第20話 純然たる悪意 5-5


「馬鹿な! あれは!?」


 瞳を揺らして冷や汗をながしたのは、普段では考えられないほどの動揺をみせるヒルメだった。

 総司令室の大型モニター、聖遺物『偽:天網の御座』によって映し出される映像に、ヒルメは息を呑む。


「神の招来……枉津日まがつひ……ですが、あの姿は……っ!?」


 画面に映る神の一柱、その姿はヒルメにも関わりの深い神格のものであった。

 だが己の知るその神と、画面の中にいる神の姿はあまりにも違っている。

 禍々しすぎるのだ。


「至急、動けるものたち全員を不破奈市に――」

『ならん』


 ヒルメの命令を遮ったのは、基地を飛び出しどこかへ行ったヴァルゼナードだった。

 通信魔術を用いて声を送るヴァルゼナードは、ヒルメが追加戦力を投入しようとすることなど分かり切っていたのだろう。


「ヴァルゼナード!」

『神といっても、所詮は劣化だ。枢摩燈アレの真価を試すには丁度いい』


 ヒルメはこの戦旗における副支部長だ。

 それ相応の命令権を有しているが、あくまでもそれは副支部長という役職相応のもの。

 それよりも上位の権限を持つヴァルゼナードの前では、無力に等しかった。


「……お前にしては珍しく他者を気に駆けますね。そんなに気に入らないのですか、あの子が」


 驚きと困惑、そして少しの不信感。

 ヴァルゼナードという男は究極、自分以外の存在には興味がない。自分以外は全て駒だと本気で思っているような人間だ。

 心の底から本気で、他者は自分のためだけに使い捨てられるべき存在と信じている。

 突き抜けた傲慢性こそが、このヴァルゼナードの本質なのだ。

 それをヒルメは知っているからこそ、ヴァルゼナードのこの行動が気になった。

 有り体にって、らしくない。

 ヴァルゼナードはヒルメの言葉を受けて、顔色一つ変えることなく答える。


『違うな。逆だよ、期待しているのだ。アレの持つ聖遺物と同じほどに、アレは特異な存在だ』

「――お前、最初から燈の聖遺物が何か知っていたのですか?」

『天照たるお前が反応するレベルの陽の属性、光の円環、破壊の力、そして生贄の概念がある神話に由来するもの。ヒントは多すぎるほどに出ている――あの小僧はまだ、本来の性能を扱え切れていない』


