交換幇助

森本 晃次

第1話 大学サークル

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。


 高杉小五郎は、今年、大学2年生になるが、1年生の時は、サークル活動をしているわけではなかった。入学してから、ゴールデンウイークが過ぎるくらいまで、キャンパス内では、至る所に、サークルの出店のようなものが出ていて、1年生に対して、声を掛けたり、ビラを配ったりして、勧誘に躍起だった。

 大学に入学すれば、大体、

「どこかのサークルに入部しないといけない」

 というような暗黙の了解のようなものがあって、高杉も、最初、

「どこかのサークルに入ろうか?」

 とも思ったが、何となく、優柔不断でいるうちに、結局極めきれず、一年生の間は、サークル活動することもなく、

「アルバイトと、授業に明け暮れていた」

 という感じだった。

「サークルに入っていないと、なかなか友達も増えないだろう」

 ともいわれたが、確かにその通りだった。

 だから、一年生の時、そんなに、たくさん友達がいるわけではなかったが、やはり大学というところ、こっちから友達を探さなくとも、勝手に声を掛けてくる人は一定数いるものだ。

 高杉は、

「来る者は拒まず」

 という性格だったので、友達はそれなりにいたのだ。

 アルバイトをしていた関係もあり、友達の比率は他の人にくらべれば、

「他校の学生」

 というのも、結構いた。

 だがら、大学祭の時期などは、彼らの学校に遊びに行くにしても、気が楽というもので、同じ大学の友達から、

「高杉と一緒にいると、他校に行きやすい」

 ということで、重宝されたものだった。

 しかも、高杉というのは、

「大学が違っていても、一切構わないという考えだったので、結構、まわりから信頼もされていた」

 と言ってもいい。

 大学というところは、

「誰でも簡単に友達になることができるが、その友達というのも、ピンからキリまでである」

 といえるだろう。

 友達というと、

「朝出会った時に、挨拶をする」

 という程度の友達から、もっと仲良くなって、お互いの家やアパートを泊りあったりして、その時、いろいろと、徹夜で話す間柄だったりするのだろう。

 その内容としても、これも

「ピンからキリ」

 であり、

「オンナの話題から、政治経済。さらには、SF小説のネタなどを話したりしていた」

 というのも、高杉は、

「いずれ小説を書いてみたい」

 と思っていた。

 それも、オカルトのような、

「奇妙な話」

 であったり、

「SF小説のような、時間旅行であったり、宇宙モノというような、壮大な話にもしてみたい」

 と思っていた。

 小説に関しても、

「ピンからキリまで」

 と言えるが、この場合は、

「焦点が定まっていないことから、幅だけが広く、実際には考え方としては、浅いというものである」

 ということであった。

「オカルト」

「ホラー」

「SF」

 などというのは、ある意味、

「奇妙な世界」

 というものを描くという意味で、幅も広いし、勉強もある程度は必要だろう。

 今の時代は、ネットなどの発達によって、勉強するための資料は簡単に手に入る。昔のように、図書館で調べたり、本屋で参考資料を探したり、などという必要もなくなっているのだ。

