第2話 自転車操業の罠
自費出版側は、完全に、
「自転車操業」
であった。
実際に自転車操業をしてみると、
「会員がたくさんいて、本を出したいという人が、想像通りにいて、回っている場合はよかった。それなりに収益もあり、さらに宣伝することで、最終的な収益にいたろう」
というのは、無理もないことであった。
しかし、実際には、しょせんは自転車操業で、本を作った人が、
「自分の本が、本屋に並んでいない」
ということを知った時、
「あの会社は怪しい」
と、いまさらのように騒ぎ出したことで、自転車操業に陰りが見えてくる。
しかも、彼らが裁判を起こすともなると、もうどうにもならない。
彼らのやり方、そのシステムが分かってくると、
「これは明らかな自転車操業」
と思うだろう。
そもそも
「自転車操業なんて、バブル期でなければうまくいくはずはない」
と思っているのだから、当然、
「自費出版社系の会社の運命」
というのは、ここまでだということになるのだ。
あっという間に、経営破綻となり、
「破産宣告」
あるいは、
「民事再生の申請」
などということに一気に変わってくるのだった。
それを、弁護士側がいろいろ手続きをすることで、当時、他の業界でも、
「民事再生」
などというものが、どんどん流行ってきていたので、弁護士側も、そのノウハウはわかっていることだった。
しかし、
「民事再生」
というと、何となく聞こえはいい気がするが、結局は、
「倒産」
ということだ。
「倒産したうえで、いかに、その後の再生ということになるのか?」
ということが問題で、この民事再生というのは、いわゆる、昔でいうところの、
「徳政令」
であり、
「債権放棄主義」
と言ってもいいだろう。
そんな状態になると、せっかく本を出した一、さらには、これから本を出そうとしている人が、どうなるかということであるが、ここからが悲惨であった。
というのも、、前述の、
「徳政令」
にあるように、
「出版社に対して権利を持っている人に対して、それを放棄させるかのような方法を取った」
のである。
さすがに、すべての権利を放棄させるということもできないので、法律的にぎりぎりというとことまでくらいに、細工していたのだ。
まず、
「これから本を出そうとしている人はなるべく、他の出版社から出せるように、交渉する」
ということであったり、もし、それができない場合にも、
「応募原稿は返さない」
などということになったのだ。
はっきりとは分からないが、
「著作権は筆者のものだが、所有権が出版社にあるとでもいうのか、どうにもおかしな気がする」
ということであった。
さらに、今まで本を作った人はどうなるか?
当然のことながら、本を出版しても、本屋に並んでいるわけではないので、その本は、
「在庫」
ということで、倉庫に眠っている形である。
このままでいけば、
「焼却処分」
ということになるが、著者に返すということのどちらかであろうが、事もあろうに、出版社側は、弁護士を通して、
「七掛けで、買い取ってほしい。それができない場合は、廃棄処分」
などという、とんでもないことを言いだしたのだ。
著者からすれば、
「元々、協力出版という形で、本を作った。ほんの製作費はもちろんのこと、営業や、宣伝費も含めての折版だったはず。それなのに、七掛けというのはどういうことか? そもそも、出版社の努力が足りず、本屋に置いてもらえないことで、当初の契約である、有名書店に一定の期間、置いてもらうという条件が満たされていないから、裁判を起こされたのではないか?」
ということである。
つまり、
「倒産に関しては、本の原作者には一切の落ち度はないのだから、なぜ、このような仕打ちを受けるというのか?」
ということであるが、
「いやいや、出版社の取引先も、一切の非はないのに、債権放棄を言われているのだ」
