第四章 詩の価値とは?

 批評というものは、長ければ長いほど良いというわけではありません。わたしが、長めの批評を書くのは、ある対象について書くのに、一言では言い表せないものがあるからです。

 ここまでの論評で、読者諸氏はひだかたけし氏の詩について(わたしの批評について、ではありません)「読むことのスリル」を、ある程度は味わっていただけたと思うのですが、それはひとえに引用の力によるものであって、わたしの解説に帰するものではないでしょう。畢竟、わたしは氏の詩が置かれているインターネット上のアドレスさえ示せば良く、それ以上につけ加えることは何もないのです。

 ですが、わたしはこの小論のテーマを「ひだかたけし氏の詩と時間」「生まれながらの詩人はいるのか?」ということに定めました。少なくとも、その「言い出しっぺが責任を負う」ということには応えなければいけないでしょう。でなければ、なんのためにここまで読んできたのか、と読者は反発を感じることになります。ですが、批評には批評の手法があり、ある程度の分量の文章を「読ませ」なければなりません。読者諸氏は、この小論に文学を感じたでしょうか? あるいは哲学を感じたでしょうか? どうでしょう?

 わたしは「時間とは何か?」という哲学的なテーマをもって、この小論を書き始めましたが、じつはそれはひだかたけし氏の詩から得られる答え、または新たな問いであり、議論の発端ではありません。わたしは、答えからこの小論を書き始めたのです。この章の副題には、「詩の価値とは?」と書きましたが、それは詩という芸術一般に関する問いかけでもあり、この詩人の著作に対して直接「それは何か?」と問うことでもあります。

 批評とは、もちろん題材を選ぶことから始まります。しかし、現時点でも千篇以上あるひだかたけし氏の詩群を一から読み直す、ということは大変な苦労が伴います。わたし自身が、いくつかの詩を選定し、「他薦詩集」を編纂すれば、読者の労をいくぶんかは省くことが出来るでしょう。しかし、そのことは読者の自由を奪うことにもつながります。詩の価値──すなわち、ひだかたけし氏の良い作品──を見つけるためには、それなりの苦労を払うべきなのです。

 わたしがひだかたけし氏の詩に出会ったのは、2019年のことです。その時点で、氏はすでに自身の手法というものを確立していました。それは見事に独創的であり、「こんなやり方があったのか?」と思わせるものでした。詩とは一般的に言って(草野心平などの例外はありますが)、文字だけで表される芸術です。英語であれば、アルファベットの26文字、日本語であれば46文字。そこに記号が加わります。

 余談ですが、英国の作家であるヴァージニア・ウルフは、この記号にこだわった作家で、「;」(セミコロン)の意義というものを、仔細に示してみせました。ひだかたけし氏の詩においても、「)」(括弧閉じ)に独特な使い方が見受けられます。通常は「(」で示されるべきところを、「)」つまりは「括弧閉じ」(意味の終端)で表しているのです。そのことに、深い意味を読み取ってみても良いでしょう。一例を挙げれば、次のような詩があります。


  )ゆっくりゆっくり流れる時間が

  )いつしかゆるゆる止まり始め

  )魂はまたうっとりとして


 これは、「独り、イートインで」(*1)という詩です。また、「イートイン」という言葉が出てきました。氏の詩において「イートイン」という言葉が現れる頻度は高く、今現在のところ20篇近い詩において、この言葉が出てきます。議論を飛び越してしまいますが、氏の詩が哲学的であるという見方は、このような世俗的な言い回しが多用されていることによって、否定されざるを得なくなります。この詩人は、(今までの論考とやや矛盾するところはありますが)あくまでも生活の一部として詩を詠んでいるのです(*2)……それがどれほど難解で、孤高なものだったとしても。

 ところで、この「括弧閉じ」(「)」)は、何を意味するのでしょうか。一例では判断できないため、もうひとつの詩を引用しましょう。

 

  )沢の源頭に突然開ける原初の光景の如く

  )自らの時間を巻き戻し遡行した挙げ句

  )記憶の奥にのっそりと姿現すもの


 これは、「記憶の奥に(改訂)」(*3)という詩の一節です。詩の全編を引用することはできませんが、この詩は要約すれば、次の二連の主張に落ち着きます。

 

  俺はいったい何を待つ?