 ただ、ネットの普及が、本というものでああるところの、活字印刷された、いわゆる、

「紙媒体」

 というものを必要としなくなったのも事実で、実際に、本屋が街から消えているというのも事実であった。

 さらに、小説を書きたいという気持ちの裏に、

「小説家になりたい」

 という気持ちがあるのも事実。

 しかも、せっかくだから、自分の本を出したい。つまり、

「紙媒体」

 での、出版をしてみたいというのが、一番の目的だと言ってもいいだろう。

 しかし、実際には、本屋などで、本がどの状態なのかということを考えれば、

「ネット販売でも仕方がないか」

 と考えてしまうのだった。

 最初に、

「本を出したい」

 と思ったのは、

「ライトノベル」

 というのを見たからだった。

「ライトノベル」

 というのは、最近などでは、

「テレビドラマの原作が、アニメが多い」

 というのは、珍しいことではなくなった。

 しかし、以前からあり、今もあっている、

「脚本家オリジナル作品」

 というものがある。

 これも最近は、そこまで言われないが、

「今から三十年くらい前というと、有名脚本家が、毎回ドラマのクールごとに、何人もで争うように製作していた」

 という時期があったようだ、

 民放同士の争いのようなものがあり、意地とでもいうのか、いわゆる、

「トレンディドラマブーム」

 という時代があり、それらに毎回出演している人を、

「トレンディ俳優」

 と評していたようだ。

 特に、女優などは、毎回、必ずどこかのドラマに主演をしていたり、わき役でも、同じ時期の多極の作品でも、掛け持ちをしているというような形の、

「売れっ子」

 というものがいた。

 そんなトレンディドラマには、ドラマを小説の形にした、

「ノベライズ」

 というものが売れた時代でもあった。

 しかし、それらが、次第にすたれていったのは、

「有料放送」

 というものができてきてからであろう。

 有料放送というのは、元々、プロ野球などで言われていた。

「野球中継は、いつもいいところで終了したり、途中の見たいところを無視して、CMを入れたり」

 と言われるようになった。

 というのも、

「民放の収入源というのは、スポンサーになってくれる企業あってのことだ」

 と言えるだろう、

 だから、

「民放は、スポンサーには頭が上がらない」

 というわけで、視聴率を死に物狂いで気にするのも、そのせいであった。

 視聴率によって、スポンサーがつくかつかないかが決まるだからだった。

 そのうちに、有料放送というものができて、

「月額、数百円で、好きなチームの試合を、試合開始前から、居合終了後のセレモニーまで、余さず見せる」

 というのが触れ込みとなり、それらの放送を契約する人が増えていった。

 他のチャンネルにも、

「ドラマ専用」

「ニュース専用」

「バラエティ専用」

 というような放送チャンネルができて、これもパック形式であったり、

「何チャンネルかを組み合わせたセット」

 という形の契約で、好きなチャンネルだけを見れるというものが出てきたのだ。

 そうなると、

「何も、面白くもない民放をいちいち見ることもない」

 ということで、

「テレビ離れ」

 というのができてきた。

 実際に、

「地デジへの入れ替え時期」

 に、ちょうどいいということで、テレビを置かない家庭も出てきた。

「スマホでテレビを見ようと思えば見れるから」

 というのが、その理由だった。

 だから、テレビの方も、有料で、

「見逃し配信」

 という方法で、いまさら遅ればせながら、有料放送に参入してきたというわけであった。

 実際に、最近のドラマは、民放よりも、某国営放送の方が面白かったりする。以前は、放送倫理に厳しかったことで、なかなかエンターテイメント的な作品を映像にはしていなかったが、最近では、民放顔負けの作品が多いのも、印象的だったりする。

