の工作機械が

  等間隔で何台も

  一列に並べられている

  

 ここに現れているのは、叙景です。詩を読み進めると分かるのですが、第四連において「三歳の私は」と記されているように、これは詩人にとって過去の情景の描写となっています。詩人がいかなる幼少時代を送ったのか、わたしは存じませんが、この詩では、工場のような場所における詩人の「戦慄」が表されています。ですが、叙景はこの詩のなかでは、持続しません。第五連において、次のような抒情が現れます。

 

  私は

  自分の存在が

  ナニカに気付かれてしまうこと

  そのことにただひたすら怯えている


 これは、この詩における結論の先取りです。最終二連で、作者は次のように言います。

 

  )この人にはボクの恐怖は絶対分かってもらえない


  同時に、

  救いようのない絶望感が私を貫く

  肉を魂を貫く絶望が


 作者は、一足飛びにこの結論へ至っても良かったのです。詩とはアフォリズムではありませんが、読者に対してなにがしかの感興をもたらすものではあります。そうした、「詩想」のみを呼び起こすべきものであるとき、詩はその持続を必要としなくなります。世の中には一行、二行、三行といった短い詩もありますが、詩とは奥深いものであり、むしろ余白にこそ読むべきところを温存しているものでもあり、必ずしも長い詩が多くを語り得るものではありません。ひだかたけし氏も、タイトルとこの四行で詩を完結させてしまっても良かったのです。

 ですが、この点には注意すべきでしょう。タイトルに「悪」という言葉を用いながら、詩の本文には「悪」という言葉は出て来ないのです。そして、果たして何が「悪」であるのか、この詩を一読しただけでは、読者は即座には判断できません。全文を引用できないので、わたしははなはだ心もとない気もちなのですが、「薄暗い……」で始まる序文を読んだだけでも、この詩が単なるアフォリズム……哲学を目指したものではないことが、分かっていただけるでしょう。

 この詩は戦後詩の伝統に乗っ取った実存主義的な詩であるようにも思え、昭和初期の詩からシュールレアリズムの詩へとつながる、過渡期の詩のようにも見えます。もし、ひだかたけしという詩人が模倣から入る詩人だったとしたら、氏はあるいは「これこれの詩人の詩を目指した」と言ったかもしれません。もちろん、そのようなことはあり得ないのですが……。

 読者は、この詩が一体「何詩」であるのか? を思い悩むことになります。抒情詩でしょうか。叙事詩でしょうか。叙景詩でしょうか。叙志詩でしょうか。「雨ニモマケズ」と宮沢賢治が詠ったように、この詩が叙志詩であれば、事は簡単です。また、抒情詩であると解釈しても、事はスムーズに進むでしょう。反語的に、「この詩においては、その主張するところが一貫していない」として、排斥してしまうことも簡単です。この詩人がただのアマチュアだとして、排斥したいのであれば、その時点で「読むこと」を放棄してしまっても、誰も咎めないでしょう。

 わたしは、現代詩フォーラムにおいて、この詩が幾度か改定されるのを見てきましたが、そのたびに、「なぜ、詩人はこの詩にこだわるのだろう?」と思ったものです。「三歳の私」と記されているように、この詩は詩人の原体験を綴ったものでしょう。そのことは、一見しても分かります。ですが、十度にわたって改定が続けられるというのは、単純に考えても異常なことです。なぜ、詩人はこれほどまでに一個の記憶に取りつかれているのか。それは、リアルタイムでこの詩人の作を読んでいなければ、知り得ないことです。

 十度にわたる改定の過程で、もっとも異なっているのは、次の部分です。この詩の初出は現代詩フォーラムには残されていないようなのですが、もっとも古い作である「〈根源悪〉の原体験(新訂)」(*1)では、最終二連が次のように記されています。


  私はもはや夢も現実も錯綜した混沌のなか

  じぶんの名前をひたすら反芻しながら

  半狂乱にナッテ脱出口を探す


  逃げなければ

  カレラカラ逃ゲナケレバ!