 聖遺物は、それが強力なものであるほど、その聖遺物に対する知識を有していなければ十全の性能を発揮することができない。

 来歴や由縁、逸脱、伝承、神話など、己の聖遺物に対する知識が深ければ深いほど、本来の性能へ近づいていく。

 知識を得ることによって親和性は上がる。またその逆で、親和性が上がることによって聖遺物に眠る記憶から知識が流れ込むこともある。

 ようするに、自身と混ざり合う聖遺物ちからへの深い理解ちしきが必要なのだ。

 話は終わりだと、ヴァルゼナードが通信魔術を切る。


「燈……」


 憂いを帯びたヒルメの瞳は、画面の少年へと注がれていた。



 ――枉津日神まがつひのかみ

 神産みで黄泉より帰った伊邪那岐いざなぎが、みそぎを行うことによって産まれた神であり、災厄を司る神である。

 古来、枉津日神は人々を黄泉の穢れや災厄から遠退ける厄除けの守護神であった。

 だが悪神の奸計によって、純然たる悪意の玉体より溢れ出た血に浸され、その神性は犯され穢れきって、神格を失った。

 あとに残るのは爛れ切った呪詛の塊。人の姿を取る災厄そのもの。

 腐臭を漂わせる焼け爛れた赤黒い肌と、色褪せ輝きを失った白い髪、そして常に血の涙を零すひび割れた両の瞳と、皮膚を破って天に伸びる血濡れの大角。

 神たる存在より引きずり降ろされた、最強最悪の――鬼。


 ――大禍津童子おおまがつどうじ


 枉津日神という厄災を祓う善神は属性が反転し、荒魂となったことで枉津は大禍津となり、さらに神格を失ってしまったことにより鬼へと変じた。

 神格共に自我も失われ、本能のままに破壊と災厄を振りまく存在と化した暴威。

 神ではない。あれは信仰と供犠を求め、穢れと病床を振りまく形を持った天災。

 アカ=マナフが対アーサー用に残していた切り札だった。


「かっ、あ……!」


 息が詰まる。まるで打ち上げられた魚のように、呼吸ができない。

 窒息してしまうと分かっていても、体が言うことを聞いてくれなかった。

 頭よりも先に体が理解したのだ。

 アレに認識されれば――終わる。

 だから息を止めて嵐が通り過ぎるのを待つ。

 ドサッと恐怖から立つことができなくなり、四つん這いに倒れる。

 皮肉なことに、それはまるで神を恐れ敬う人間のような格好となった。


《――おお神漏岐かむろきよ、何処いづこや何処、見せたまへ》


 それは鬼の泣き声なのだと分かった。

 おお伊邪那岐ちちよ、私を産んだお方よ、どこにおられるのですか、一目でいいから姿をお見せください。

 鬼哭啾啾と、産み落とされ見捨てられたこどもの嘆き。


「枢摩!」


 酸欠に陥って気を失いかけたとき、天華と一緒に駆けつけた刀耶が燈の背中を叩いた。

 そこでようやく呼吸の仕方を思い出して、空気を一気に取り込む。

 勢いから思わず咳をしてしまうが、なんとか意識を失わずに済んだ。


「なに、あれっ……!」


 顔を歪めて緊張を走らせたのは天華だった。

 ビリビリと肌に感じる神威は、瀑布のように重く、まるで重力が何倍にもなったかのように感じる。

 離れたこの位置からでも分かった。

 あれは生物としての次元が違いすぎる。

 遠い昔の人々は、神を畏れ敬った。

 ああ、理解できる。理解せざるを得ない。

 アレは畏れて当然のものだ。恐れて、敬わなければいけない類の概念だ。

 そうするほかに人間にできることはない。

 人の身を逸脱し魔人となっても……否、魔人となったからこそ、その規格外さをより認識できる。

 大禍津童子は神格を失っているが、ヒルメのように自ら神としての力を封じている訳でも、アカ=マナフのように致命的な傷を負っている訳でもない。

 あれこそが、あの存在密度スケールこそが、神代の絶対者であった神という概念なのだ。


「最悪だな」


 刀耶の顔が苦々しいものに染まる。

 隔絶境界を使った反動で、まともな力が使えない状態での決戦。

 言葉通り、最悪といって差し支えない。

「二人とも逃げなさい、私が時間を」


 刹那、鬼の眼は人間を捉えた。


《――祀れや祀れ、おどりゃんせ》

「――え?」

 天華のいた場所に、鬼神が立っている。

 直後に聞こえる破砕音。

 はるか後ろに、一撃で昏倒した天華が瓦礫の中で転がっていた。


「っ!? ――『いと貴き君主の死都』」


 咄嗟に刀耶が隔絶境界――『龍の棲む都の夜ノアプテア・バラウル』を発動させようとするが、ただの裏拳で未完の境界ごと砕かれ吹き飛ぶ。


「あ、ああ……っ」


 絶望に喘ぐ声しか出なかった。

 鬼神はなにを思ったか膝を折り、頽れ見上げる燈のすんすんと匂いを嗅いだ。


曙光しょこうなりや……? おお、天照。何処や何処、神漏岐は何処なりや》


 血の涙を流し続けるその災禍の瞳が、燈を射抜く。

 のしかかる重圧と神威で、声を出すことができない燈。

 答えぬ燈に鬼神は首を傾げて、もう一度匂いを嗅いだ。


《否、否。天照たがふや、汝、息子ねつぎだい


 自我の失われた鬼神とって、それは何の意味もない行動であった。

 かつての善神であった己が抱いた強烈な願い、その残り香に従ってただ本能のままに動き回っている。

 燈に近づいたのも、自身にとって近しい存在――天照大御神いもうとに似た気配を感じたから無意識に惹かれたに過ぎない。

 善神であったときならいざ知らず、堕ちて穢れた鬼神は理由なき暴威の化身である。


「――ぎっ」


 反射だった。

