第3話 魔人の生まれた日 1-2
日も沈むころ、燈がたどり着いたのは、山奥にある廃教会だった。
――一ヶ月前、春陽が行方不明となった。
優等生であった春陽の無断欠席、それに疑問を持った教員によって発覚した事件。
家に繋がらないことを不審に思った学校側は、何かあったのではと警察に通報した。
そうして判明したのは、春陽の両親や学校に記載されてあった番号は架空のものであったという事実だった。
行われていた警察の捜査は、しかし僅か一週間で、不自然にも切り上げられることとなった。
不可解な捜査の打ち切りに燈は自分一人で春陽を探すことに決め、聞き込みや調査を行い、そうして有力な情報を掴んだのは二日前。
夜中に隣町の山林で、春陽と似た特徴の少女を見たとの証言があったのだ。
話をしてくれた人物は、あくまでも似ているだけで気のせいかもしれない、と言っていたが、何の進展もない中で得た貴重な情報には違いない。
藁にも縋る思いなのだ。
それだけを頼りに、こうして燈は怪しい場所を探し、この廃教会にたどり着いた。
少しだけ恐怖が喉を震わせる。
けれど引き下がる選択は、燈にはなかった。
恐怖を払拭するように軽く息を吐いて、教会へ入る。
カビついた匂いが鼻腔を刺激した。
「けほっ、暗い」
鞄からスマホを取り出しライトをつける。
足を進めるたびに舞い上がる埃がライトに照らされて、この場所が忘れ去られた年月を感じさせた。
暗闇が充満する伽藍洞の空間、生物の気配が一切ない、不気味な静寂。
「隠し扉……?」
教会の最奥、主祭壇のさらに奥にある神の子を祀っていたであろう場所、そこに僅かに空気の流れる場所を見つけた。
きっとこの先に春陽は、いる。
確信があったわけではなかったが、不思議とそう思った。
燈は扉に触れ――たとえようのない悍ましさが、体を駆け抜けた。
開けるな。進めば終わる。
何が? ……分からない。
分かることは、この先にある光景は燈の世界(じょうしき)を嘲ってせせら笑うであろうということ。
異界の扉だ。これは倫理を持ち合わせぬ、悪魔たちの宴会場へ続く血濡れの扉。
「……っ」
気が付けば吹き出ていた汗。
止まぬ動悸を意志だけで無理矢理抑え込むと、燈は扉を開けて奥へと進んだ。
扉の奥は下り階段になっていた。
人が一人通れるかどうかという広さの通路に、等間隔に設置された燭台の蝋が、ほのかに前方を照らす。
一歩、足を進めるたびに体が重くなったような気がした。
しばらく歩き続け、燈は木造りの扉にたどり着く。
それをゆっくりと開けると、開けた空間に出た。
「な、ん……だ」
眼前に広がるその光景に、言葉を失う。
「ああ! 天子様!」
「奇跡を、我らに救いを!」
「あはあは! ああ、一つに、私の命を貴方様に」
群衆が、白い装束に身を包んだ無数の人々が、自傷を繰り返し血を捧げている。
ある者は腕に爪を立て、ある者はナイフで足を抉り、ある者は指を噛み千切って、嬉々として己の体を捧げていた。
中には、まぐわいながら互いの体を生きたまま食らう者までいる。
岩裏で
その
「うっ」
口の中が
逆流してくる胃液を無理してでも飲み込んだ。
ここにいられない。常人としての精神を持つものほど、この光景に人間性が汚染されていく。
だからこそ見つけねばならないと、燈は悍ましさに吞まれないように心を強く持った。
春陽を、この左道の狂騒から連れ戻す。
「天子様よ!」
「うおお、転輪の天子様!」
堕ちし群衆が、
何事かと燈が空間の奥に目をやると、一人の童女が立っていた。
黒曜石を思わせる深い黒髪に、中華の着物を着飾った七、八歳ほどの少年。
天子と呼ばれた童子の姿を目にした狂信者どもは、一様に涙を流し始めた。
異様な光景に、しかし燈の視線は童子ではなく、童子の傍らへと向いていた。
「春陽ちゃん……っ!」
壇上には、神に捧げられる供物のように、白装束へと着替えさせられた春陽が侍っていた。
その顔は燈が見たことのないほどに、感情という感情が消えている。
すぐさま駆け出そうとした瞬間、
『今までよくやったお前たち。今日、この時をもって、純潔無垢たる我が娘を捧げ、転輪は降臨する』
脳裏に声がこだました。
「あがっ……」
割れる。脳漿が沸騰して、頭蓋を叩きつけたくなった。
『愛しき我が同胞よ、礼賛せよ』
慈しむ天子の笑い声が燈の脳を震わせた。
『では、始めよう』
天子が春陽の傍に立つ。
何をするか分からない。けど、何か良くないことだけは分かった。
やめろ。
やめろ。
触れるな。
彼女に、触れるな。
走る激痛に、燈の鼻から血が零れだす。
『
歌い上げられる言葉は、はるか昔、原初に捧げられた供物の名。
血が目から、鼻から、耳から溢れ出す。
天子の声を聴く者全てが、その負荷に耐えられず、人体が崩壊していく。
燈もまた、喉を掻き毟りたくなる衝動に襲われた。
「ああ、ああああっ!」
痛い、痒い、辛い、気持ちいい、幸福、怖い、死にたい、殺したい、救いたい、死にたくない、救われたい、犯したい、壊したい、食べたい。
感情が壊れていく。
「うるさい……うる、さ……い……黙……れっ!」
思いっきり額を地面へ打ち付けた。
外から与えられた刺激が、ノイズだらけの思考を清澄(クリア)にしていく。
それでもまだ激痛が残り、意識が濁っているが、動ける程度には回復をした。
蹲っていた状態から体を起こして、一目散に駆け出す。