  

 前述の「)この人にはボクの恐怖は絶対分かってもらえない」という表現が現れるのは、「〈根源悪〉の原体験(改訂2)」(*2)以降です。初出から、この改定がなされるまで、少なくとも数か月の時間が経っています。その間に、詩人の思想にはどんな変化があったのでしょうか。

「カレラカラ逃ゲナケレバ!」というのは、「雨ニモマケズ」と同じような「叙志」です。詩の結論としてこのような言辞があることから、「〈根源悪〉の原体験(新訂)」は叙志詩であると言えます(これは言い過ぎかもしれませんが)。戦後詩とは、一般的に言ってカテゴライズが難しい詩が多いものですが──この小論ではなるべく単純さ、読みやすさを心がけましょう──そのことには、詩というものが長くなり過ぎた、ということが関係しています。ページ数を割かなければ、詩人は「稼げなく」なってしまったのです。

 ですが、ひだかたけし氏の詩の長さ、ことにこの詩の長さは、そういった事情とは無関係です。この詩においては、「工場」のような無機質な世界から、人間的な世界への「脱出」が幾度となく試みられようとしています。「逃げなければ」という言葉は、三度にわたって繰り返されています。この詩が何度も繰り返し改定されているように、詩人は未だにその当の対象、「逃げなければ」という意志の実態をつかみ切れていないように思えます。詩人は、一体何から逃げなければいけないのでしょうか? そこに表されている場所からでしょうか。あるいは、夢のような現実からでしょうか。

 この詩において、時系列は一定していません。第十六連においては、次のように記されています。

 

  「わっ!」と叫び私は目覚め

  ベッドから上半身を起こし

  荒い呼吸を繰り返しながら

  思わず後ろ手を付く


 これは、やはり夢でしょうか? ですが、第二十連から第二十一連において、再び次のような言辞が現れます。

 

  私が呆然として

  その光景を

  凝視していると

  次第に

  ソレラガ ウゴメキハジメル


  )辺りにいつのまにか響いている

  )ヴゥーという低いモーター音と共に


「モーター音」というのは、この詩の前半にあった「機械」の音だと考えて良いでしょう。ここで、夢と現実とは一体となり、どちらが主であり、どちらが従であるのかがあいまいになります。この十篇の詩のなかで、主な改定は次の部分にも表れています。

 

  )どうしたの、たけし?


  急に頭上から声がする

  母親のいつもの落ち着いた声


 この表現は、2019年10月に書かれた、「〈根源悪〉の原体験(改訂2)」から現れてきます。すでに、初出からは一年近い年月が経っています。ここに、唐突に「母親」という存在が現れてくるのはどうしてでしょうか? ひとつの答えとして、作者がこの詩を夢幻界の創作ではなく、作品を現実世界へと帰結させようとした、という見方をすることが出来ます。作者を戦慄させた「工場」の描写は現実ではなく、記憶または想像の範疇に属するものだと、この「母親」の登場によって、解決することが出来るのです。

 しかし、それも無理矢理な答えです。わたしは、詩人本人からこの詩の批評を依頼されたのですが、この難解な詩に対して単純な答えを与えようとは考えていません。答えを先回りして言いますが、この詩においては、「自己の客体化」「原体験の一般化」といった趣きがあるのです。対象として、分かりやすい古典の詩の例を持ち出しましょう。


  稚厠 おかわの上に 抱えられてた、

  すると尻から 蛔虫むし が下がった。

  その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので

  動くので、私は吃驚びっくり しちまった。


  あああ、ほんとに怖かった

  なんだか不思議に怖かった、

  それでわたしはひとしきり

  ひと泣き泣いて やったんだ。


 これは、中原中也の「三歳の記憶」という詩のうちの二連です。「三歳」というのは、ひだかたけし氏の詩ともシンクロする部分です。この詩、あるいは中原中也の詩全般に対して、批評家の小林秀雄は次のようなことを言っています(「中原中也の思い出」)。