と弁護士はいうが、
「いやいや、その変わり、他の会社などでは、現金取引での取引継続であったり、少しは、取引先にも、選択肢があるだろうに、我々には、七掛けで買うか、それとも、廃棄するかという、飲めるはずのない条件を、一方的に言ってきているんじゃないか?」
ということであるが、
「さすがに、民事再生法というのは、あくまでも、申請者に対しての法律で、完全に、逃げるが勝ちということではないか?」
というのだった。
「なるほど、弁護士のモットーは、その行為がいい悪いに関係なく、すべては、依頼人の利益を守ることが、最優先」
というものであり、完全に、金本位だといってもいいだろう。
それを思うと、法律というものが、
「いかにひどいものなのか?」
つまりは、
「公平をモットーとしているはずなのに、これほど理不尽なことがまかり通るというおかしなものなのだ」
ということになるのであろう。
それが、法律というものであり、それを隠れ蓑として、なるべく負債を小さくしたまま。2,3年だけという短い間、一世を風靡した、
「自費出版社系の会社」
は、この世から、姿を消していくのであった。
高杉は、そんな出版社が、
「こいつは、詐欺だ」
というのを、ある提訴最初の頃に気づいていた。
これは、おじさんから聞いた話だが。おじさんも、同じように、
「バブルがはじけた」
ということをきっかけに、小説執筆という趣味を持ったのだ。
年齢的にはまだ40歳代だったので、
「まだまだ、プロになるにも、これから頑張れば」
と思っていたようだ。
そんな時、これ見よがしに雑誌に載っていた、
「本にしませんか? あなたの原稿をお送りください」
というものであった。
おじさんは、
「これは、願っても叶ったりだ」
ということで、その頃やっと、作品を完成させられ宇ことができるようになって、有頂天だった時期もあって、
「これは送らない手はない」
ということで、原稿を送ることにしたのだ。
原稿を送ってみると、相手の営業から、早速返事がきて、他の人が見れば、
「まるでテンプレートのような回答だ」
と思うのだが、おじさんは、感激した。
やはり、信憑性という意味で、ありがたいと思ったのだろう。
出版社の人から連絡もあり、批評をさらに、言葉にして言われれば、有頂天になっているだけに、柄にもなく、自分への自信を完璧に感じ、
「相手を疑う」
という感覚が、麻痺してしまったのだ。
感覚がマヒしてくると、
「とにかく、出版社の人の話を聞いてみよう」
と考えたのだ。
そして、もうひと作品を評価してもらうと、これも同じような感想で、その時、少しだけ、
「前の文章とあまり変わりはない」
と感じたが、それ以上のことを感じることはしなかったのだ。
それだけ、
「正常な中に、麻痺した感覚がある」
というわけではなく、
「マヒした感覚の上に、ちょっとだけ、まともな感覚が残っていた」
という感覚になってしまったのだ。
それを思うと、
「この出版社。本当に信じていいのだろうか?」
という思いが少し出てくると、それが次第に大きくなってきた。
やはり、最初に全面的に信頼してしまうと、今度は、それが崩れ始めると早いのだろう。
それだけ、一気に崩せる土台があるということなのであった。
簿記などで、数字を合わせる時でもそうではないか。
「明らかに数字が違っていると、どこか大きな数字が漏れている」
ということでわかることも多いがV、それが、
「数十円単位」
などという、一つだけの漏れということでは考えられないようなことであれば、プラスとマイナスのそれぞれで、
「少なくとも一件以上の漏れのようなものがある」
ということになるのであろう。
そのことを考えると、
「最初に大きな差異が存在し。それがたまたま自分に都合がいいことであったとすれば、その怪しかが見えてくるのは、時間の問題だ」
と言えるのではないだろうか?