 そんなテレビドラマや映画製作の原作というと、ほとんどが小説だったのに、最近では、それが、

「マンガが原作」

 というものがほとんどになった。

「じゃあ、小説が減ってきたということか?」

 ということでもないようだった。

 以前から、

「小説をマンガにする」

 というのは、あったりした。

 もちろん、人気になり、テレビドラマや映画になった作品の、その余勢をかってということで、マンガにして、

「マンガでも一儲け」

 ということも考えられたのだが、最近では、同じマンガにするとしても、若干、違っているようだ。

 これまでの小説からマンガにするルートとしては、

「小説が売れ、映像作品が売れることで、マンガにすると、マンガも売れる」

 という形であった。

 しかし、今は違う。

 基本的には、まずは、マンガが売れ、そこから、映像作品となるわけであるが、

「最初が小説」

 というのもある。

 それが、

「ライトノベル」

 というものだ。

 つまりは、

「ライトノベルというのは、まず、マンガの原作となるような形で書かれて、そこから、漫画家が、マンガとして描く」

 というのだ。

「マンガにするための、小説」

 と言っても過言ではない。

 ライトノベルの場合は、

「小説が最初で、そこから、マンガとして製作する」

 というところまでは、一つの流れだ。

 それから、マンガが売れれば、映像作品になったりするのは、必然であり、

 要するに、

「どんどん、見やすい方に、作品を変化させていく」

 というようなものだ。

 そういう意味で、

「マンガにするための原作としてのジャンルとして、小説がある」

 という発想は、なかなかないものであっただろう。

 それだけ、

「小説というものが売れなくなった」

 ということであり、活字離れが、ここまできたということである。

 本来なら、小説を読むことで、想像力が働くので、それだけ、ダイナミックに読めるというものなのだろうが、

「楽な方に進もうとする発想が、今の時代の流れなのではないだろうか?」

 ということになるであろう。

 マンガというのが、日本の文化といえば、聞こえはいいが、楽な方にしか進んでいないということも事実である。

「それでも、まだ小説が残っているということは、小説の力というのは、それだけ偉大なものだと言ってもいいだろう。

 ライトノベルの時代になってくると、猫も杓子も、

「ラノベ」

 と呼ばれる時代になった。

 最近では、確かに、

「紙媒体の本」

 というものを出版するということは、かなり難しい。

 何と言っても、出版社にしても、本屋にしても、

「売れる本」

 を出したいのは当たり前だ。

 本というのが、考えてみれば、

「毎年のように、たくさんのコンテストがあり、そこで入賞すれば、プロとしてデビューできるという出版社も結構ある」

 しかも、

「そんな作家が、どんどん、本を出していけば、一日に、毎日巣冊は発売されてもいい計算だ」

 となると、売れる本でもない限り、前の日に並べた本でも、翌日には、違う本にかわっているという可能性があるからだ。

 大きな本屋でも、文庫本コーナーなど、どんなに名前の知れた作家とはいえ、数冊しか置いてなかったりする。下手をすれば、一冊もないなど普通にあるではないか?

 昭和の頃の本屋の話を聴いたことがあったが、テレビ化や映画化したような作家の作品は、その作家の本をほとんど、棚に並べていたというではないか。中には、百冊以上の本が並んでいることがあり、背表紙で作家を色分けしているので、

「色彩がきれいだった」

 と言っているのだった。

 さらに、ここ二十年くらい前から、

「アマチュア作家」

 というのが、急に増えた。

 それは、バブルが弾けたことで、その前のように、

「仕事をすればするほど儲かる」

 という時代ではなくなったので、

「いかに経費を節減するか?」

 ということで、残業を許さない状態になった。

 それまでは、

「とにかく仕事をするということで、給料もちゃんと、残業分も貰えていたのに、肝心の使う暇がないことで、皆、お金は持っていた。そして、暇になったことで、それをサブカルチャーに使おうという人が増えたのだ」

