第五章 詩心の行方
ここまでお読みくださった読者諸氏(とくに、その原典を当たってくださった方々)には、ひだかたけしという詩人の作品を読み解くことのスリル、そしてその詩心について、いくぶんかはご理解いただけたのではないかと思います。しかし、それは原典・原作の力であり、わたし自身の成果に帰するものではありません。氏の詩の量は膨大であり、現在のところ1400篇を超えます。宮沢賢治の詩が約800篇ですから、それよりも多いということになります。
さて、ここでこのような弁明を許してほしいのですが、わたしはあらゆる詩人に詳しい、というわけではありません。わたし自身がとくに読み込んだのは、大正から昭和初期にかけての詩人たちであり、フランスの象徴派の詩人たちです。他には、「嵐が丘」で有名なエミリー・ブロンテなどの詩も読んでいます。近代詩にある種の革命をもたらしたエミリー・ディキンスンの詩などは、詩集は買ってあるものの、ほとんど読んではいません。また、戦後詩についても、四十歳を過ぎてから初めて学び始めました。
しかし、こんなわたしでも「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」という、日本の詩歌の三大古典は原文で読んでいます。また、歌物語でもあり、日記文学でもある土佐日記については、原文を読んで自分なりの注釈をつけたりもしました。なぜここで古典を持ち出すのか? それは、日本では詩歌というものそれ自体があいまいな形式を持つものであったからです。
古来から、人は詩とは何か? 歌とは何か? ということを問うてきました。日本の詩には、一般的に言って脚韻というものが存在しません。これは、五七五七七という形式に「歌」が縛られてきたからでもあり、その形式が極めて優れたものであったことも影響しているでしょう。萩原朔太郎は、こう言いました。「日本の詩の基本は頭韻にある」と。
ですが、ここで「詩論」を持ち出すことは止めましょう。詩というものが何であるか、という問いは、詩人の原動力になるものでもあり、また読者を追従させ、あるいは反発させるものでもあるからです。ひだかたけし氏の詩を技巧によって解題することは、むしろ簡単です。蒙昧な読者は、それら詩群が単なる言葉遊びに過ぎない、と結論するかもしれませんし、賢明な読者は、それら詩群は「新しい詩だ」と思うかもしれません。
ひだかたけし氏の詩が新しいか、新しくないか、という議論に関して私見を述べれば、それはまさしく新しい詩であろう、とわたしは言います。第四章で述べたような「括弧閉じ」の使用、「てにをは」の省略など、氏の詩には新たに詩を書いていく上での、様々な指標が散りばめられています。批評というものが印象批評から哲学的な批評へと移ったように、哲学的なテーゼを読み解くという方法もありでしょう。ですが、ここでは、氏の詩が読者にとって果たして優しい詩か? それともそうではないのか? というテーマで論を進めていくことにしましょう。こうした論評のしかたをするにあたって、わたしは氏の詩に現れてくる「詩」という言葉に注目しました。
第一章で「あはれ」について書いたように、日本の詩人たちはその作品のなかで「詩とはなにか? 歌とはなにか?」ということを問うてきた民族です。近代の詩史にあっても、それは変わりありません。かつて、中原中也は「盲目の秋」という詩のなかで、このように述べました。
人には
その余はすべてなるまゝだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。
これは「人生論」ですが、中原中也という詩人の生涯を見るとき、これは「詩論」であると結語しても良いような表現でしょう。彼は、「在りし日の歌」という詩集の後記に、次のようなことを書いています。
詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も
「詩を書くこと」すなわち「詩人の誕生」でしょうか? そのことについて、わたしは疑問に思っています。「生まれながらの詩人はいるのか?」という問いの再出です。中原中也は、弟亜郎の死によって詩を書き始めたということを、どこかに書いていたように思います。亜郎が死んだのは、中也が八歳のとき。早すぎる「詩人の誕生」です。以来、本人の言によれば、二十三年にわたって詩人は詩を書き続けるのですが、詩を書くこと以外に人生を顧みなかったという点において、中原中也はやはり「生まれながらの詩人」なのです。
ですが、ここに現代詩の問題があります。「詩は売れない」ということは何も現代に限った問題ではないと思うのですが、戦後詩の詩人たちは、例えば谷川俊太郎が翻訳や興行にその活路を求めたように、「詩は売れない」というのは現代における既定路線です。では、何を求めて人は詩を書くのか? 他人の評価でしょうか? それとも己の研鑽でしょうか?
ひだかたけし氏が、詩を書くということについて単純に悩んだとも思えないのですが(これは悪口ではなく、わたしがやはり氏を生来の詩人であると思っているがためにです)、「いかに詩を書くか?」ということについては、その詩作の初めから、深く悩んでいたような気がします。「悩み」という表現を使うのは、実は正確ではありません。氏は詩に対して「格闘」しているのです。
氏の初期の詩に、次のようなものがあります。「言 霊」(*1)という詩の一節を引用しましょう。
私欲思考ヲ停止シ
死に思に詩の言葉の飛躍に!
反感から 共鳴寛容へと!