  中原の心の中には、実に深い悲しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであったと私は思っている。彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なづけるに足りなかった。


 わたしはここで、禁じ手を使ってしまったのかもしれません。上の小林秀雄の言葉があれば、近代詩のほとんどすべてを解説または代弁することが出来てしまうためです。

 戦後に流行った実存主義というのは、「悲しみ」から手っ取り早く逃れる手段です。人生の喜怒哀楽から離れて、哲学の世界へと投身してしまえば、現世の悲しみというのは容易に消え失せるのです。実存主義とは、「わたしとは何か?」という問いの一般化であり、心理学や精神医学の分野にも応用されています。──救いを求めるならば、神に答えを、という時代は過ぎ去りました。今は、科学によっても精神の健康を保てる時代です。ですが、その科学によっても健康を維持できない精神とは? 病んだ精神でしょうか。それとも、単なるアウトサイダーでしょうか。

 わたしは、詩人がアウトサイダーであるという主張をにわかには信じません。病者であるという主張もしかりです。では、詩人とは何者でしょうか? 小林秀雄は、詩人を「余計者」と見なすのですが、それに対してわたしは一定の同意を示したいと思います。ですが、次のような仮定を経てのことです。すなわち、「詩人とは社会にとっての余計者ではなく、世界にとっての余計者である」と。ここで「社会」というのは、もちろん人間が生活する場としての「社会」のことです。「世界」とは、ここでは人間が生活する世界というよりは、観念的な「世界」そのもののことを言っています。実存主義が言う、「対自」が存在する世界です。

 わたしは、「ひだかたけし」という詩人が存在する世界について、様々なことを言うことができます。「ノッペリとした」という表現について、「オノマトペと叙述との混淆が見られる」。あるいは、「私は/自分の存在が/ナニカに気付かれてしまうこと/そのことにただひたすら怯えている」という表現について(ここでは引用しませんでしたが)、「実存的不安感の表れを見てとることができる」といったふうに。解題とは、容易なものなのです。重箱の隅をつつくように、人は詩人の作品について、こう褒め、ああ貶すことができます。

 この「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」という詩の主題は、詩人自身がタイトルに表しているように、「世の根源悪のありかはどこにあるのか?」ということです。しかし、「工場」という叙景、「私は」という抒情、いずれにも「悪」のありかは見当たりません。詩のファンならずとも、この詩の読者は「悪はどこへ行った?」という疑問を抱かずにはいられないと思います。「この詩人にとって悪とは何か?」という問いに突き当たらざるを得ないのです。

 これは難しい問題です。ひとつの答えを提示すれば、「生の衝動=すなわち悪」ということでしょうか。人生とは受動によって始まり、能動によって栄を迎え、そしてやはり受動によって終わります。強いられた人生が悪の根源であると考えるとき、この詩は納得のいくものになります。すなわち、早すぎた自我がこの詩人を突き動かしていると。三歳で自我に目覚めるということは、決して早いとは言えないでしょう。問題は、その自我の発露がいかにして行われたかということなのです。

 繰り返しになりますが、詩人はこの詩を幾度も改定しています。「母親」の登場によって一度は落ち着いたと思われる詩想が、その後幾度も改定される。こうした執念は、少なくともわたしにはないものです。読者は思うかもしれません。「またか!」と。これは、紙媒体を土壌として詩を書く詩人たちの姿勢とは、異なるものです。これは逸話ですが、ボードレールは何度も同じ詩を異なるメディアに投稿して、その都度金銭を得ていました。今であれば、考えられないことでしょう。詩人(ひだかたけし氏)のこの執念は、ネット社会だからこそ可能な形態であり、すなわち氏の生態でもあります。

