第16話 純然たる悪意 5-1


 国会議事堂のはるか地下、戦旗日本支部基地総司令室。

 現代的な科学技術のみでなく、古今東西あらゆる魔術を組み込んで造られた特殊な計器や観測機が多く備わったこの空間は、現代における神秘現象を逃すことなく捕捉することができる。

 天網恢恢てんもうかいかい、まさしく戦旗の眼とも言えるこの場所は――現在、不測の事態に見舞われていた。


不破奈ふわな市全域で規定値を超える魔力反応、以前増大中!」

「それに伴って神秘も爆発的に上がっています、神代末期レベルです!」

「このままでは幻獣が降りてきてしまいます!」

「楸天華、並びに狗凪刀耶、伊佐那雅三名が急行中!」


 モニターやアラートが異常事態を知らせる。

 異常事態の発生地は、不破奈市。

 燈の住んでいる町だった。

 忙しなく動き対応に追われる司令室で、ヴァルゼナードは総司令席に鎮座しながら、冷静に状況を分析する。


「これはやはり、天子とやらの仕業でしょうか」


 ヴァルゼナードを見ることなく言葉を投げたのは、隣に立つヒルメだった。


「だろうな」


 足を組んで頬杖を突きながら、ヴァルゼナードは確信をもって返す。

 数年前、日本に突如として出現した傍迷惑な愉快犯。

 その幼子のような容姿をした何者かは、己を天子と自称し、日本だけでなく世界各地で事件を起こしていた。

 目的も不明、手段も起こす事件も不規則であり、何がしたのか全く分からない存在で、戦旗のみならずあらゆる組織から狙われている。

 目的が分からないことからただの愉快犯と思われているが、ヴァルゼナードだけは一人、別の視座をもって疑っていた。


「天子は何のためにこんなことを……?」

「儀式の一環であろう」

「儀式ですか?」


 ああ、とヴァルゼナードは退屈そうに返す。

 そのとき、一人の職員が声を上げる。


「――これはっ!」


 ヴァルゼナードが声をかけると、慌てて報告をする。


「『レプリカント天網の御座フリズスキャルブ』が剣王アーサーの動きを捕捉、不破奈市へ向かっています!」

「ほう、やはりか」

「知っていたのですか?」

「ある程度の予想はしていた」

「ご教授願いたいものですね、ヴァルゼナード。お前、何が見えているのです?」

「すぐに分かる」


 訝しげに問うヒルメに曖昧な言葉を返し、ヴァルゼナードはモニターに映し出された映像に視線を固定する。

 その表情からは感情を窺い知ることはできない。

 ただ黄昏色の破滅を宿す瞳が、この行く末を見定める。


「さあ、魅せてみろ枢摩燈。お前の価値を試すときだ」



 紫色に染まる世界と、気を失って倒れる人々、地面には葉脈のような根が伸びていて、不破奈市全てが魔界然とした有様だった。

 さらに地獄を加速させているのは、意識を取り戻した人々が嬉々として殺し合う気の狂った光景。

 燈は知っている。この光景を。

 狂気に落ちた民衆の饗宴きょうえん、邪悪と禁忌と汚泥おでいの賛歌。

 かつて神の子は隣人を愛することを人々に教え、その尊さを教示した。しかし、これはその真逆。


 汝、隣人を犯せよ。

 狂気に濡れろ。耽溺に浸れ。悪辣に溺れて、堕落のままに貪れ――。


 これは人の内に潜在する生まれ持った狂気、理性の楔によって忌避され排除されるはずの、種としての破綻した衝動、それを顕在けんざい化させているのだ。

 理性を蒸発させる――無道むどう抱擁ほうよう


「くっ」


 狂乱の暴徒たち縫うようにして、燈は街中を駆ける。

 聖遺物を発現させている両腕は、極黒に染まっている。

 背には、未だ気を失う綾乃が背負われていた。

 少しでも遠く、安全な場所へ。

 魔界と化した不破奈市を風となって走る。

 そのときだった。


「須藤、くん……?」