 咄嗟に腕を交差させて防御姿勢を取ったが、防御の上から蹴り飛ばされる。

 重すぎる。蹴とばされたというよりは、超至近距離で戦車砲を受けたような感じだった。

 建物をいくつもぶち抜いて、ようやく止まる。

 両腕が痺れて震えが収まらない。


「アータ――ゔっ!」


 横から気配を感じ、確認するよりも早く火焔を放とうおとするが、鬼神の拳が脇腹を抉って吹き飛ばした。

 衝撃波ソニックブームを撒き散らしながら、錐揉み回転して数十メートル先の建物へ打ち付けられる。


「ごほこほ……ごっ」


 特大の紅い塊が、口から飛び出た。

 控えめに言っても致命傷だ。

 肋骨は半分以上折れ、両腕には罅が入り、脇腹に至っては拳一つ分削り飛ばされた。

 地面に鮮やかな血の池が色がっていく。

 超越的な魔人の肉体をもってしても、防ぎようのない理不尽。

 こんなのが昔には八百万やおよろずほどもいたというのだから、笑うことしかできないだろう。


《踊れや踊れ、まつりゃんせ》


 どこまでも広がる赤い池の水を踏みしみて、鬼神は意味のない言葉を発しながら近付く。

 鬼神は矮小なる人間の首を持ち上げた。

 首から黄泉の穢れが浸食していく。

 それが鬼神の異能。

 本来の権能とは真逆の性質を孕んだ、鬼の特性。

 この穢れに侵されたものは、一秒で数十という病魔に侵さてしまう。

 燈の体も末期癌、アレルギー、悪性腫、脳炎などの疾患が突発的に発症し、機能不全に陥ってしまう。

 耐え難い激痛と苦しみが全身を襲って止まない。

 びちゃびちゃと、宙ぶらりんになった体から血の滝が流れ出る。

 燈は右腕で自分の体に触れた。

 しかし、異能が砕ける確信はなかった。

 大禍津童子の異能は、あくまでも幾千幾万もの病魔を発症させるというものだ。

 発症自体を防ぐことはできても、一度発症したものは消せない。

 なぜなら、発症した病魔自体は異能ではないからである。

 浸食が広がっていく。

 燈はまだ諦めていなかった。


「う……あ……っ」


 ろくに力が入らない腕を振り上げて、大禍津童子を殴りつける。

 猫のそれよりも威力のない拳は、音を立てることすらなかった。


《何処何処、神漏岐は何処》

「ごふっ……!」


 大禍津童子の腕が燈の胸を貫いた。

 腕を引き抜いた大禍津童子は、玩具に飽きた子供ように燈を投げ捨てる。

 派手な音を奏でながら壁に激突し、大量の血を噴き出す。

 立て、立てよ、何してるんだ。立って戦わなければ。

 胸の内で言葉を繰り返すが、体に力が入らない。

 視界の端が暗くなってきた。

 そのときだった。


 ――もう、立たなくてもいいんですよ?


 誰かの言葉が聞こえた。

 燈はその陽だまりのような暖かい声に、首を振る。


 ――なんでそこまで頑張るんですか?


 会いたい人がいる。


 ――そんなに大切な人なんですか?


 うん、多分、この世界で一番。

 そう答えると、なぜだか声は一瞬だけ気恥ずかしそうに戸惑って、でもはにかむように続けた。


 ――その人が、人を食べていたような怪物だったとしてもですか?


 人を殺して、それを食す。確かに許されないことをしたのだろう。

 でもそれを後悔できる心を持った子だった。

 最初は怪物だったのかもしれないが、最後の最後で人間になったのだ。

 人間は悪いことをしたら謝る生き物だ。謝ることのできる生き物なのだ。

 もし彼女が自身のしたことを悔いて、反省をしているのなら、たとえ許されなかったとしても、一生をかけて償えばいい。

 自分もその隣で、一緒に謝り続けるから。


 ――……っ。貴方は優しいんですね。


 優しい、のだろうか。それはわからないが、彼女が行方不明になったときに気付いたことがあるのだ。


 ――気付いた、ことですか。


 燈は首を縦に振る。

 いつものようにおはようって言って、また楽しく話して、一緒に過ごす何気ない時間。

 そんな単純で当たり前だったことが、燈にとって何よりも大事で大切だから。

 その一番見失いがちなありふれた日常を、もう一度――君と送りたいんだ。

 言い切って、燈は自分を見つめる春の陽だまりのような少女を見返した。


 ――それが、燈くんの“願い”なんですね。


 はっきりと頷き返す。

 ああ、なら仕方ないですね、と春陽は諦めたように笑った。


 ――今度からは、私も一緒です。


 それは今際の際でみた幻影だったのか、燈には分からないが。

 でも確かにもう一度、彼女に会えた、そんな気がして――


 刹那――燈の体の奥底に火が灯る。


 暖かい、どこまでも世界を包む日輪のともしび

 魂の深奥、聖遺物の中に取り込まれ眠っていた彼女の鼓動ねつを感じた。


《――?》


 鬼神は振り返る。

 そこには、今しがた自分が壊したはずのにんげんが立っていた。


 は灯る。日輪は巡る。人は理を歩き、生と死の流転をもって星をまわす。


「――開闢せよ、新世界フラシェギルド。我が名は“火を識る者ツァラトゥストラ”」


 世界が加速する。

 聖句を唱える際に発生する特異現象。

 自分の意識だけが、時間から切り離されて独立する。


「かの楽土を光明で満たそう。意志をもって世を創り、願いをもって共に歩む輝き。星の理を見よ、其は蛇を砕く無辺の光。闇を祓い、深淵に牙を突き立てるもの。大いなる火の守人にして、空より零れ落ちた日輪のかけら。――生命いのちを廻せ、灰のわだちを刻め、火を絶やさぬものよ。汝、日輪を背負う者!」