それが、数学的な考えでもあるのだが、精神的な理屈と結びつくことで、
「何が理不尽なのか?」
ということが、分かるというものだ。
そして、おじさんは、
「何かがおかしい」
と思いながら、次の見積もりを冷静に見てみた。
最初の見積もりは、
「どうせ、そんな百万円単位の金なんか、用意できるわけがないじゃないか」
ということで、実際にその内容を検証をしてもみなかった。
それだけ、
「あれでも、献身的な値段なんだ」
と思っていたからだった。
だが、今回は、
「怪しい」
と思って見るので、明らかにおかしいことが分かった。
「千円の本を、千部製作するというのである。それを折半するということなので、普通に考えれば、50万くらいがいいところであろう。すべての経費を含んだ金額というのは、部数に、定価を掛けたものになるはずなので、誰が考えても、百万円が、総額になるはずだった」
ということである。
そんなことは、小学生にだって分かることで、それを、出版社にいうと、
「国会図書館などに置いてもらうのに、金が掛かる」
ということであった。
「いやいや、それも含めての定価なんじゃないですか?」
と迫ると、相手は口をつぐんでしまい、それ以上は何も言わないのだった。
要するに、
「都合の悪いことを言われると、相手は、口をつぐんでしまった」
ということである。
ということは、やはり、
「胡散臭い、怪しい業界なんだ」
ということに他ならないのだろう。
このまま、騙されたふりをして、こっちが利用してやろう。あいつらの批評は、それなりに、勉強になる」
と思ったのだ。
ハッキリしたのは、
「こいつらからは、企画出版以外では、本を出さない」
ということであった。
確かに、あいつらから、
「本を出さない」
と決めると、気は楽だった。
ただ、そんな出版社の批評も、
「マジで聞いていいのだろうか?」
と考えるようになった。
確かに、真面目に聞くのは怖いかも知れないが、あくまでも、この詐欺的な商法は、会社がやっていることであり、社員は、それに従わないと、路頭に迷うということで、しょうがないから仕事をしているのかも知れない。
しかも、
「本を出したいというカモを増やさないと、商売にならない」
ということであるがら、
「批評というものは、真面目に返さないといけない」
ということになるのだ。
つまりは、
「批評くらいは、真面目に聞いてもいいのではないいか?」
と思い、営業の人から連絡が合っても、そこは、
「大人の対応」
をしていたのだった。
しかし、相手もさすがに、痺れを切らすようで、
「見積もりは見ていただきましたか?」
といつものように、自分担当の編集者から言われたが、
「ええ、見ましたよ」
というと、相手は、
「それで……」
と、毎回のことに、嫌気を差しているということが、目に見えて分かると、その声のトーンも次第に、震えているように感じた。
「そろそろキレてくるかな?」
と思っていると案の定で、
「これまでは、私の一存で、あなたの作品を、編集会議に図っていましたが、これも、もう最後となります」
というではないか。
「そらきた」
と思い、
「それは、どういうことですか?」
と聞いてみると、
「これまでは私の一存で、あなたの作品を編集会議に掛けてやっていたんです」
と、完全に上から目線だ。
「そもそも、僕の作品がよかったから、編集会議にかかったんじゃないのか? 確か最初はそういう話だったはずだが」
と口には出さずに、そう感じていたると、
「編集会議って、編集者の一存なんですか?」
と、せめて、それくらいのことは言ってみた。
「ええ、そうですよ。でも、もうこれであなたの作品は編集会議にかかることはないので、これが本を出すためのラストチャンスです」
と言い出したのだ。
「これでは、完全に脅迫ではないか」
と思った。
「いやいや、僕はそれでも、送り続けますよ」
と半分苛立った中で、そういった。
相手がそれに対してどういうことをいうか、密かに楽しみであった。
もう相手のことを、
「詐欺師」
としてしか見ていないからだ。
「こんなに近くに、そして電話ができるくらいのところに、明らかな詐欺師がいるなんて」
と思うと、おかしくなってきたのだ。
そんな会話をしていると、今度は、普通であれば、
「ありえない」
というようなことを、相手が言い出したのだ。
「何を言い出すのか、楽しみだ」
と思っていただけに、なるべく、怒りをあらわにしないようにと、身構えて聞いたのだった。
「本当にあなたの作品は、もう誰も本にしようとは言い出しませんよ」
というので、こちらは、あくまでも、
「それでもいいから送り続けます」
という。
相手は、こちらが、
「詐欺だ」
ということを見破っているのかどうか分からないが、どんどんキレていっているのが分かってくる。
「どうして、そんなに送り続けるんですか?」
というので、こちらが、
「決まっているじゃないですか。企画出版をしたいからですよ」
というと、
「企画出版なんか、ありえないことを考えるよりも、共同出版でもいいから本を出して、少しでも、誰かに見られた方が、作家になるなら、近道だと思いますが」
とまだ、一応の理性は持っているような言い方をしている。
「それでも、企画出版を目指します。俺は、別にプロの作家になろうなんて思ってもいませんからね」
と、半分は本音である言葉を吐いた。
そうすると、相手は、今度はさすがに切れたのだろう。
「企画出版なんて、百パーセントあり得ません」
と言ってはならないことをいうのだ。
こいつが言った言葉は、
「3つの出版方法があって、それを、出版社が判断する」