 燈の前に現れたのは、理性を失い暴徒化した須藤だった。


「ああ、痒い、痒い、痒いよおおおおお! 飲ませて、目玉をだべさせろおお」


 蒸発した理性は、支離滅裂な言葉を羅列する。

 両腕には取り巻きだった二人の人間の残骸が握られていた。

 殺したのだろう。殺して、その死体を貪り食らった。

 証拠に、瘦せぎすの男だった肉塊は、顔の皮膚が下の肉ごと食いちぎられて、赤く艶めかしい筋肉が剥き出しになっていた。


「よこせ、よこせ、よこせよこせよこせよおおおお!」


 襲い来る須藤を殴り飛ばす。

 だが知り合いだったからか無意識に手加減をしてしまったようで、須藤は起き上がる。


「……っ、く、枢摩? て、てめえ」


 燈の右腕に殴られたからだろうか、失われていた理性が僅かに戻る。


「な、なんだてめえら、来んな、来んな、くんなって言ってんだろおお!」


 しかしそれも一瞬のことで、悲鳴と恐怖を上げながら他の暴徒に体を齧られる須藤は、再び狂気の谷に陥る。

 燈は理解する。この狂気は伝染病のようになっている。

 燈の聖遺物で狂気を無効化しても、触り続けなければ意味がない。

 それはつまるところ、燈がこの地獄から守れるのは綾乃一人だけという事実だった。

 その様は、まるですだくく虫の共食いだった。

 立ち上がった須藤に暴徒が群がって、呻きと怒声と狂気をい交ぜに、動くものがいなくなるまで喰らい合う。

 吐き気を催す光景だった。

 イジメられていたとはいえ、知り合いが狂気に呑まれていく様は、気分のいいものではない。

 顰めた顔を背け、燈は駆け出す。

 瞬間、


『どこに行くんだい?』


 脳内に反響する不快な声。

 吐き気と嫌悪感、そしてそれ以上の怒りが瞬時に湧き上がる。

 燈はどこからともなく現れた天子を、殺意の眼差しで睨み付けた。


「天子」

『睨まないでよ、怖いでしょ。娘のボーイフレンドに挨拶しに来ただけだよ』


 ケラケラと笑う姿は年相応で、けれど隠し切れない悪性が滲み出ている。


『それで、その子は何? もしかして浮気? いけないなあ、我が娘が悲しむよ。まだ生きてんだろ、春陽おもちゃは』

「お前っ!」


 いちいち神経を逆なでする言い回しは、わざとらしさとは無縁で、どこまでも素なのだと理解させられる。

 ただ生きているだけで、天子は人の悪意や敵意といった負の感情を沸かせるのだ。


『どう思うんだろうねえ、自分が瀕死の中、思い人は他の女を作ってよろしくやってるなんてさ。あ、いけない、そもそもあの玩具には憤る資格なんてなかったか。だって君といたいがためだけに、人を殺して食っていたような化け物だもんな!』

「っっ……!」


 何が楽しいのか、あちゃーっと自分の額を掌で叩いておちゃらける天子。

 ぎちぎちと砕けそうになるぐらいに歯を食いしばり、怒りを抑える。

 そうさせていたのは他ならぬ天子であるのに、まるで他人事のような口ぶりに、激情が胸を支配する。


『だがそれでも愛そう。なぜなら僕は父親、だからね。娘の恋路を応援するよ』


 直後、背後から地面を何かが這い出る気配を感じ、反射的に振り向く。

 アスファルトを食い破って出てきたのは、黒い木の根。

 根は意志を持った触手のように身をしならせて、燈ごと綾乃を貪ろうと伸びる。

 人の血を己が命の糧として成長する、魔界の植物。

 ひとたび搦め捕られれば皮と骨になるまで、体内の全ての水分を吸われてしまうだろう。

 だがその程度の攻撃なぞ、アーサーの攻撃に比べれば児戯に等しく、避けることなぞ今の燈には造作もない。


『はは、避ける避ける。んー、恵みたる自然カルシュワル――本来は僕の権能ではないとはいえ、こうも性能が落ちるとは。うーん、やっぱり焦って儀式を行ったのが失敗かな。いやはや、戯れに人形に自我なんて持たせるものじゃないなあ』