 そこで、

「金がほとんどかからない趣味」

 として、

「小説執筆に勤しむ」

 という人が増えたのだ。

 しかし、ほとんどは、小説どころか文章の書き方も分からない、俄かばかりで、文章教室に通うならまだしも、それもしないで、作家気どりの人が、今度は、

「うまく詐欺にひっかかる」

 ということになるのだった。

 それが、

「自費出版社系による、詐欺事件」

 という、社会問題を引き起こしたことだったのだ。

 それが、どういうことなのかというと、基本的に、持ち込みか、出版社系に新人賞に応募して、入賞でもしない限りは作家になる道はなかった。

 しかも、持ち込みともなると、出版社の人は捨てるだけでしかないのだ。

 さらに、コンクールに応募しても、自分の作品が、どれくらいのレベルなのか、一切公表されない。

「審査に対しての質問には、一切お答えできません」

 というのが、当然のルールだったのだ。

 それを思えば、

「小説を読んで、批評とともに、出版に向けての見積もりをお送りします」

 ということで、

「原稿をお送りください」

 ということで、公募しているのだった。

 その公募というやり方は、結構、人々の心に響いたようだ。

 というのも、原稿を送ると、キチンと読んでくれ、それなりに批評も、適格だったというのだった。

 相手の批評は、まず、否定的なところから入って、さらに、

「しかし、この作品は……」

 とつづられた後に、いいことを書いてくるのだ。

 これには、二つの効果がある。

「最初に悪いことを書いてから、その後いいことを書くのだから、いいことが目立ってくる」

 というものと、さらに、

「いいことばかりではなく、悪いことも書いてくるということは、それだけ、ちゃんと読んでくれて、その評価には信憑性がある」

 ということで、一応の信頼がおけると思わせることであった。

 だから、その中に、見積りが入っていて、そこにお金が絡むことが書かれていても、

「相手も営業なのだから、当たり前か」

 と感じるだろう。

 もちろん、原稿を送る方も、さすがに最初から、

「出版社が全額持ってくれるという企画出版をしてくれる」

 などということが、そんなに簡単にありえるということなどはないと思うに違いないだろう。

 そうではあるが、相手に最初から信憑性などなければ、そんな営業をされても、ガン無視するのが当たり前だろう。

 しかし、相手に対して、それなりの信頼性をもってしまうと、感覚がマヒしてしまい、実際に、信じてしまうのだろう。

 相手を信じられなければ、怒りに身体が震えるくらいになるのだろうが、少しでも信頼してしまうと、どこか、信頼が広がっていくように思い、このあたりの感覚が広がってくるのを感じるというものだった。

 さらに言えるのは、

「彼らには、お金があった」

 ということである。

 どれくらいの貯えがあったのかというのは、その人それぞれであろうが、残業に明け暮れていて、お金を使う暇もなかった人が多かっただろうから、バブルが弾けたことで、

「時間はできるが、お金は……」

 ということになると、他の人は趣味をしようと思い、その貯えを使おうと思う。

 しかし、小説を書くだけであれば、それほどお金は罹らない。筆記用具か、パソコンか、そして、頭がありさえすればできることだからだ。

 小説を書いていると、

「プロになりたい」

 あるいは、

「自分の本を出版したい」

 ということになるだろう。

 プロになるにしても、自分の作品が、編集者の人の目に触れて、そこで評価を受けなければ、それは難しいことだろう。

 それには、一番いい方法とすれば、

「出版社系の新人賞で入賞すること」

 というのが大前提ということになる。

 もちろん、そちらも並行して行っている。

 作品ができれば、そちらに応募して、結果待ちをしている。

 だから、普段から、作品は毎日書くということは、心がけている。そして、かたや、

「新人賞応募用の作品」

 かたや、

「自費出版社系に送る作品」

 とそれぞれ、執筆しているのである。

 もちろん、優先順位は、

「新人賞」

 の方であろう。

 こちらは、シビアな審査を行っていて、いくら自費出版社系のところも、信憑性を感じられるとはいえ、

「新人賞に入選すると同時に、プロ作家への道が開けてくる」

 ということである。

 つまり、

「いくら、自費出版社に送っても、結果、企画出版を言ってこないことに、少し苛立ちがあったりするし、ただ、それは、新人賞では、一次審査すら通らないことを見ると、自分の作品はそこまでなんだと思わされることになるのだった」