といっているのに、その一つを完全に否定する言葉なので、矛盾しているといえる。
「それはおかしいじゃないか」
とこちらも少しトーンを挙げていうと、相手もその誘いに乗ってきて、完全に頭に来ているようだ。
そんな状態で話をしていると、相手が何を言いたいのかということが、すべて分かるというものだ。
相手の頭から、湯気が出てくるのが分かるくらい、相手は電話口で、鼻息を荒くしている。
「とにかく、企画出版というのは、あなたたちのような、ずぶの素人では無理なんだよ。もしできるとすれば、名前の売れている人ということになる。それは、芸能人か、犯罪者しかいないんだ」
といって、完全に、いきり立っているのだった。
すでに上から目線でもない。相手がこちらのいうことを聞いてくれないから、意地になってすねているだけの、
「大人の姿をした、大きな子供」
というところであった。
明らかに、この言葉は言ってはいけないことだ。
自分たちが、無能だから、詐欺行為をしてでも、金をむしり取るということだというのを、自分で宣言しているのと同じである。
さすがにこれを聞いたおじさんは、
「ここは、利用する価値もない」
ということで、その場で電話を一方的に切り、
「他の出版社を利用することにしよう」
と考えるのだ。
似たような出版社は、大小合わせて、すでに、十社くらいはあったという。そのうち、大きいと思えるところが三社ほどあり、その中でも、一番古くからあった、
「最大手」
と言われるところがそんなのだから、
「この業界も知れてるな」
と感じたのだった。
それはおじさんだけでなく、話を聴いている高杉も同じだった。
「おじさんも、よく我慢しましたね?」
と聞くと、
「最初から詐欺だと決めつけて聞いていたからね。もしそうでなければ、ショックを受けていたんじゃないかな?」
とおじさんは、怒りに感じるよりも、
「ショックを受ける」
というほうだったようだ。
「おじさんは、結局、小説を書くのをやめたんですか?」
と聞くと、
「いや、やめたりはしないさ。却って、このまま書き続けて行こうと思ったくらいさ。あんなやつらにバカにされたまま終わりたくなかったからね」
という。
「ショックを受けたというわりには、おじさんは、それなりに、反骨精神もあって、結構頑張っていこう」
と考えているようだった。
それを聞いて安心した。
「じゃあ、その後、あんな裁判沙汰になって、大手は皆潰れていったんですね?」
というので、
「ああ、そうだよ。あの出版社も、結構最後まであったけど、さすがに最後は、巨額の負債を抱えて、倒産したということだよ。いい気味だね」
といって。おじさんは笑った。
その笑顔は、明らかに余裕のある笑顔であり、
「おじさんは、今はプロになりたいと思っているんですか?」
と聞くと、
「いいや。確かにあの出版社に言われた時は意地になって、プロになりたいとは思っていないと言ったけど、あれは強がりさ。それから少しの間は、まだプロになりたいと思ったものさ」
というではないか。
「年齢的なもの」
と、おじさんがいうには、
「プロになると、自分が書きたいものが書けない」
というところからだということであった。
実際に、プロになった人の話など、そういう本があり、読んでみると、実際に、
「書きたいものと、出版社の意向が違う」
ということが多かったりした。
このあたりはドラマなどでも取り扱われることであるが、それ以外にも、似たような話があったりする。
それというのが、
「新人賞を取ってからが大変だ」
ということである。
実際に、新人賞を取るのが大変だということは、誰にでも分かることである。
「何百という、自信作を送ってきている中から、賞を取るというのは、それこそ、司法試験に合格するより難しい」
という、比較対象がおかしい話をする人もいるようだが、確かに、高度なところでの争いともなると、想像もつかない感覚になったりすることもあるだろう。
それを思うと、
「学校の入学試験にも言えることではないか?」
と考えられる。
「中学から高校への入試など」
先生などが、
「今のままなら、志望校は、ほぼ大丈夫だろう。それなら、もう一ランク上げてもいいかも知れないな」
と簡単にいうので、親の意見もあって、
「それじゃあ、もう一つ上の学校を受けてみるか?」
ということで、試験を受けると、
「見事に合格」
ということになったとしよう。
だが、入学してみると、今までとは明らかに勝手が違うのだ。
「今までの中学時代は、クラスでも成績はトップクラスで、
「優等生」
と、自他ともに認めていた。
ということであるが、しかし、高校にいくと、そうではない。
ランクを上げるということは、それだけ、優秀な生徒が集まってくるということだ。
つまりは、
「今までは、トップクラスで、自分でも、自信過剰なくらいになっていたのに、実際に高校に入ってみると、劣等生の肩書を付けられてしまうというほどになっていた」
というのである。
生徒によっては、
「負けてなるものか」
という反骨精神を持っていればいいのだが、そうでなければ、
「劣等性というレッテルを貼られたことで、これまでのプライドが音を立てて崩れていき。プレッシャーに押しつぶされそうになる」
というものである。
もっとも、成績がよかったとしても、さらに上を、ということになるのであれば、どこまで行っても、プライドとプレッシャーの板挟みから、どうにもならない精神状態となり、
「病んでしまう」
という生徒もいるだろう。
「引きこもり」
になったり、
「鬱病」
などになったりして、立ち直れない人も多いのではないだろうか?