 

  などと考えるまでもなく

  近付いて来るそれを

  巨きな漆黒の影伸ばすそれを   気配のなかで眼を瞑り

  耳を傾けていればそれで良い

  

 この詩は、心象上の「砂漠」における孤独と安らぎについて書かれた詩なのですが、上にあげた問いと答えに対して、「)」から続く一節は、明らかに異様であり、部外的な響きを持っています。「)」が「括弧閉じ」であるように、ここにはあらかじめ終着した想いが表されているのです。起承転結に重きを置く詩であれば、冒頭に置かれていても良いようなものが、この叙述です。

 どうでしょうか。ある意味で難解と言っても良いような詩を引用して、今までは「読むことのスリル」を感じていなかった読者諸氏も、そろそろ「この詩人は恐ろしい」と感じ始めていただけているのではないでしょうか。この「括弧閉じ」は、誰もが思いつきそうで、なかなか思いつかない発想です。単に言葉遊び、記号遊びと考えることも可能でしょう。ですが、氏の用いる「括弧閉じ」は、明らかにその意味合いが異なります。

 現代詩への挑戦と言うことは大仰ですから、わたしもそうした言い方はしません。しかし、氏が単純な日本語のレトリックに違和感を感じているであろうことは、容易に想像がつきます。すなわち、既存の方法では自身の詩心を表せないのだと。わたしは「詩の価値とは?」という観点から、あえて分かりやすい例を挙げて解説しました。多分、後世の氏の詩の解説者は、氏のこの「括弧閉じ」に大いに悩まされることでしょう。

 ここまで書いてきて、わたしはこの「ひだかたけし」という詩人の詩作について、その内容についてはあまり吟味せずに来ました。それには、わたし自身の詩に対する信念も少し影響しています。詩とは、一個の言葉による造形であり、文学という一ミームを率いていく礎のようなものだ、という信念です。「内容? 何をか言わんや」という思いが、わたしにはあります。これは大いに誤解を招く言辞でしょうが、形式に卓れる内容、などというものはないのです(*4)。

 読者諸氏は、現代詩フォーラムというウェブサイトを開き、氏の詩を好きなように、より取り見取りに読むことができます。他の詩作者に関しても同様です。では、何をもって読者は詩を読もうと考えるでしょうか? 単純には、そのタイトルをもって、でしょう。自分が興味ある話題がそこに書かれているのではないか、と思い、読者は詩を読み始めます。しかし、詩人の作品というのは、えてしてその期待を裏切るものです。一見美しいタイトルの詩が、醜悪、または残酷な作品である、ということもままあります。それは、ひだかたけしという詩人にあっても例外ではありません。

 わたし自身は、この批評を依頼されたときに正直戸惑いました。繰り返して書きますが、未だその準備が出来ていないと感じたからです。正直にお話しすれば、わたしは未だ氏の詩の全篇を読んではいません(ここでがっかりした方がおられましたら、即座に読むことを中断されますことを)。それゆえにこそ迷うのです。一体何をもってこの詩人の価値とすれば良いのか? そこから必然的に生じてくる、「詩とは何か?」という問いに対していかに答えるか、と。ですが、わたしの答えは決まっています。「わたしの知り得る限りの知識が、この詩人に対する知識のすべてだ」と。

 現代は、お金さえ出せばどんな読書でも可能な時代です。いいえ、これは言い過ぎですね。メジャーな著作であれば、文庫本や全集を当たることによって、その作家やその思想に対する網羅的な知識を得ることが出来ます。もしも最先端の知識を得たいのであれば、近刊の雑誌を読む、あるいはインターネットの論文を探る、という方法もあります。現に、わたしはクワインの思想などに関しては、インターネット上の論文も参照しています。このクワインという哲学者は、わたしを深く導いた人物であるのですが……そのことを書くことは、いささか脱線が過ぎるでしょう。要するに、知識とは読者の努力に応じて得られるものなのです。

「詩の価値とは?」という問いを発するとき、その人物は、自ら詩人たらんとすることを欲しているものです。これは例外なく、読者にとってもそうです。詩を読むことで、詩を書かない詩人になる、そうしたことはあり得るのです。「あの人は詩人だ」「あの人の考えは詩的だ」といった言葉は、単なる言葉遊びではありません。「詩」というものが持つ普遍性は、生活や人生全般にまで及ぶものなのです。でなければ、中原中也のように生活に根ざした詩、決して巧みであるとは言えない詩が、人々に受け入れられるものでしょうか?