 そのうちに、

「どちらもやめてしまう」

 という人も多いだろう。

 しかし、

「元々の目的は、本を出したい」

 ということの方が強い人は、どうしても諦めきれない。

 だとすると、

「お金があるのだから、一冊くらい」

 ということで、自費出版社から出版してみようと思うことだろう。

 実際に、出版してみると、

「なかなか、編集者の人は優しく指導してくれ、本を出すまで、キチンと対応してくれる」

 ということで、安心できるのだった。

 お金がまだある人は、

「もう一冊出すのもいいか?」

 と思うかも知れない。

 相手が、結構プロ衆参を集めているのだろう。

「あの批評だって、結構、的を得ているものだった」

 と思う。

 正直、

「編集者としてのプロの目」

 というものが垣間見られた気がするし、やり方だけでなく、内容もそつのないものを返してくると、

「こちらが何を求めているのか?」

 ということを分かっているに違いないのだった。

 本を出す時までの、指導も同じ人がしてくれる。

 話を聴いてみると、

「なるほど、元、有名出版社で、プロ作家を担当する、編集のプロだ」

 ということだった。

 それだけに、安心して任せられる、

 本がいよいよできてくると、それまで、信憑性があると言っても、どこまで信じていいのか分からないという、一抹の不安があったのだが、それも次第に消えていき、

「一抹の不安など、もうない」

 と思うのだった。

 最大級に、疑うという感覚がマヒしてしまうという瞬間だったのだろう。

 出版社に不安を感じなくなると、

「俺の本ができるんだ」

 ということだけで、大満足であった。

 正直、

「売れようが売れまいが関係ない」

 という感覚になる。

 しかし、それも、

「自分の本が本屋に並ぶ」

 という大前提があってのことであった。

 ここから先が実は問題で、

「自分の本が本屋に並ぶことはない」

 というのが、結論だった。

 これは、このやり方を考えた、

「自費出版社系の会社」

 がどこまで考えていたのか、正直分からないが、冷静になって考えれば、

「自分たちのような、無名で素人の作品が、本屋に並ぶわけはないだろう」

 ということである。

 前述のように、

「毎日、何冊というプロの作家が本を出すのだ」

 ということである。

 その出された本すべてが、本屋が、ポップを立てたり、電車の中吊り広告のように宣伝してくれるわけではない。

 要するに、

「宣伝などするわけもないので、売れるわけもない」

 ということで、大半の本は、しばらくすると、

「返品」

 となるのだ。

 それでも、有名作家の話題性のある本だけは、平積みされて、本屋が宣伝してくれる。

 そうでなければ、本屋に並んだとしても、誰が気にして見るというものだろうか。

 読みたいという本でもない限り、宣伝もしていない本をわざわざ手に取ってみたりして、購入するだろうか?