小説家としてデビューしても同じこと。絶えずプレッシャーに立ち向かいながら、前を向いていくしかないのだ。
「賞の受賞は、ゴールではなく、やっとスタートラインに立っただけで、問題は、次回作に、受賞作よりもいいものが書けるか?」
ということであり、ここが最初の小説家としての、ターニングポイントではないだろうか?
小説家というものに限らず、
「賞を受賞し、それでプロになる場合は、次回作が大切だ」
と言われる。
作家の中には、
「何度も応募して、ずっと落選を繰り返していると、次第に、自分の作品が、どんどん色褪せてくるのではないか?」
と感じる人もいるだろう。
最初の頃は、プロを目指して、意気揚々と作品を作り、もちろん、
「最初はそんなに簡単にプロデビューなどできるはずがない」
と分かっているので、だからこそ、気持ちに余裕もあるし、応募できる作品を作ったというだけで、満足していたりしたのだが、そのうちに、自分の作品が、
「そんなに、誰の目にも止まらないのか?」
という風に、感じるようになり、それがプレッシャーとなって、どんどん、ネガティブに感じられる。
「俺は、いくら努力したってダメなんだ」
と考えてみたり、
「俺には、前の作品以上の作品が作れない」
と思うだろう。
それも、無理もないことだ。
「これ以上ない」
という作品を作るということを目標とするくらいにしないと、いい作品は作れないと考えて、作品を作っているのだから、
「次がある」
などという甘っちょろいところ考えていると、せっかくいい作品を作ったとしても、うまくいくはずがない。
それを考えると、
「どんどん、落ちていくごとに、自分の作品が落ちていくような気がする」
と思うようになると、
「永遠に、受賞なんかおぼつかない」
と考えるだろう。
そして、マンネリ化した頃に、受賞すると、それまでのストレスを忘れるくらいになればいいのだが、却って、自分の受賞がウソであるかのように感じ、それがマンネリ化した気持ちと相まって、
「今回の作品が、俺の最高傑作なんだ」
と思い込むことで、結果、
「それ以上の作品を、俺は作ることはできないんだ」
と考える人が、結構いるようだ。
つまり、
「燃え尽き症候群」
というものであろうか?
