第17話 純然たる悪意 5-2


 雅を除いた一同が息を呑んだ。

 それもそのはずだ。

 神代が終焉を告げ、世界に寄り添っていた神仏はそれぞれの領域たる神界エリュシオンへ還った。

 神秘なき世界に幻想の居場所はなく、それでも残ろうとすれば世界の起こす拒絶反応で何が起こるか分かったものではないからだ。

 しかし幻獣同様に何かしらの出来事を切っ掛けとして、神が再び世界に降りることもないではない。

 身近な例でいえば、戦旗副支部長であるヒルメがそうだろう。

 日本における大神である天照大御神が、神格を封印して地上に降臨した姿である。

 神がそのまま神として地上に出現してしまうと、そこにいるだけで何かしらの異変を世界に齎してしまうのだ。それはときに幸を運ぶものかもしれないし、はたまた天災の類かもしれない。

 確かなことは人の身には余る事象を、神々は無意識に起こしてしまうのだ。

 だからこそヒルメは人の世を思い、自身の神格を封印して地上に降りてきた。

 雅の見立てでは、天子は恐らくそれと同様の存在。

 それを肯定するように、天を仰ぎながら天子は哄笑を響かせた。


『キヒ、ヒヒ、ヒハハハハハ! 人間の小娘、貴様、特別な眼を持っているな! よく見抜いた。褒美だ、僕の名を聞かせてやろう』


 腹を抱えて笑う天子は、目元の涙を拭う。

 そして天子は演出家じみた一拍の間を置き、両手を広げる。


『――アカ=マナフだ。以後見知りおけよ、人間』


 天子――アカ=マナフは子供の表情をくしゃくしゃに歪めて嗤った。

 刹那、燈の脳内に一つの記憶と知識が流れ込む。

 善行を記し裁きを下す神と、その敵対神である暗闇の神。

 純然たる悪意アカ=マナフ――古代ペルシャにおいて、ゾロアスター神話に名を連ねるその存在は、人々の理性を奪い取り、善悪を狂わせる誘いと破滅の悪神にして、理由なき悪意だ。