 そんなことはありえない。

 プロ作家の本であってもそうなのである。

 アマチュアの作品が、誰に評価されるというのか、正直、本屋は、その本を、

「門前払い」

 がいいところだろう。

 そもそも、その出版社の本を置くなど、考えられない。

 だから、

「自費出版社系の話題がクローズアップされてから、数年後には、出版数では、全国一位の地位に立ちながら、本屋でその出版社の本を見ることはない」

 というちぐはぐな状態になっているのだった。

 ただ、自費出版社系の出版数が、全国一位になると、今度は、朝や昼のワイドショーなどで、コメンテイターが、このシステムを褒めたりしている。

 もちろん、その裏には、出版社側が、コメンテイターと裏で繋がっていて、その見返りに、

「お金」

 というのが存在しているということなのであろう。

 これは、出版社側とすれば、

「立派な広告宣伝費だ」

 ということになるだろう。

 有名コメンテイターに宣伝させるというのだから、

「宣伝費にお金が掛かっても仕方がない」

 ということであるし、別に、

「裏金というわけでもない」

 とばかりに、コメンテイターも安心して受け取ったのかも知れない。

「テレビで宣伝しているんだったら」

 と、原稿を送る人も増えてくるだろうし、そうなると、

「本を出したい」

 と考える人も尾増えてきて当たり前のことであろう。

 それを考えると、

「出版社の一番の経費は、広告宣伝費になるのではないだろうか?」

 と考えるのだ。

 さらには、次というと、これも、広告宣伝費に負けずとも劣らない、

「人件費」

 であろう。

 出版するために、応募原稿を読んで見積りを書き、そして、出版するとなると、その手伝いをして、その本を本屋に売り込む。

 ということである。

 だが、次第に気になってくることとしては、

「経営がうまくいかなくなると、どこを削るか?」

 ということを考えるとすると、それは、

「最後の、本屋へのアタック」

 ということであろう。

「どうせ、本屋に持って行っても、並べてくれるわけもない」

 と思うと、

「作るだけ作ってしまうと、本屋に売ることもできず、在庫として抱えていくことになる」

 ということだ。

 そうなると、本は、

「在庫」

 となるわけで、在庫は、どこかの倉庫を借りて、そこに保管することになる。

 作者には、

「本屋に入れるのは難しい」

 ということを説明すれば、最悪分かってもらえるだろう」

 という意識からである。

 そうなると、これだけ経費が掛かっているのだから、一番の問題は、

「一定の顧客を掴むことである」

 というものだ。

 これは、会員制の宅配と似ている。

 会員制であれば、もし、お客が注文してくれないとしても、

「月会費」

 というもので、いくらかは、収益を得ることができる。

 逆に、

「月会費というものを持っていないと経営できないくらいであれば、その会社は、ひょっとすると危ないかも知れない」

 ということが、従業員の中には思っている人もいないとも限らない。

 それだけ、

「バブル」

 の時代とは違うのだ。

「いかにして、商品を売るか?」

 ということが、次第にピックアップされていく。

 正直、

「売れない時代」

 ということなので、ある程度、

「人を欺く」

 というのが必要だということを考えると、このような商売が、出てくるのは、

「バブルが弾けた」

 という、ある意味、カオスで無法地帯だからこそ、ありえることだろう、

「何があっても、驚かない」

 これがバブルが弾けて感じたことであろう。

 特に、バブルが弾けてから、それまでの、

「神話」

 と言われてきたことが、すべて覆されることであった。

 たとえば、

「銀行不敗神話」

 というものがあった。

 これは、

「銀行というのは、基本的には破綻しない」

 と言われていたのだ。

 しかし、最初に破綻したのは、銀行のような金融機関だった。

「銀行は絶対に潰れない」

 と言われていた根拠は、

「危なくなったら、国が助けてくれるからだ」

 ということだったのだが、潰れてしまうと、

「国が介入しても、潰れてしまうほど、深刻な状況なのだろうか?」

 ということである。

 バブルの時代に銀行は、

「企業に対して、これでもかというくらいに、銀行は融資していた」

 と言われている。

 それも、企業側が、

「貸し付けてほしい」

 と思っている融資額を、さらに増やして融資していたのだ。

 それは、企業側の、

「事業を拡大すればするほど儲かる」

 ということが定説だったからだ。

 だから、

「利子が儲けになる銀行とすれば、大目に貸し付けたことで、その分、儲かる」

 ということで、たくさん融資する。

 それを、

「過剰融資」

 と言ったのだ。

 しかし、そのうちに、うまく回らなくなってくる。

 なぜなら、

「バブルというのは、実態のないものであり、そのため行っているのは、自転車操業だった」

 ということである。

 バブルの時期であれば、自転車操業、大いに結構だったのだが、バブルが弾けたこの時代になると、そうもいかない。

 どこか一つが焦げ付けば、すべてが機能しなくなる。

 それが、自転車操業の弱点だった。

 バブル崩壊は、その自転車操業全体をコントロールしていた銀行が破綻したのだから、どうしようもない。

 それでも、何とか経済が落ち着いたのは、

「吸収合併」

 という方法で、乗り切ることができたからだ。

 というのは、

「危ない会社を大きな会社が吸収する」

 ということであった。

 吸収する側も、まだ大丈夫な時に、危ないところを吸収することで、会社自体が大きくなるので、少々の負債があっても、まだ何とか、大丈夫な時に自転車操業における、潤滑油での手当てをすることで、うまく回せるのだった。


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