また、「思考シ.07」(*2)という詩には次のように書かれています。
死を真近にして、
書き留める詩の言葉
わたしは、氏との限られた交流のなかで、氏が四十歳を過ぎてから詩に到達した、ということを聞いています。個々の詩人における詩の歴史のなかで、その発端を求めるということは大切です。中原中也のように幼少期から詩を書き始めた詩人であれば、ある作品に対する典拠、原風景というものは容易に求めることができます。ですが、人生半ばから詩を書き始めた詩人においては、どうでしょうか? どこに原風景を求めるべきなのか。どこに詩人の動機を求めるべきなのか。わたしたちは、詩人が自ら語り始めるのを待つしかなく、そこには相当な忍耐心と注意力も要求されます。
上に挙げた二つの詩は、どちらも2016年に発表された詩であり、現代詩フォーラムにおける氏の初期の作品にあたります。氏は1960年の生まれであり、四十歳を過ぎて詩に到達した、という氏の言を信じれば、それ以前に多くの作品が書かれ、しかもそれらの作品はわたしたちの目には触れていない、ということになります。あるいは、そこに氏の詩の秘密が隠されているのかもしれません。少なくともわたし自身にとっては、それらの未公開の詩編については、ヴェールに包まれたものであります。
「死を真近にして」というのは、どんな姿勢でしょうか? 詩人というのは、すべからく人生の対極として死の表現を試みようとするものですが、氏の詩における「死」とは、それとは違ったものであるように思えます。「私欲思考ヲ停止シ/死に思に詩の言葉の飛躍に!」という表現からは、氏の生活において「時間」というものが止まっていることをも、想像させます。ここで、「死」とは文学的な意味での「死」であり、思考を進めれば哲学的な意味での「死」でもあります。氏の詩群において、「死」は「現世」に対する「非現世」としての意味を出ないのです。すなわち、詩人は「死を受容してはいない」。
少し長くなりますが、再び氏の詩から引用します。「思考」(*3)という詩の一節です。
死んだらどうなるのだろうと
私は考えていたが
わたしは私の体を見ていたから
既に死んでいたわけで
なのに考えているのだから
生きているのか
と思ったが
ひょっとして
思うことは
生きていることの
証にはならない
と私は再び考え
ということは
考えることは死んでも可能らしい
この詩には、ひだかたけし氏の「世界意識」が現れています。この引用箇所だけを見れば、氏は「死」をもてあそんでいるようにも思えます。ですが、この詩は2017年の作であり、上に引用した二つの詩の後を継ぐものである、という点に思いを致すべきでしょう。
「言 霊」という詩において、氏は「死」について述べた後、そこからすぐに飛翔します。「反感から 共鳴寛容へと!」といった表現が続くためです。
人が一篇の詩を書くとき、彼または彼女は、詩の全貌を意識しながら書いていくものでしょうか。それとも、自らが書いた言葉に引きずられるようにして、書いていくものでしょうか。かつて、詩人でもあり批評家でもあったヴァレリーは言いました。「作者が作品を作るのではない。作品が作者を作るのだ」と。そこに詩というものの本質があり、秘密もあります。
ひだかたけしという詩人はつねに意識的であり、その言葉は氏の心から流れるようにあふれ出てきます。「反省」「迷い」など、そこにはないようにも思われます。氏は「僕はあまり過去作、振り返らない」と言明しているのですが(これは、氏とのメールのやり取りで聞いた言葉です)、その詩歴が一貫したポエジー(俗な言葉ですが)を持っているとき、その作品は「時間」というものを排して、「過去」と「未来」とがつながります。そこに現れてくるのは、一人の詩人の人間像です。
ここで、新たな問いが生じます。すなわち、人はその詩人の作品に惹かれるのでしょうか。あるいは、その詩人その人に惹かれるのでしょうか。この問いは易しくも深い問いです。「好悪によって詩を読めば良い。好きな詩を書く詩人は良い詩人」という答えに、人は容易に到達するためです。このことを、わたしは否定しません。「好きな詩を書く詩人は良い詩人」ということに、否を唱えることはしないのです。では、そのときの読者とは、一体いかなる存在であるか? むしろそのことのほうが、根本的な問いであると言えます。
第一章において、わたしは「文学とはひとつのミームであり、文学に携わる者とは、自ずと文学の歴史を率いていく定めを持っています。作品は読者のためにのみあるものではなく、作者のためにもあるものです。」と書きました。これは、評者としての独断が許されるのであれば、わたしが持っている一つの信念です。新しい形式や詩想というものが生まれ、その伝統に乗っ取って新たな詩が生まれるとき、人はそれを受容し、讃えるべきでしょう。文学とは、漸進的にしか進歩し得ないものなのです。もし、ひだかたけし氏の詩が詩作者にとっても優しいものであると言い得るとき、彼は初めて文学という一ミームに貢献したことになるのです。
ひだかたけし氏が現代詩人であるという主張は、次のような一節によっても証明されます。
ネットで詩の表現を
他者の読み手のあなたの
魂の面前に日々、曝す
ことが
なぜ、
趣味だの生き甲斐だの自己満足になるのか
自己完結し得るのか
私には 解らない
これは、「夏の後ろ背を蹴る」(*4)という詩の一節です。
わたしは、「最初の詩」を尊重するとともに、「最新の詩」を尊重する、という姿勢を持っています。この詩は、2022年9月に書かれた詩であり、この小論を書いている時点では、氏の最新作のうちの一作になります。詩作者にとっては、このような言明は大いに勇気づけられるものでしょう。「書き続けていればいつかは成功する」という希望を抱かせてくれるからです。
