第7話 美しい、とは

 今日、僕は初めて、教授と一緒に妹さんを訪ねた。

 メディカルセンターの長期療養施設は、特別に認められた限られた人しか利用できない。そこには、歩ける人も話せる人もいない。社会から切り離され、時間ときの止まった場所だった。


 教授の妹さんは、たくさんの機械に囲まれて、ベッドで静かに眠っていた。

 淡い金色の長い髪、なめらかな白い肌、閉じたままの長い睫毛。

 少しも病み衰えたような印象はなく、今すぐにでも起き上がって

「おはよう」

 そう言うのではないかと思えた。


 教授は彼女の手をそっと握り、優しく声をかけた。

「チィチェル。僕だよ。変わりはないかな」

 教授の妹さんの名前はチェルシーというのだが、幼い頃の彼女はうまく言えなかった。教授がつけた愛称、小さいという意味の「チィ」をつけた「チィチェル」を、彼女はとても気に入っていたそうだ。


「今日は気持ちの良い日だよ。窓を開けてもいいかな」

 教授が窓を開けると、爽やかな風が吹き込んできた。


 教授は棚に並んだ本の中から1冊を取り、ベッドのそばに座った。

「君のいちばんお気に入りの本を読んであげよう」

 それは日本語で書かれたとても古い本で、表紙の挿絵は所々かすれ、作者名はわずかに読み取れるイニシャルNと……H? のみ。


 教授の妹さんの聴覚は機能しているのだという。教授の呼びかける声に対して、脳波がわずかに反応しているとのこと。彼女の中に「言葉」は生まれているのだろうか。メモリが壊れてしまった彼女の中から、言葉を取り出すすべはない。いつかもう一度、彼女と意思をやりとりできる日は来るのだろうか。


「—— あるところにカタリナという小さな王国がありました。美しい首都セントリアを訪れる人は多く、王都がある城下町はいつも賑わっておりました」

 コトノハ教授の穏やかな声。風に揺れるカーテン。部屋に飾られている真紅の薔薇の花束。


 ずっと、ずっと、眠ったまま、こうして気が遠くなるほどの長い時間を過ごしてきた……。


 大切な研究も、栄光も、名誉も、やりがいも、生きがいも……全てを失うことになるとわかっていても、それでも教授は迷わなかった。

「チィチェルは僕に残された、たったひとりの家族だからね」


 僕の両親は健在だけど、もしも同じ状況になったとしたら、僕は教授のように全てを投げだすことができるだろうか。

 不要と判断した者に対して、あまりにも厳しいこの社会で。


 窓の外は茜色に染まり、部屋の中が温かい色に変わる。

 眠り続ける彼女の枕元で、朗読している教授の穏やかな声は続く。


 「言葉なんて無くたって、一瞬で意思が通じるなら、その方が良いじゃないか」

 今まで何の疑問も持たずに、僕もそう思ってきた。

 本当にそうだろうか。

 とても危ういものの上に成り立つ世界に、僕達は進もうとしているのではないか。


 文字と言葉が不要となるこの世界で、かつて、僕達に文字はもう必要ないと結論づけた教授は、きっと最後のひとりになっても、こうして本を読み聞かせて、言葉と文字を手離すことはないのだろう。


 そのとき、僕の中に湧き上がってきた気持ちを、どう表現したらいいのか。


 楽しい……。

 美しい……。

 尊い……。


 教授が口にしたこの3つの言葉。僕には意味がよくわからない言葉。

 でも、それしか表現できる言葉を僕は他に知らない。


 教授のような古い「人間」の世代と、僕の型式タイプの間にある隔たりは、あまりに大きすぎる。


 「美しいのは花そのものではなく、その花を美しいと感じる心なのだよ」

 教授の言葉がよみがえる。

 では、心とはどこにあるのか。心とは何だろう。僕の中にもあるものなのだろうか。


 やがて、空の色が変わり、夕闇が訪れるまで、僕は黙ったまま、ただずっと教授と妹さんを見ていたのだった……。



 * * *


 僕は結局、「失われた栄光」の記事を書くことができなかった。


 僕が今、書いているのは「コトノハ教授の研究録」

 つまり、僕は教授の正式な助手となった。


「君も物好きだねぇ」

 教授は呆れたようにそう言ったけど、反対はされなかったのだと思いたい。


 僕は知りたくなったのだ。

 「美しいと感じる心」とは、何かということを。



 *** 了 ***





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