第5話 世界の裏側で 2-1


 その日の目覚めは、燈のこれまでの人生で最悪のものだった。


「うっ」


 全身を針で刺されたかのような鋭い痛みで、燈の意識は覚醒した。

 ぼやける視界に最初に映ったのは、真っ白な天井。

 上体を起こし目をこすると、燈は自分が患者服を着ていることに気が付いた。


「病院……?」


 埃一つない白一色の空間に、整えられた簡素なベッドと花瓶の置かれた小さな机。その上には小型テレビが置いてある。

 他にめぼしいものはなく、燈が病室と勘違いしていしまうのも無理はなかった。

 しかし部屋に入ってきた人影が、それを否定する。


「残念ながら違うよ」


 扉に視線を向けると、銀灰の美女が立っていた。

 記憶が蘇る。

 狂騒と生贄の夜、常軌を逸した現象の数々。

 そして大切な少女のねつが消えていく感覚を、鮮明に思い出す。


「マリアが治療を施したとはいえ、もう動け」

「春陽ちゃんは、春陽ちゃんはどこですか!?」

「真っ先にそれを聞くなんて、ふふ、よっぽど大切なのね」


 警戒をむき出しにする燈に、くすっと銀灰の美女が顔をほころばせた。

 誰もが見惚れるほどの微笑。

 しかし、相手は春陽の首を斬り飛ばそうとした危険人物だ。

 気を許してはならない。

 もし春陽の遺体に何かをしていたなら、そのときは……。

 無意識のうちに、燈は拳を握っていた。


「仮に私があの少女の居場所を知っていたとして、君はどうするの?」

「連れて帰ります。連れて帰って、彼女に相応しい場所で弔ってあげたい」

「それはまあ、なんとも見上げたものね。んー、うん! 言っても聞かないだろうし、その覚悟を評して、連れて行ってあげましょう」


 逡巡のあと、付いてきて、と銀灰の美女は部屋の外へと出ていく。

 数秒の躊躇いがあったが、どっちにしろ生殺与奪はあちらに握られているのだ。

 最初からその気なら、治療なんて施しはしないだろうと結論を下して、燈は後を追う。


「そういえば、まだ名乗っていなかったわね。楸天華ひさぎてんかよ、天華でいいわ。よろしくね」


 前を歩く銀灰の美女――天華は、顔だけ振り返って愛らしく笑った。


「枢摩燈……です」

「そう。じゃ燈、って呼ばせてもらうわね。それじゃあ燈、昨日のこと、どこまで覚えてる?」

「……ほとんどは。地下であったこと、貴方と出会ったこと」


 脳裏にこびり付く拭い難い悍ましい光景。

 狂気に身を浸した人間の理性無き蛮行は、人という種の尊厳を貶めていた。

 今でも思い出すたびに吐き気を催す。


「そう。なら説明の必要はない、かな。……何か質問したいって顔ね」

「いいんですか?」

「なんでもは答えられないけれどね」


 付いてこいなんていうものだから、てっきり問答無用だと思っていたが、どうやら一応の発言権は与えられるらしい。

 なら真っ先に聞くことは決まっていた。


「あ、ちなみに女の子のことなら、まだ何もしてないって言っておくわ。ある場所に運びはしたけど、他に燈が怒るようなことは何も」


 だから安心してと、燈が口を開くよりも先に天華は伝えた。

 天華は、燈の中にある優先順位を明確に把握しているようだった。

 それが少しむず痒く思え、思わずうっと気恥ずかしくなる。


「……それじゃあ貴方は、いえ、貴方たちは何なんですか?」


 一番の懸念点が解消された燈は、次点で最も気になることを問いかけた。

 貴方、ではなく貴方たち。

 そう言い直したのは、彼女――天華が個人ではなく組織という大きな枠組みで動いていると考えたからだ。

 一つ、このような大仰な建物を個人で管理しているとは思えないこと。

 二つ、先ほど目覚めたときに出た『マリア』という単語、天華の言い方からして個人名であることは間違いないだろうし、その時点で同僚や仲間、あるいは協力者がいることは確定的だ。

 他にも細々と気になる点はあるが、大きな要因は主にその二点だった。

 間違っている可能もあったが、燈の考えを肯定したのは、少し驚いた顔の天華だった。


「意外と鋭いのね~。ふふ、そうね、燈はオカルトとかって信じるタイプ?」

「信じていません……でした」


 そう信じていなかった、昨日の光景を見るまでは。

 燈の言葉を察して、天華は苦笑いをした。


「魔術、伝承、神話。あるいは神や幻獣などの、人の世において空想おとぎとされている神秘の存在。それらはね、実在するの。いや、神や幻獣に限って言うなら――していた、かな」