 踊るように避ける燈の姿を楽しみながら、天子は自身の力について落胆の声を舌に乗せる。

 一方で燈は焦りを感じていた。

 いたちごっこ、千日手、堂々巡り、言い方はなんでもいいが、現状打つ手のない燈は防戦を強いられている。

 今はまだ余力があるからいいが、守らなければならない存在がいる状況では、体力以上に精神的消耗がでかい燈の方が圧倒的な不利だ。

 防御を捨てて一気に攻勢に出たいところだが、さっきも言ったように綾乃を抱えた状態では難しい。

 この場を離れて離脱したいが、天子がそれを許すとは思えない。

 否応なしに、燈はこの均衡を維持せざるを得ないのだ。


「……っ……ん」


 タイミング悪く、後ろでは綾乃が意識を取り戻してしまったようだ。

 燈が異能を無効化する両腕で触れている以上、狂気の徒となることはないが、できれば眠ったままで欲しかった。


「あか、り……っ? なに、これ……!」

「ごめん、説明は後!」


 綾乃が動揺に目を見開く中、燈は冷や汗を流す。

 急に黒樹がその勢いを上げたのだ。


「きゃっ!」


 綾乃の小さな悲鳴。

 黒樹が燈の右頬の薄皮を一枚、切り裂いた。

 どうして急にと原因を探って、すぐさま判明した。

 地面からうねって出でる黒樹は、燈だけでなく周囲にいた狂乱の暴徒を無差別に食らっている。

 燈という極上の餌を前に、業を煮やして周囲の残飯にありついたのだ。

 激しさを増す局面は――突如として、趨勢を決する。


「なっ」


 周囲にある無数の残飯を食し、性能を何段階も飛躍させた黒樹は、ついに燈の反応速度を超えるスピードで足を絡めとった。

 人の血肉だけでなく、魂すらも食い散らかして己の糧とする黒樹は、悪食にして満たされることのない飢餓の植物だ。

 燈を食らいたいという執念だけで、若輩の魔人を凌駕したのだ。


「……っ、燈っ……!」

「東條さん!?」


 今の主の意を汲んだ黒樹は綾乃は燈から離し、天子のもとへと投げ飛ばした。


『はは、うわあ美人だねこの子』


 視界の先、綾乃を傍らで浮かしながら天子は愉悦に顔色を染めていた。


「返せっ!」

『いやだよ』


 地面を陥没させ、足を縛っていた黒樹ごと吹き飛ばす踏み込みは、しかし天子に届くことなく、地面から這い出た黒樹に阻止された。

 根が燈の体に絡みつき、その動きを封じる。

 魔人の力でも振り切ることのできない黒樹の根は、あきらかに最初とは違う凶悪なものになっている。

 力任せでは意味がないと理解した燈は、黒腕で根に触れる。

 すると狙い通りに砕いた確信が掌に伝わり、根は灰となって散っていく。

 燈の腕に宿る異能を砕く力は、やはり天子であっても通用する。

 聖句を得て、より聖遺物を理解した燈だからこそ、己の両腕には危機を打破する力があると知っていた。


『ははは! 僕が目覚めさせたとは言え、やはりそのの力は確かだな!』

「あぐ、ぁ……!」


 宙に磔にされる綾乃が、苦悶の息を吐き出す。


『ふふ、この娘をここで殺せば、パパ大好きってあの人形は喜んでくれるかな?』


 子供無邪気を貼り付けたナニカが、悪意に笑う。

 燈の脳裏に沸き立つのは、悲劇の夜の恐怖きおく

 また、失う。目の前で、助けられる距離で、手を伸ばせば届く場所で、何もできずに。

 激しい動悸が、酷く凍てる汗を噴出させた。

 天子の手がおもむろに延びていく。


「やめろ」


 影さえも置き去りにする速度で駆け出す。

 しかし、伸びる無数の黒樹が燈を阻む。

 させない、絶対に死なせない。

 だが決意空しく、砕いても砕いても端から黒樹は燈を覆っていく。


「東條さん!」

『キヒヒヒ、お休みの時間だ』


 天子の手が綾乃に触れようとした次の瞬間、


「――なんとか、間に合ったみたいね」


 悪意を断つ斬光が、天子の腕を斬り飛ばした。

 目を見開いて、靡く銀灰の髪を見つめる。


「天華、さん……」

「だけじゃないわよ?」


 燈に愛らしくウィンクを返すと、次に現れたのは蝙蝠の群れだ。


『――っ』


 襲い来る蝙蝠の群れに、天子は黒樹に乗って距離を取る。

 血染めの魔界に響く夜の眷属の羽ばたき。

 それらは燈の前で群がると、やがて人の価値をなして現れる。


「悪りぃ、遅れた!」


 祖なる吸血鬼は、その腕に再び意識を失った綾乃を抱えて、燈に笑みを向けた。

 燈は刀耶から綾乃を受け取ると、大きな怪我がないことを知って、安堵する。


「いつもボロボロですね、新人は。ほら、情けない顔をしない」

「雅ちゃん先輩まで!」

「ええ、仕方ないから駆けつけてあげましたよ」


 二人に続く形で最後に姿を見せたのは、魔術で宙に浮かぶ年下の先輩だった。

 燈が縁を結んだ三人の魔人が、既に臨戦態勢を整えて馳せ参じる。

 三人は燈の無事を確認すると、すぐさま視線を黒樹に鎮座する天子に向けた。


「あれが天子、最優先討伐対象」

「け、いけすかねえ」

「同感ですね」


 駆け付けた三人は初めて見る天子の姿、不快感を示す。

 見ているだけで人の持つ負の感情を沸かせる存在感は、天子に根ざす習性のようなものだ。

 自分でどうこうできる話ではないし、それが当たり前だからしようとも思わない。むしろ嬉々として周囲に振りまく害悪ですらある。

 けれど一人、雅だけは一層に深く嫌悪感を露わにしていた。


「なにより気に入らないのは、アレが人間気取ってるところですよ」

「どういうこと、雅」


 問う天華に、あっけらかんと雅は真実を告げる。


「――アレ、神仏の類ですよ。それも相当に質の悪いタイプの。なぜだが神格は弱まっていますが」

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