 わたし自身は、自分の意見表明を保留しますが、この詩人がこの作を代表作として推す、そのことに同意する人間性は持っているつもりです。この詩について一言で言えば、「完成度は高い。しかし、賞賛、少なくと現代人の賞賛は得にくいだろう」というものです。人は単純な詩を好みますし、このようにカテゴライズが難しい詩に対しては拒否反応を示すのが常だからです。

 わたしは、この詩を読んだときにひとつのことを思います。すなわち、「この詩人は夢のなかに生きているのか? あるいは、止まった時間のなかに生きているのか?」と。「〈根源悪〉の原体験(改訂2)」以降、「母親」の登場によって、読者は「現実の時間」に引き戻されますが、「〈根源悪〉の原体験(新訂)」の時点から、この詩の本質は変わっていません。それは、現実世界における「時間の喪失」です。作者はきっと、読者に対して説明しきれていない、と思ったのでしょう。それが、幾度もの改定の理由です。

 三歳時の記憶を繰り返し読者に提示する、そうしたことは作者の傲慢ヴァニティ でしょう。いいえ、プライドと言い換えても良いのですが、どうにもならない定めが、そこにはあるような気がします。そこに詩の作者が好かれ、嫌われる理由もあります。読者、あるいは鑑賞者は、繰り返し現れてくるテーマに賞賛、あるいは嫌悪を表明するものなのです。もしも好きであれば拍手を送り、嫌いであればブーイングを送ります。ギリシャの古代文明では、劇詩がコンテストの形を取って発表されていたらしいですが、インターネットにおいて詩を発表するということも、同様の過程を経るものでしょう。読者の「好き」を集めた詩は賛美され、「嫌い」を集めた詩は忌避される。当然のことです。

 今、見返してみたのですが、わたしは現代詩フォーラムにおいて、「〈根源悪〉の原体験(改訂2)」以降、この作品にポイントを与えていませんでした。読み飽きた、というのではなく、その時点でこの詩は完成されていると思ったためでしょう。わたしは、その性向として、細部の変更・編集を意にかけません。書き直されたものは書き直されたものとして、棄却されたものは棄却されたものとして、捉える傾向があります。このインターネットの時代、廃棄される作品は無数にあります。氏がふとした迷いによって、この作品を消去した場合、わたしはそれは「無かったもの」として捉えるでしょう。

 現代詩を読む以上、読者は諦めとともにいなければなりません。「この作品は良いものであるか、否か」と。ひとつの詩を読むとき、そこに読者の感性以上の評価が混じることはないのです。己自身の感性を信じなければ、ひとつの作品を楽しむこともできない。それは、ゲームをプレイするプレイヤーの態度に似ています。「この敵は自分の手で倒せるか?」そうした、戦慄が必要なのです。ひとつの作品に対する堂々とした態度が。

 ひだかたけし氏の「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」を読むとき、読者は不安に駆られることでしょう。「自分はこの詩人を信じても良いのか?」と。この詩は、レトリックとしてまとまってはいないものの、氏の「てにをは」を排除した詩と比べると、読みやすいものです。それゆえに、軽く見られるきらいもあるのでしょうか。現代詩フォーラムではそれほどの評価を得てはいません。それは良いのです。良い詩がすなわち読みやすい詩であるとは限りません。この詩は長いがゆえに忌避された、分かりにくいがゆえに忌避された、というのは正当な反省でしょう。

 この詩(「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」)における登場人物は三人。「工員」「ジブン」「母親」に限られています。「ジブン」が逃げ出す理由としては、「工員」の存在は十分ではない。「ジブン」は、「その場」から逃げ出したのです。すなわち、話者の「直観」から。このような表現で、いくぶんかはこの詩の本質に近づいたでしょうか? 作者、または話者を圧しているのは、この風景、そして世界そのものなのです。この詩の舞台である「工場」とは、あくまでもきっかけに過ぎません。では、作者=話者は何から逃げ出そうとしているのか? それがこの詩の本質です。