『我らがヤジュナ、緑の目と御身に捧げよう』
「やめろおおおおおお!」
喉が裂けそうになるほど叫んで、手を伸ばす。
「――っ!? 燈くん……なんで……っ!」
突然壇上に現れた燈の姿に、春陽が目を見開いた。
僅かな交差。
それは反射だったのか、春陽は瞳を潤ませて燈の方へ手を伸ばし、
『おや、ずいぶんと人間らしい顔をするようになったね』
天子の手は――春陽の心臓を抉りだした。
「あっ……かふっ」
赤い塊が、春陽の口から零れた。
「……あ……ああ……っ!」
春陽の傍に駆け寄る。
「は、はる……ひ……あ、ああっ!」
倒れていく春陽の体を、優しく抱き留めた。
どくどくと、胸に空いた孔から赤が溢れ返る。
春陽を抱える手に、生暖かく少し粘ついた赤色が付着した。
とめどなく流れる命の川。
春陽が死ぬと、分かった。
「そんな、顔をしないでください、あか……り……くん」
「しゃ、喋ったらダメだ」
「だいじょうぶ、ですよ」
「大丈夫なんかじゃない!」
顔を歪め泣きそうなる燈の頬に、春陽が優しく手を添えた。
「ふだんのわたしの、気持ち、少しわかってくれましたか?」
「ふざけてる場合じゃ、ないよ……!」
意識が朦朧としている。
当たり前だ。心臓をくり貫かれて、まともでいられる人間なぞ存在しない。
何をどうすればいい、どうするべきなのだ自分は。
混乱する思考で、とりあえず逃げなければと、結論をはじき出す。
「あかりくん?」
燈は血濡れの少女を両手で抱えた。
「帰ろう、春陽ちゃん。帰って、病院に」
「ふふ、病院じゃどうにもなりませんよ」
知っている。そんなもの、言われるまでもなく知っている。
心臓を失って生きていられる者はいない。
こうして喋っていられるのだって不思議なほどなのだ。
けれど、だからといって、燈は春陽を見捨てるためにここに来たのではない。
「あかりくん、逃げてください」
春陽はいつものように、優しい笑みを湛えていた。
「てんしさま……おとうさま、はここにいるひとたちを使って、じっけんをするつもりです。きけんですから」
「うるさい! 僕のいうことならなんだってしてくれるんだろ! だったら……だったら一緒に帰ろうよ」
立ち上がって、入口へ歩き出す。
視界が霞む。
涙が滂沱と零れる。
会えたのに。やっと会えたのに。
体から熱が失せる。
どうすればいい、なにをすれば助かる?
否。不可能である。もう助かりはしない。
燈は、自問自答を繰り返す。
『――転輪の恩寵よ。廻れ』
刹那、世界が変生した。
狂信者共から流れ出た血から、植物が生い茂り、地下空間の地面や壁に蔦が蔓延る。
純真無垢にして穢れを知らぬ清廉な乙女から抉りだした
彼女の心臓が燃え上がる。
初めに信徒全ての体が風船のように弾けた。
次いで転がる死体より、様々な異形が発生する。
魔物、化生、鬼、古今東西において様々な呼び名はあれど、それら全ては人類という種の不俱戴天の敵。
三つ目、夜天に直径五十メートルの天輪が出現する。
燈のいる場からでは、それを直接確認することはできない。
だがこの地下空間にあって、燈は外で何か異変が起きていると感じ取っていた。
天輪の放つ超然的な神秘が、地下にまで及んでいる証拠だった。
『デートかい? はは、いってらっしゃい春陽』
次々と起こる異常事態の中でも、脳裏に響く天子の声は変わらず穏やかなものだった。
『よく創造主(ちち)の役に立ってくれた、誉めてやろう。我が
最後に言葉を伝えると、黒い霧となって天子は姿を霧散させる。
異形の蠢(うごめ)く空間に、死にゆく少女と無力に泣く少年が残された。
「ふふ、あかりくん、わたしって実は人間じゃないんですよ」
茶化すような声音で、うつらうつら舟を漕ぎながら春陽は語りかける。
「おかあさんはおかあさんじゃくて、ほんとうの人間じゃないわたしは、人間になるために人間をたくさんたべて……ごめんなさっ」
眠気を我慢して喋っている子供のようだった。
「学校であかりくんとであって……ああ、たのしかったですね……」
「また、いこうよ。一緒に学校に。だからさ……春陽……お願いだから……」
胸の中からだんだんと消えゆく熱が怖い。
こうならないために動いたのに。
もっと早く走り出せたら、心臓を抉られる前に助けられたなら。
無意味な
「がはっ……?」
異形の触手が、燈の腹部を貫いていた。
もはやここは異形の巣窟。
燈たちは、餓獣の前に放り投げられた餌も同然であった。
「がっ……くそっ。っ……くそくそ!」
触手が引き抜かれるのと同時に、全力で出口に駆け出した。
走れる力が残っていたことに驚く。
だが遠い。果てしなく遠く思える。
それでも駆け出す。
耳が切り落とされた。
太股が抉り飛ばされる。
肩を貫かれた。
右目が潰される。
背中を焼かれた。
腕の中にある
それでも走った。
走るたびに面白いように血が噴き出る。
走って、
走って、
走って走って、
走った、
その先に――その女は立っていた。
「あら、心臓のない女の子にボロボロの男の子?」
軍服を纏う幻想的な女剣士。
一言で評するならば、そうだろう。
綺麗な銀灰色の長髪に、ルベライトのように赤く輝く瞳。整った面貌は絵画のようで、言葉を失うほどの美貌。
教会の外、月明かりに照らされて剣を携えた美女が微笑みを浮かべてた。
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