それなのに、世間は許してくれない。
「おめでとうございます」
といって、褒めてくれる言葉の裏には、
「今度の作品は、もっとすごいんでしょうね?」
という期待なのか、それとも苛めなのか、それを考えると、どうしていいのか分からなくなるのだ。
それを考えると、
「これほどのプレッシャーはない」
と考える。
「俺は、受賞だけで満足していればいいんだ」
という考え方と、
なまじ受賞などしてしまったもので、感じたくなかった、
「自分の限界」
というものを、感じてしまったんだということを感じるのだった。
人間というもの、
「自分の限界を感じると、それ以上先に進むということができなくなる。それは小説だけに限らず、すべてのものに限界があることを、いまさらながらに、おもい知らされるのである」
と感じてしまうのだった。
それを思うと、
「てっぺんを一度見てしまうと、よほどの精神力がないと、そのてっぺんで自分が生き続けることができないのだろう」
と思うのだった。
そんなことを考えていると、早々と、
「プロ作家になる」
という夢は、ほとんど、なくなってきた。
それよりも、
「趣味として書いている方が、よほど気が楽だ」
と思えるようになってきた。
何と言っても、自分の好きなように書けるということが一番で、何よりも、
「小説を書いている」
ということが、どんな趣味よりも、自分を輝かせてくれる気がしたのだ。
というのは、ある意味、きれいごとであって、正直、
「プロになる」
ということから逃げている。
と言われても仕方のないことなのだろうが、現実、プロになるだけではダメで、そこからの継続ができなければ、続かない。
先にまずは、継続できる力があるのかどうか、そこを自分で知っておかなければいけないということで、アマチュアの間にそこまでにしておく必要があるということになるのであろう。
そんなことを考えていると、自分がどんどん、プロになるということに対して、嫌になっていくのを感じた。
プレッシャーを感じながら、相手の要望にこたえなければいけないなどというのは、自分の中では、
「愚の骨頂にしか思えない」
のだった。
そんな、
「プロにはなれないが、自分の本を出したい。出すことで、あわやくば、編集者の目に触れて、そこからプロの道が芽生えてくるかも?」
という淡い期待の下、本を出してみると、
「実は詐欺商法だった」
というのを見ると、そこから、
「何か趣味を持ちたい」
と、バブル後に考えた人で、その中に、
「お金のかからない手軽な趣味」
というだけで、小説を書くということを始めた人は、脱落していくことだろう。
だが、そんな中でも、小説を書くことに面白さを感じ、残ったごくわずかな人たちと、それまで小説をいうものを、本当に趣味として、あるいは、プロを真剣に目指していた人たちは、まだまだ、諦めてはいないだろう。
だが、発表する場がなくなってしまっては、いくら趣味でも、モチベーションが落ちてきて、継続は難しいだろう。
「新人賞に応募し続けるしかなかった昔に戻っただけだ」
という人もいるが、実際には、
「一度、詐欺商法とはいえ、自分たちの本を出すという道があっただけに、昔とは違うんだ」
という人もいるだろう。
確かに、昔も今も、
「ただ、本を出す」
というだけであれば、本屋に並べるなどということがないだけで、
「全額自費で出版して、友達に配る」
ということもできるだろう。
しかし、最近ではそれ以外に、
「フリーマーケット」
という手もある。
自分のブースを確保して、そこで自分の手で売るという手である。
しかも、最近では、
「本に特化したフリーマーケット」
というのもあるようで、それができるようになったのも、きっと、
「本を出したい」
という気持ちの元に集まった、有志によるものではないだろうか?
そんなことを考えると、
「小説を書く」
という趣味は、まだまだすたれたというわけではない。
そのうちに、今度は、ネットというもので、何でも販売できるようになってきた。
そのおかげで、一長一短があり、評価は難しいところなのだろうが、それが、
「無料投稿サイト」
というものである。
もちろん、機能がもっと充実した、
「有料のサイト」
というものあるのだが、今は無料でもたくさんの人が投稿し、それらを読む人もたくさんいる。
無料投稿サイトに関しては、本当にタダなのだ。
無料で、会員登録しておくと、好きな時に、書いた小説をアップしておくと、読者の人たちや、他の作家の人が見てくれるという感じである。
そして、サイトによって、機能は違っているのだが、レビューを書いてもらえたり、感想がもらえたり、作者が日記のようなものを書くことができたり、さらには、プロット作成機能まであったりする。
プロットというのは。
「小説のせっけいず」
であり、それを作っておくことで、書きながら、迷走することはないといえるであろう。
もちろん、決まった書き方があるわけではないので、好きに書けばいいのだが、まだ書き始めて日が浅い人は、どのように書いていいのか分からないだろうから、テンプレート的なものがあれば、それを利用するのが一番いいだろう。
それを思うと、
「無料投稿サイトに、プロット機能がついているのは、ありがたい」
といえるだろう。
無料投稿サイトも、さまざまな種類がある。
無料ということで、なかなか運営も難しいのか、
「新しいのができる端から、どんどん昔のところが消えていく」
ということを繰り返しているようだった。
高杉は、そんな時代の話をおじさんから聞き、今の無料投稿サイトが、
「そんな悲惨な過去の教訓で生まれるべくして生まれたサイト」
ということで、十分に利用できるものだと感じていたのだ。
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