 この詩が作者の原体験であり、氏の詩の本質を貫くものであることは、タイトルによっても明らかです。氏はこのヴィジョンによって「現世」から離れることを選んだ。それ以来、その思想=詩想は、作者を忌まわしき世界へと導いた、すなわち「詩」という「余計者」の世界へと。それは早すぎ、その昇華を待つにはさらに早すぎたものでしょう。作者は鬱屈とした憂悶を抱えて生活を送る──そうしたことは、容易に想像できることです。作者をこの地獄から解き放つためには、詩を書き綴る他ない。わたしは詩人(一般的な詩人)の生涯に同情はしませんが、その戦慄については共感するものです。詩人というのは、一般的に言って嘘をつけない人種ですが、その率直さ、無垢さの行きつくところに、詩というものは生まれてくるものです。

「三歳の記憶」を繰り返して語る、そうしたことは、もしも後世において、この詩人の詩が詩集となった場合、さらりと受け流されてしまうところでしょう。わたし自身も、詩人の成長ということには注意を向けますが、詩人の原体験についてそれほどの注意は払いません。「詩人は成長してなんぼ」と思っているからです。しかし、この詩の本質は、わたしが目を背けるところにこそあります。わたしたちは、この詩人(ひだかたけし)の負った傷に、目を向けなければならないのです。

 この詩人を圧したものとは、何でしょうか。機械たちの立てる、無機的な音響でしょうか。それとも、工場という場が示す、非現実的な光景でしょうか。そこで働く人々の、自由からは離れた労働という義務についてでしょうか。ここで答えを得るには、「三歳」という作者の年齢が大きなヒントになるでしょう。彼の見たものが彼を圧し、彼の聞いたものが彼を圧した、という単純な答えです。ですが、問題はそう単純でもなさそうです。

 この詩の中では、擬音を含めていくつかのカタカナ語が使用されています。順に挙げると、「ノッペリ」「ナニカ」「マッチ棒」「ジブン」「ギチギチギチギチ」「ベッド」「ソレラガ ウゴメキハジメル」「ヴゥー」「モーター音」「ト唐突」「ソレラ」「ザワメキとナッテ」「ジブンガカレラニ奪ワレテシマウ!」「半狂乱にナッテ」「カレラカラ逃ゲナケレバ!」……「ベッド」と「モーター音」は除きますが、これらの言葉は現実世界からの作者の乖離を表していると見て良いでしょう。

 現代詩、とくに戦後詩は現実からは離れたところで叙述を行っていると見て良いものがありますが、ひだかたけしという詩人は、そうした伝統とは異なったところで、これらの叙述を行っていると見ることができます。これらのカタカナ語は、氏の現実世界に対する違和感から現れて来たものだと、考えて良いのです。氏はなぜカタカナ語を使うのか? この問いは、氏の詩の全篇を考察しなければいけないことですから、ここでは詳細な解説は割愛しましょう。しかし、それでも「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」という一篇の詩を読むとき、そこに現れてくるカタカナ語は、読者の違和感を誘うに十分なものがあります。氏は、異形の存在、あるいは物事の道理を離れた感性に対して、カタカナ語の使用をもって報いている。それを尊重しつつ、恐れ、畏怖の念を抱いている。──そう答えることが妥当なのだと思います。

 この一篇の詩に対して、読者は様々な考察と答えを与えることができます。わたし自身も、このまま書き進めて、どこで書き終えれば良いのかと迷う次第です。ですが、わたしはプライドをもって敗北宣言をしましょう。「この詩は批評を許さない詩である」と。詩という文学の世界においては、必ずしも作者が信じる最高の作が、読者の思う最高の作であるとは限りません。この詩に関しても、同様であるかもしれません。わたしは、氏自身が推さなくてもこの詩を批評したかもしれませんが、氏の最高の作とは認めないかもしれません。ですが、読者にはこう思ってほしいのです。「この詩が、ひだかたけしという詩人の原点である」と。  



*1) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=324244

*2) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=351765

*3) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=351765

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