 唱えたるは完全なる聖句。

 永き眠りより目覚めし、覇者の円環。


「――『開闢なりし劫火の光輪ウィザーシュ・クワルナフ』」


 終末の理が産声を上げた。


《――!》


 鬼神は本能から距離を取った。

 ソレが自分を殺せるものだと理解したからだ。

 完全覚醒を遂げた燈の聖遺物、流れ込む記憶がその名を告げる。

 開闢の光輪クワルナフ――かつて絶対悪の眷属だった最凶の蛇龍アジ・ダハーカと、火と戦士の神アータルが戦う原因となった聖遺物。

 この光輪を手にしたものは地上の全てを支配できると謳われ、覇者の円環とも呼ばれるに至った最高神の神器。

 燈は数多の病魔で侵された肉体を無理矢理動かし、大禍津童子に肉薄する。


現世うつしよ生出あれいでめぐしき児等こらよ、黄泉の穢れぞ神漏美かむろみの愛なれば》


 病魔の瘴気を全力で放ちながら、大禍津童子は迫る燈を迎え撃つ。

 勝負は一瞬。決着はただの一撃のみで決まるだろう。

 燈にはもう体力など残されていないし、運よく動けたとしても仕損じれば大禍津童子が今度こそ息の根を止めに来る。

 だから、この一撃こそが勝負だった。


「うぉぉぉおおおおおおおおおお――!」

《祀れや祀れ、かしこみ畏み申ぉぉおおおおす!》


 光輪が激しく鳴動する。

 燈の極黒の腕と、黄泉の瘴気を纏う鬼神の豪腕が世界の終りのような大轟音を立ててぶつかり合う。

 空間が悲鳴を上げた。世界が金切り声を発して、衝撃は周囲一キロの建造物全てを消し飛ばす。

 燈は勘違いをしていた。それは燈だけでなく、あのアーサーとヒルメも同じだ。

 気付いていたのはただ一人、ヴァルゼナードだけ。

 燈の持つ『開闢の光輪』とは、世界を終わらせる『終末』の概念を孕んだ、拝火の神々ゾロアスター終末論アポカリプスそのものでもある。

 すなわち破壊の概念ではなく――概念の破壊こそが、本質なのだ。

 黄泉の瘴気は終末の力によって砕け散る。


《お、おぉぉぉおおおおおおお!》


 かつて神だった鬼の断末魔。

 天地を揺るがせてなお留まるところを知らぬ叫び声は、鬼神の悲しみであった。


「砕けろぉおおおおおお!」


 魂からの叫びでもって、招来した鬼神の慟哭鎮めんと拳を振るう。

 世界を包む閃光が、勝負の決着を告げる。

 空高く舞い上げられた砂塵と瓦礫の雨が止む。


 地に伏していたのは――燈だった。


「――っ……っ!」


 溜まっていた血を吐き出す。

 視線を上にあげると、体の六割を消し飛ばされた大禍津童子がそこに立っていた。

 仕留めそこなった。

 最後の最後で、体に巣くう病魔が燈の力を奪い取っていった。

 もう完全に力は残っていない。

 この勝負は、燈の負けだった。


《おお、おおおお。祀れや祀れ、踊りゃんせぇええええ!》


 鬼神は体を吹き飛ばされているにも関わらず、満足げに哄笑した。

 そして、己に抗っていた愚かな人間を嗤うように拳を振り上げ――


「そこは大人しく花を持たせてやるのが、強者の務めというモノだ、鬼神」


 飛来した光輝を纏う黒剣が、大禍津童子の頭を消し飛ばした。

 大禍津童子の肉体が目の前で倒れ伏し、黒い粒子となって消えていく。

 地面に突き刺さる、大禍津童子の頭を吹き飛ばした剣――朽ちること無き黒剣カレトヴルッフ

 燈はその剣を知っている。


「……あ……さぁ……」


 視線を剣が飛んできた方向に向けると、そこには気を失う刀耶と天華を担いだ黄金の剣王がいた。


「うむ、余だ! 此度の戦い、見事であった! オレはますますお前が欲しくなったぞ!」


 大口を開けてくははは! と笑うアーサーの声を聞きながら、燈は意識を落とした。


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