 現代詩、とくに戦後詩は、その内容が生活から離れて久しいです。これには、実存主義哲学の台頭や、リアリズムに対する人々の嫌悪、というものが密接に関係しているでしょう。「見たくないものは、見たくない」というのが、戦後のわたしたちの心を支配してしまったのです。戦後詩は、生活から逃れた哲学にその活路を見出した、そのことを否定するものではありません。しかし、ネット詩の台頭によって、詩は再びその活躍の場を生活という場面に移してきているように思えます。オタク文化が隆盛しているように、人々は再び個人的であることを志そうとしているのです。

 ですが、不幸なことに、ネット詩は、未だにその成果に見合う地位を得てはいません。ひだかたけし氏の詩しかりです。わたしも、彼の詩の紹介者として、一定の評価は得たいと思うのですが、それは不可能な望みでしょう。アマチュアリズムは、ことに文学の世界では忌避されるものです。それには、文学が言葉という誰もが使えるものを題材としていることが、深く影響しています。「こんなものなら、俺にも書ける」と誰もが思ってしまうのです。

 ですが、本当に良い詩とは? 「書けそうで書けない詩だ」「今まで思いもつかなったような叙述を行っている詩だ」と、結論してしまうことも可能でしょう。わたしも、そうした安易な帰結に迎合したくなります。ですが、「誰でも書ける詩」「ありきたりの詩」とは、本当に稚拙な詩でしょうか? わたし自身はそのことに疑問を抱きます。ひだかたけし氏の詩は「誰でも書ける詩」ではありませんが、そのことによってのみ評価するという姿勢を、わたしは棄却します。真の答えとは、「誰が書いてもおかしくない。しかし、彼/彼女が書かなければ意味がない」という点にあるのです。

 それは、一個の人間の肯定であり、信頼です。なぜ、第二次世界大戦前の小説や詩が同人誌を土壌として生み出されてきたのか、考えてみましょう。また、なぜ日本文化の礎である「万葉集」が大伴家持という個人によって編纂されたのかを、考えてみましょう。そして、「源氏物語」という日本の一大文学は、紫式部という個人の手になったものだということを。昭和初期の作家である堀辰雄は、「更級日記」という個人の日記を愛しましたが、そこには、個人に対する崇敬というものを超えて、文学全般に対する愛情が隠されてもいるのです。

 少し、ひだかたけし氏の詩論から話がずれましたね。しかし、実際にはずれてはいないと言うことも出来ます。この小論の初めに書いたように、ひだかたけし氏は現代詩フォーラムというウェブサイトを中心に活動している作家です。氏から聞いた話では、氏は商業誌をベースとして執筆活動をしていたこともあるそうなのですが、そういったことは、氏はおくびにも出しません。自身の実績に関しては秘匿したままです。その上で、現代詩フォーラムというサイトで、コミュニケーションの一環として詩を発表している。

 こういった物言いは氏の反発を招くかもしれませんが(すなわち、自分は読者のために詩を書いているのではない。自己との対決として詩を書いているのだ、と)、わたし自身は高く評価したいところです。「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」そういった古典の歌集は言うまでもなく、近現代の詩集も、そのおおむねは編者による編纂によって成り立っています。今の時代、個人の全集を読み込む人は、ますます稀でしょう。「あの人がこう言ったから、この作品を読む」──こうした態度はあり得べきものであり、実際わたしもそうして来ました。詩の価値とは、作者自身が提示し得るものではないのです。

 では、何によって詩の価値を決めましょう? 多数決によってでしょうか。卓越した評論によってでしょうか。(わたし自身は軽蔑していますが)公開されている賞の受賞によってでしょうか。そのどれもが違うような気がします。詩の価値を決めるものは、歴史です。人々の耳目に触れ、これと親しみ、「これは伝えていきたい」という思いによって、詩は残るのです。共感は共感を呼び、(古の時代であれば)口伝によって、それが伝えられたことでしょう。人々の会話が文字を通した書面上(現代であれば、ディスプレイ上)のものになり、形が変わっても、本質は同じことです。その理由は分からずとも、残されたものこそが、良いものなのです。

 このことは、一見して広告至上主義を肯定しているように思われるかもしれません。しかし、広告とは一時のものです。広告は歴史を支配し得ません。要するに愛された詩人こそが価値を持ち、文学史に残るのですが、それは「愛されさえすれば価値がある」ということを意味するものでしょうか? わたし自身はこのテーゼに対して迷います。……あるいは、それは正しいのかもしれません。人が平等であるならば、その才能の発露も平等であるべきだからです。

 この章では、氏の詩の論評に字数を割かず、「詩とは何であるのか」ということに字数を割いてしまいました。次章では、その姿勢を改めましょう。  



*1) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=346770

*2) ここにおける「生活」とは、「世界体験」という意味での「生活」です。

*3) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=346901

*4) わたしはここで、ごく短い文章で「形式>内容」であるという持論を述べましたが、このことは「形式は稚拙であっても内容が優れている詩がある」ということを否定するものではありません。むしろ、詩の書き手は形式などにとらわれずに、良い内容をもった詩をどんどん書くべきでしょう。ですが、この短い論考のなかでは、そこまで踏み込んでお話することができません。この独断的な持論については、また別の機会に書くことにしましょう。

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