第5話 コトノハ教授の1日

 教授の1日は1杯のコーヒーから始まる。

 僕が研究室に顔を出すと、教授が毎朝、自分で淹れるコーヒーの香りが漂っている。僕にも勧めてくれるが、この泥水みたいな苦い飲み物の味を理解することができない。


 僕達の食事は、1日分の必要な栄養キューブを摂取すれば、それで充分だった。調理して食事を用意することから解放されて、食事に時間を取られることもなくなった。効率化のため、食事に要していた時間を他のタスクにまわせるようにしたのだ。


 教授のようにわざわざ時間をかけて、嗜好品であるコーヒーを飲む人は稀だ。コーヒーだって高価で手に入りにくいはず。


「こうして香りを楽しみながら、ゆっくりと味わうと、心にゆとりができるのでね」


 楽しむ……? 味わう……? 心のゆとり……? よくわからない。

 教授は、時間を無駄にしているとしか、僕には思えない。


 それから、教授は研究室に溢れているたくさんの古い本を調べたり、昔の映像を見たりして、1日を過ごす。何か興味を惹かれるものがあると、僕に声をかけて下さることがある。


 終業時間になると、教授はすぐに研究室を後にする。


 教授には毎日、必ず訪れる場所があった。

 —— メディカルセンター付属の長期療養施設だ。


 コトノハ教授には歳の離れた妹さんがいて、施設にいる。

 教授のご両親と妹さんはずいぶん前、フリーウェイをエアカーで走行中、事故に遭った。ご両親は亡くなられ、妹さんは生命は助かったけれども、記憶メモリが壊れてしまった。

 意思の疎通ができなくなり、ずっと目を覚まさないままだという。


 僕達の世界では、メモリが壊れて読み出せなくなった人材は、即、社会に不要だと見なされる。

 教授の妹さんがそうならなかったのは……。


 妹さんのケアを継続するという約束の代わりに、それまでの研究全てを手放すという交換条件を、教授が承諾したからだった。



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