 戯れに人を唆し、思い付きで受難と災いを振りまく絶対悪の眷属ダエーワ

 なるほど、合点がいった。

 始まりの夜の狂騒も、この街の惨状も、全てアカ=マナフのもつ善悪を狂わせる力によるものだ。


『聖遺物との同調。僕の名を知ったことで、反応したか。……それで、何か見えたか? 光輪の担い手』


 アカ=マナフは燈の様子に気付いて、笑みを浮かべた。

 燈の中で自然と織り込まれる知識に、燈の警戒心は極限まで高まる。


「その様子からして、ヤバイ相手のようですね」


 燈の表情から読み取った雅は、面倒な事態に嘆息する。


「新人、その一般人をよこしなさい。連れて離脱します」

「うん、ありがとう。雅ちゃん先輩」

「貸し一つです。それと、お前のおばあさまも、先ほど保護しています」

「っ!」


 雅は魔人特有の膂力で綾乃を小脇に抱えると、空高く飛翔する。

 聞いた話では雅はもともと戦闘を得意とするタイプではないらしい。

 当たりはキツイが、なんだかんだいって雅は面倒見のいい性格だと知っている。

 だからこそ、燈の後顧の憂いを断つために動いてくれているのだろう。

 胸の中にあったもう一つの不安が取り除かれて、代わりに全身に闘志が横溢する。


「おっと、させねーよ」


 雅を打ち落とそうと伸びる黒樹を、刀耶は血刃で全て裁断する。


『あーあ、残念、逃がしちゃったか』


 重みのない言葉でにやつくアカ=マナフを、燈は黒く燃える瞳で捉える。

 悪辣極まる神の視線が、下の人間に落とされる。

 呼応すように、呪詛の塊である黒樹は次々と根を生やしていく。

 地上の魔界ゲヘナ化が加速する。

 建物が崩壊する音と我を失う民衆の慟哭だけが響く世界で、先陣を切って天を疾駆はしったのは――夜の君主だった。

 一番槍という言葉を全身で体現する刀耶は、右に血槍を構え渇く一条の流星となって、穂先を噛みの喉元へ突き立てる。

 しかし夜の君主の刃は、分厚く堅い魔界の樹によって防がれた。


「あ?」


 だけでなく、血槍を受け止めた黒樹は、それが血液でできていると分かると、喜びに悶えて表面から吸い上げた。


「か! 吸血鬼オレを差し置いて血を吸うたあ、植物の癖にいい度胸じゃねえか!」


 植物内に吸収された血液は、まだ完全に制御下から離れたわけではなく、刀耶は吸われたことを利用して血液を操作し、内側から棘を生やして爆発させた。

 アカ=マナフは飛び散る木片を片手で払い落とす。


「らあああ!」


 気勢一喝、木片と血煙の中から飛び出したのは、陽炎の如く大気を歪ませるほどの闘志を纏った燈。

 地殻変動を容易に齎す理外の膂力を、大気を破裂させてながら振り下ろす。

 当たれば必死、掠めても致命。

 まさしく魔拳の一打を、間一髪でアカ=マナフは避ける。

 必殺を込めた拳は空を切るが、燈は構うことなく破壊宿す一撃を、アカ=マナフが足場としていた巨大な黒樹へとぶつけた。

 異能を砕く力が、命啜る魔樹を破壊する。

 豪快な音を立てながら足場が崩壊し、燈、刀耶、アカ=マナフは宙へと放り出される。


 刀耶は一人、背中から翼を生やすことで機動力を確保し、同時に空中に無数の鮮血武装を展開した。

 燈は空中で姿勢制御を行うと、鮮血武装を足場にしてアカ=マナフへ飛び掛かる。

 超人的なバランス感覚と身体性能。人の身を逸脱して僅か一週間と少しという僅かな時間で、燈は体の動かし方を覚えつつあった。

 訓練の賜物とは違う、いわば鉄火場で鍛えられた実戦での経験。

 死に物狂いでアーサーと戦いで身に付けた、基本骨子。


 射出される血の砲撃と燈の近接攻撃を、アカ=マナフは瀬戸際で捌いていく。

 聖遺物との同調で読み込まれた知識では、アカ=マナフはもともと戦闘を得意とする神ではない。本質はあくまで破滅と誘惑だ。

 不特定多数の人間に対しては無類の強さと厄介さを持つが、強烈な存在である魔人と真っ向から対峙できるような力はない。

 それを証明するように、段々とアカ=マナフは追い詰められている。

 地面に着くまでの約数秒間、十秒にも満たない中で数十に近い攻防が繰り広げられた。


 宙に散る火花は、一つ一つが一瞬の死を弾けさせている命の残光だ。

 劇的なまでに美しく、激烈なまでに冷たい死の花弁。

 空中戦の結果は五分、アカ=マナフが神としての意地を見せたといっていいだろう。

 裁きと審判の神の敵対者、その名は伊達ではないということだろう。

 戦闘技巧は持ち合わせずとも、最低限の戦闘力は持ち合わせている。

 善と悪が無限に殺し合う二元論世界ゾロアスターでは、この戦闘力こそが最低限デフォルトだった。

 そして、局面が膠着へ移行しようとした次の瞬間、剣聖は必殺の予兆を見出す。


「――シッ」


 それまで気配を極限まで薄め気を窺っていた天華は、背後を取り首を定めて一文字を放つ。


 ――銀光の閃き。


 黒騎士との戦闘でさらに磨かれ、一段上の次元へと至った一刀。


『はは、危な――っ!』


 余裕を持っていたアカ=マナフの顔が、僅かに驚愕する。

 もとより、天華は一太刀で首が取れるとは思っていない。

 だから最初に放った斬撃に合わせ、一太刀、不可視にして不可避の斬撃を潜ませていた。

 すなわち、因果の強制による絶対切断。

 狙いは初太刀同様に首。しかし、神格が弱まっているとはいえ、神は神である。

 今の天華では神の因果を完全に捉えることはできず、結果として切断したのはアカ=マナフの腕。

 だが狙いは逸れたが、確かに神の玉体に傷を与えた。


『あーあ、切っちゃったね、僕の腕。どうなっても知らないよ?』


 腕から絶えず血を流すアカ=マナフから、余裕が崩れることはなかった。

 嫌な予感が駆け抜ける。

 燈よりも先に動いたのは、コンマ速く危険を嗅ぎ取った天華だった。

 発動する因果の強制、しかしアカ=マナフは天華の因果律干渉を抵抗レジストし、またも狙いを首から胴へ逸らした。

 噴き出る血――次の瞬間、アカ=マナフより流れ出た血は、冒涜の生命を産み落とした。


《GYAAOOOOOO――!》


 冒涜の咆哮が上がった。

 産み落とされた獣や虫。その数――百数匹。

 直後、ゾクッと悪寒が背筋を舐めた。

 肌で理解した。

 この大小様々な数百匹の生命は、もれなく全てが――幻獣。

 怪物の宴モンスターパレード。アカ=マナフの余裕の正体はこれだった。


『蛇の血。本当は使う気はなかったんだけどね』


 ケラケラと軽薄な笑みを絶やさないアカ=マナフ。


「これはちょっと、まずいわね」

「天華さんに同意だ」


 一体でさえ都市を容易に滅ぼし得る神代の生物が、この不破奈市だけで百を超す数現れてしまった。

 初めてみた幻獣である鵺は、いとも容易きアーサーによって消し炭にされたが、あれだって燈がまともに戦って勝てるかどうかという相手なのだ。

 逆を行ってしまえばそんな怪物を歯牙にもかけないアーサーが、それだけ規格外とも言えるのだが、とどのつまるところ形勢が逆転された。


「狗凪くん、天華さん、幻獣をお願いできますか」


 切り出したのは、燈だった。

 二人が燈の方を向いて、ふっと笑みを浮かべた。


「いいぜ、ぶっ飛ばしてきな!」

「ふふ、他は私たちにまかせなさい」


 燈の視線は先にいるアカ=マナフから逸れることはなく。だからこそ、燈のあの神に対する気持ちを察してくれたのだろう。


「ありがとうございます」

「ふふ、はじめての我侭ね」


 天華は口元を抑えて微笑んだ。


「燈、必ず倒してきなさい」


 この美しい銀灰の剣聖との初めての邂逅、そのときに吐き出した万感の思い。

 それを直接ぶつけた相手が天華だったから、燈は自分に向けられたその言葉の裏に、特別な意味があると分かった。

 燈が頷くと、二人は幻獣のほうへ駆け出した。


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