 含みなく、まるで昔話でも語るような丁寧な声。

 常人が聞けば漫画の読みすぎだとか、オカルトマニアだと一笑に付されてしまう話。

 しかし、昨日の夜を乗り越えた燈だからこそ、馬鹿馬鹿しいと茶化すことはできなかった。


「表の世界において徹底的に排除された神秘は、けれでも未だに存在している」


 天華は一拍間をおいて、


「――聖遺物。そう呼ばれるそれらは様々な形をしていて、ときに武器であったり、植物であったり、動物の姿を象ることもある」


 燈はなんとなく、予想がついた。


「昨日の光の輪……?」


 自然と口から洩れた声に、天華は頷いた。


「そう、神代から存在し続ける現代における最大の神秘」

「……神秘」

「うん。燈、君は昨夜、聖遺物それと適合し魔人となったのよ」


 人に繫栄と試練を齎した神々が消えた。

 人を脅かす幻獣が淘汰された。

 科学という人の歩みが神秘を追いやり、そこに棲まう存在の悉くを排除してしまった。

 しかし、あらゆる神秘の住人が姿を隠してしまった現代において、人の世に残り続ける神代の遺産がある。

 現代科学では説明のつかない……否、人の世の理では収まりようのない理外の権能しんぴ

 それと高次元に混ざり合い、適合した者たちのことを魔人と呼ぶ。


「私が何者かって聞いたわね」


 こくりと、燈は頷く。


「秘密結社――『戦旗アルカナム』。聖遺物を集め、管理し、ときに起こる神秘案件を解決する。それが私の所属する組織で、ここはその日本支部の基地よ」


 ――戦旗。

 バチカンの《聖教》が大元に存在する組織の一つで、世界の裏側で暗躍する魔人秘密結社であり、神秘案件と呼ばれる超常現象の鎮静化や聖遺物を悪用する者たちを狩る、世界の調停者バランサー

 天華はそんな戦旗に所属する構成員の一人であり、また魔人であった。


「着いたよ」


 天華が扉の前に立つと、フシューと空気の抜ける音と共に自動で開く。

 中に入ってく天華の後に燈も続いた。


「春陽ちゃん!?」


 無菌室のように真っ白な部屋の中で、春陽はベッドに包まれていた。

 燈は傍に駆け寄る。

 顔が歪んで涙が零れそうになった。

 胸にぽっかりと空いた孔が、少女の死を強烈に伝えてきたからだ。

 穏やかな顔で眠り続ける少女は、まるで一つの絵のようで、残酷なまでに綺麗だった。


「泣きそうな顔ですね、少年」


 声が聞こえた。

 聞こえてきた方向に燈は顔を動かすと、入り口から小さな女の子が姿を現した。


おのこならばシャンとなさい」


 陽光を思わせる金の髪に橙の瞳をした、燈の腰ぐらいの背丈の少女。

 場には似つかわしくないフリフリの、所謂ミニ浴衣を着ている。

 年齢でいえば小学生ぐらいで、高く見積もっても小学校高学年ほどにしか見えない。

 天華を素通りして燈の前に立ったその金髪の少女は、腰に両手を当て仁王立ちをする。


「聞いていますよ、お前のことは。枢摩燈でしたね。我が名はヒルメ、崇め奉ることを許しましょう」

「え、あ、はい?」


 のっけから、見た目に合わぬ口調で尊大に振る舞う少女――ヒルメに、燈は面を食らった。

 すると、くすくすと笑いながら、天華は口を開く。


「ヒルメちゃんは、戦旗日本支部の副支部長。私たちの上司よ。あと本物の神様」

「え、え?」


 情報量の多さに、嚙み砕くまでの時間を少し要する。

 この一見すると迷子にしか見えない女児はここの副支部長で、つまりはこの建物内におけるナンバー2で、おまけに神様らしい。


「まったく、ちゃん付けで呼ぶのはお前だけですよ天華。もっと敬意を払いなさい、敬意を」

「ふふ、はーい」

「はあ、お前はこのようになってはいけませんよ燈。今後、この組織で働く以上、私のことはちゃんと敬いなさい」

「はあ……って、ちょっとまって、働くってどういうことですか!?」


 ヒルメが最後にはなった言葉に、聞き捨てならないと燈は驚く。

 後ろにいた天華を見てみれば、特に動揺した様子はない。

 あらかじめ知っていたのだろうか、であるならば何の説明もないのは不親切と言わざるを得ないだろう。


「ええ、その説明のためにもこうしてお前を呼びに来たのです」

「……聞きたくないんですけど」


 事情を説明しに来たらしいが、聞いてしまえば最後、もう後戻りできないような気がした。

 そもそも天華の説明通りならば、天華を含めこのヒルメの組織は昨日のような危険極まりない場所へ赴くのが当たり前なのだろう。

 いつ命を落とすかもしれない危険なことなど、燈はごめんだった。


「いいえ、お前は必ずこの話に乗ります」


 しかとした口調でもって、ヒルメは橙の双眸で燈を射抜き断言した。


「なぜなら、それがその少女を救える可能性なのですから」

「え?」

「――そこな少女は、まだ死んでいないということです」


 燈の心臓が、大きく高鳴った。

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