後編 さよなら金木犀
初恋の人と出会ったのは図書室で昔の性犯罪発生件数を調べていたとき、カビのにおいがする古めかしいファイルを棚に戻そうとして入口に立つ彼女を棚の陰から見つけた。
動くことができなかった。まずはこんなところを目撃されないようにそっとファイルを持って奥の方に行こうとすると、待ってといつの間にか後ろに立っていた彼女に呼び止められた。声の反響からして間違いない。背後のすぐそこに立っている。
私は勢いよく振り返ってファイルを後手に隠した。やましいものではないが、女性に見せるのは利己的生物としても気が引けた。もちろん、もしそれに目を通して変な目を向けられるという苦痛を避けようとする心理から来たものだが。
彼女は中学生だそうで、われらが校の遅いオープンスクールに参加してくれた子だった。
話は簡単、どんな本を取り揃えているか。私はずっとファイルを元に戻せず、愛想笑いを浮かべて順々に説明していった。それだけで一時間はたったろう、まったくうちのオープンスクールは自由すぎていけない。
その子は最後に私の持つファイルに言及してきた。私がいつも持ち歩いているものだと答えたら、胡散臭そうな目を一瞬したものの、目をつむってくれた。
察しのいい子である。
その次の日、OS《オープンスクール》についての話題が事前に一切なかったことに気が付いた私は思い切って担任に聞いてみた。あの子が来た日、司書もおらずずっと私は図書室にこもっていたし、校内の状況を知るものにはふくまれていなかった。
案の定オープンスクールはなかった。担任も小首をかしげて本当に来たのかと再び聞いてくるが、私はどうにも余裕をもって答えられなかった。それから一か月、何の音沙汰もなく私自身あの子はもう来ないのだろうかと諦めを胸に資料あさりもやめようかと考えていた。
無人の図書室でできることも減ってきて、あらかた欲しいものが集まってきたとき、あの子はまたここに来た。今度は裏口の方から。関係者以外使わないはずのそこからいそいそ出てきたところ、忍び込んだことは容易に想像がついた。けれども私は責める気にはなれずにこちらへ気付いたあの子へ苦笑して手招きする。
なんでも今日はある新聞雑誌を読み聞かせてほしいと言ってきた。
不信こそあったが、その笑顔は似ていないはずの彼にそっくりだった。しかしあの子は端整な顔立ちで、笑い方や角度からそう見えたに過ぎないが私は一応頭の隅にとめおいた。
四月二十日、八月五日、五月十二日。そのどれも学生の連続死を取り扱ったもので、顔なじみであった人達である。私が表情を崩さないのが納得いかないのか、新聞が減っていくと、次第にあの子の表情も暗くなっていった。
「どうして平気でいられるんですか?」
怒気をはらんだ声に私はあの子を直視しようとせず、淡々と読み上げを続けた。
ふと鼻をやさしい香りがかすめて息いっぱい吸い込んでしまう。窓が開放され、風が出てきたのだ。それがちかくの歩道に並んだ金木犀のそれを運んでくる。いつのまにか少女のすすり泣きが耳に入り、最後の一枚にとりかかる。
私はもはや機械だった。
初秋の事件、ある高校生が川に飛び込み溺死。自殺と思われる。
————終わった。少女は泣き叫びながら向き合った私の胸板を両腕でたたく。私はその新聞紙をくしゃりと握りしめ、声を出せずにいた。駆け付けた生徒や教師はなんのことか事の成り行きを困惑顔で見守っていた。
ただ、私は笑う。少女は私の首に手をかけ、すさまじい力をぐしゃぐしゃな顔でかけてくる。周りは止めようと取り囲むが、私が片手でそれを制止した。意識が遠のいてくるころ、金木犀のあのせつなく寂寞で言いようのない慈愛の香りが鼻腔をなでた。
「う、うう」
力が弱まり、少女の涙がほおに落ちてくる。その頼りない頭を、私は微笑を浮かべてなでることしかできなかった。それでも内心、直接この子を直接的な殺人者にしなくてよかったと安堵した。
本来裁かれるべきは私達……この子は正当な感情のもと、順当な行動をしただけ。
そう周りに立つ人たちに言うと、だれもかれも目をそらした。やっぱり君らは人だよ。私が利己的生物なら君たちは人だ。
少女が泣きつかれて泣てしまうころには、もうすっかりあたりは暗くなり、不法侵入はなかったことにされた。
金木犀の並木道を少女を背負って歩く。家は知っている。なんども線香をあげに行こうとして叩き出されたあの家ならよく知っている。
戸を叩くと、なかから老年の見知った彼女が現れ、この子を見るやいなや私のほおをひっ叩き、きっとにらみあげてくる。
「気は、済んだそうですよ……」
そういって私は彼女の制止も聞かずにずかずかと上がり込み、かわいらしい名前札のかけてある部屋を押し開き、目についたベットに寝かせる。
一息ついて周りを見回す。部屋の中を一言で表すなら、荒れていた。
散乱したファイルに、壁に貼り付けられた事件記事。だからこそいっそう目を奪ったのは、机の上にぴしりとそこに置かれた手帳のようなもの。
彼女がおいついてきて、大きな音を立ててドアが開け広げられる。
「さあ、はよう出ていけ!」
恐ろしい形相でそういきり立つ彼女に、私はとうとう降参した。
帰る途中、年がら年中葉を茂らせる常緑樹のみきに腰掛ける。土手の真下のある河川敷に一つだけ生えた異端の木だ。いつもなら絶対にこんなものによりかかることはないだろう。不変を詠うこいつらはどうにも好きになれないからだ。
一問一答、自問を繰り返していると、土手の上に立っている人影に気が付いた。yく目を凝らしてみると、あの子だった。赤くなった目元に、今にも消えてしまいそう風体がこちらへ降りてくる。
さよなら金木犀、私を貫いたあの子からは、あの香りがふと漂ってきていた。
短編 あなたの背中で笑います ホノスズメ @rurunome
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