しかし、これが卓越した詩人の巧みな言葉による幻影である、ということも忘れてはいけません。ひだかたけしという自意識に関して優れた洞察力を持っている詩人、そして「書き続ける」という宿命を負い続けている詩人だからこそ、こうした表現は生まれてきます。ただいたずらに言葉を書き連ねる詩人は、この引用のなかにある「自己満足」の詩しか、書くことはできないでしょう。
このことを、無意識の自恃(プライド)と取っても良いのです。あるいは、詩作者に対する優しい応援だと見做しても良いのです。それは、読者が詩に対する自由な姿勢に任されるものです。第二章で述べたような、詩人の世俗性を感じ取っても良いでしょう。わたしは、ひだかたけしという詩人を一人の先駆者、オピニオン・リーダーとすることを望んではいません。詩歌という歴史において沈殿し、無名な数々の詩人とともに、その屍を埋めるべき存在だと思っています(誤解を招かないように書きますが、氏はいつか無名であることから脱却するであろうことを、わたしは信じています)。
現代というのは、詩にとっては難しい時代であり、体系立てて書かれた詩集というものが、その起承転結やテーマのすべてを知るという目的のために読まれることは、ほとんどありません。読者は、選者が選んだ個々の詩を分断して味わうのみであり、そのことは作者の詩想をも時として無にしてしまうものです。小説のように、まとまったテーマを仔細に吟味する、ということが詩の世界では許されていないのです。
ですが、わたしは商業主義を否定する者ではありません。一個の詩に刮目しないとき、一冊の詩集に刮目する、ということがあり得るでしょうか? わたしたちは、断片をもってそのすべてを推測する、というトリッキーなテーマに直面させられているのです。いつか、この「ひだかたけし」という詩人の全集が出たとき、初めて読者はこの詩人の全貌について知ることでしょう。それまでは、作者がわたしたち読者を見放していない、という温情にすがるべきなのです。上に引用したように、この作者の詩は自己満足でも自己完結でもなく、読者に対しての扉が開かれているからです。
この章の最後に、「垂直ノイズ」(*4)という詩からの一節を引用しましょう。
青、熱、青、熱
垂直に立つ
二足歩行のノイズ を
次から次に襲う高波
垂直に立つが故に
天を仰ぐが故に
悪に魅せられるが故に
わたしがこの詩を引用したのは、そのタイトルに魅せられたからです。それ以外の理由はありません。ですが、氏の詩には比較的多く、この「垂直」という言葉が現れてきます。仔細については、氏の原典をあたってほしいのですが、氏の詩における「垂直」とは、自意識、あるいは空間それ自体に対する、不可視の別次元のことを表しているように思えます。その証明として、わたしは次のような一文を引用します(「戯れの一時」(*5))。
時は輪切りにされ垂直に立ち
また、このような詩を引用しても良いでしょう。「現夢〇他者(改訂)」(*6)
無数無限の垂直に降るその凝視を!
ただ独りで、たった独りで
第一章で書いたように、批評とは批評論にならざるを得ないものです。ですから、ここに引用した氏の詩に関するわたしの選択も、恣意的なものです。わたしは、何をもってひだかたけし氏の作品へと、読者を誘うことができるでしょうか? それは、ひとえに文章の面白さによってです。わたしは、この小論が拙い論評に過ぎない、ということを認めましょう。そして、引用によって脇役たらざるを得ない氏の詩世界に、脇役であることを通り越して、またこの批評を否定して飛び立つことを、推奨しましょう。その、リンクによってつながれた世界で、読者諸氏はこの詩人が「生まれながらの詩人」であることを、確信するであろうと思っています。
これは、書こうとして書き忘れていたことですが、ひだかたけし氏の詩において、「詩」という言葉が出てくる詩編は三十数篇を数えます。これは、膨大な作者の詩作品において、多いと言える数でしょうか。あるいは、存外少ないものでしょうか。詩人が詩人たるためには、中原中也が言ったように「自恃」を必要とします。わたしたちが「生きるために生きる」という姿勢を貫かなければいけないように、詩人とは「詩を書くために詩を書く」という姿勢を貫かなければいけないのです。わたし自身は、詩のなかに「詩」という言葉が現れてくることをあまり好いてはいないのですが、詩人がその秘密の一端を明らかにする、読者を惹きつける、という点においては、詩のなかに「詩」という言葉が現れてくることを肯定します。先人の知恵なくして、後の文化というものはあり得ないからです。
*1) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=322330
*2) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=319820
*3) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=330969
*4) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=373134
*5) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=357430
*6) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=355267
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