淑女のお尻の叩き方

 ※この話は昔小説家になろうに掲載していたものです※

 -------------------------------------------------------


 モテ男のエイルマーには不思議な力がある。

 それは他者の心の声が聞こえてしまうというものだ。

 といっても、他者の心のすべてが分かるわけではない。

 対面した者がエイルマーに何かを求めている場合に限って、その願いの内容が頭の中に響く。

 あくまでも限定的な能力であり、相手のほうに『エイルマーに叶えてほしいお願い』がなければ聞こえない。

 これはなんの役にも立たない、彼にとっては迷惑でしかない力だった。


   * * *


 二十歳の伯爵家令息であるアレック・エイルマーは女の子からとても人気がある。とはいえ彼は軽薄に女性を口説くとか、愛想が良いとか、そういう理由でモテているわけではなかった。

 人気の原因は、エイルマーの外見にあった。麦穂色のサラサラの髪は清潔感があり、灰緑の瞳はどこか謎めいている。

 彼は人と話している最中に、物思うような表情を浮かべる癖があって、端正な面差しのエイルマーが意味ありげに間を取れば、相手は一気に惹き込まれて、すっかり彼のとりこになってしまうのだ。

 彼を追いかけ回す女性はあとを絶たない。

 エイルマーがいまだ婚約者も決めておらずフリーであるというのも、「まだチャンスはある」と追っかけたちを加熱させている要因だろう。


 ある日カフェで友人のマンハイムとお茶を飲んでいると、ひとりの若い女性が早足に近づいてきた。

 ここは紳士クラブに近いエイルマー行きつけの店でもあったので、彼のファンがよくやって来る。

 ――エイルマーは内心『またか』とうんざりした。

 相手から向けられるのがたとえ好意であっても、親しくもない大勢の人に常に付き纏われ、一日に何度も話しかけられるというのはストレスが溜まる。

 ため息をひとつ吐き、エイルマーは近づいて来た女性を眺めた。

 この子、どこかで見たことがあるな……。

 確かこの子は……ドロシー・クランストン……だったかな?

 クランストン伯爵家の三女で、自分と同い年の二十歳だったはず。同格の伯爵家で年齢も同じということもあり、エイルマーはドロシーの名前を憶えていた。しかし個人的に話したことはこれまで一度もない。夜会などで何度か顔を合わせた程度だ。

 エイルマーはドロシーに対し、『真面目そうな娘』という印象を抱いていた。

 清潔感のある顔立ちは癖がなく物柔らかで、髪も瞳も同じ黒――知的でどこか神秘的な感じがする。強烈に人目を惹くような華やかさはないものの、彼女には素朴な可憐さがあり、実直そうなので男女問わず好かれるタイプだろう。

 普段、エイルマーを追っかけまわしている肉食系の女性たちとはタイプが違うので、彼は彼女の接近に興味を覚えた。

 ……一体、なんの用だ?

 ドロシーがテーブルの横に立った時、信じられない願いごとがエイルマーの頭に響いた。


『――エイルマーさん、お願い、私のお尻を叩いて!』



「は――なんだって!?」


 ギョッとしたエイルマーは思わず大声を出してしまった。

 呆気に取られて着席したままドロシーの顔を見上げると、向こうも驚いたように目を丸くしている。

 同席していた友人のマンハイムが眉根を寄せて口を挟んだ。


「エイルマー、大丈夫か? 彼女、まだ何も言ってないぞ」


 そりゃ口に出してはな……とエイルマーは心の中で毒づく。

 あんな破廉恥はれんちな内容、昼日中に口にできるわけがない。

 エイルマーは混乱していた。恥ずかしさ、驚き、戸惑い、疑問……それらがぐちゃぐちゃに交ざって、気持ちが乱される。

 とはいえエイルマーは女性にモテる上に読心能力があったので、他者が自分に対して抱く性的な欲望を知る機会は多々あったのだ。

 しかしそれは『付き合いたい』とか『キスしたい』とか『結婚したい』とか『抱かれたい』とか、欲望のバリエーションはいくつかのパターンに限られていた。

 ところがどうだ……こんな真面目そうな子が、『お願い、私のお尻を叩いて!』

 だって? なんというド変態ぶり!

 すっかりドン引きしているエイルマーにはお構いなしで、ドロシーが思い詰めた様子で口を開く。


「ごきげんよう、ミスター・エイルマー……あの、大変申し訳ないのですが、少々お時間をいただけますか?」


 彼女の声かけは生真面目で、『ご友人との歓談を邪魔してごめんなさい』という気遣いが感じられた。

 礼儀正しく一生懸命告げる彼女の様子は健気けなげであり、少しばかり図々しいお願いであっても、その物腰で帳消しにできるだろう。

 しかし先ほど心の声を聞いてしまったエイルマーとしては、同席は全力でお断りしたい。

 清楚な顔をして、尻を叩かれたいと願っている女の子なんて怖すぎるからだ。

 それからもうひとつ、怖い点があった。

 ドロシーは今、謎の棒を握り締めている。船を漕ぐかいを縮小したような奇妙な形のそれは、グリップ部分はスリムな棒状で、上半分が平らな面になっていた。

 どういうつもりだ……それはなんだ、ドロシー。

 早く去ってくれないかな……エイルマーは真剣にそう願った。

 しかし残念ながら彼の願いは叶わなかった。

 というのも、緊張しきりのドロシーを見かね、友人のマンハイムが勝手に同席を許してしまったからだ。ちなみにマンハイムには恋人がいるので、この誘いに下心はない。単にドロシーを気の毒に思ったのだろう。

 まんまと同席の権利を獲得したドロシーは、ガチガチに緊張しながら着席し、こう切り出した。


「こ、このバットは……とあるスポーツで使用する用具です。そのスポーツは隣国で流行っている『クリケット』という競技で、バットで球を打ちます」

『お尻を叩いて!』


「エイルマーさん、ご存知でしょうか? クリケット」

『お尻を叩いて!』

 エイルマーは奥歯を噛んだ。

 ――くそう、内容がちっとも耳に入ってこない!

 尻かクリケットか、頭の中を整理してから喋ってくれよ! こっちは交互に聞こえちゃうからもうパニックだよ! 段々、『シリケット』に聞こえてきたよ!

 エイルマーの心の叫びは届かず、ドロシーは話をどんどん先に進める。


「実は私の叔父がインデペンデント・スクールの教師をしており、生徒に新しい遊びを提案したいと考えているようなのです。そこで『クリケット』が候補に挙がったのですが、この国に適した形にルールを変えたらどうかという話になりまして」


 うーん……そもそも『クリケット』がなんなのか知らないのだが、棒で球を打つ競技はこの国にもあるので、似たようなものなのか?

 ドロシーが「んん」と咳払いをしてから、続ける。


「そ、そこで私、『目隠しクリケット』というのを考えてみたのですが、それが成立するかどうかを実験したいと思っています。あの……それを、手伝っていただけませんでしょうか?」

『お尻を叩いて!』

 エイルマーは思わず、ドロシーの手の中の棒と、彼女の腰の辺りを往復するように眺めてしまった。

 ドロシーは棒を持つ手をプルプル震わせていて、なんだか罠の匂いがプンプンする。


「僕は……絶対に君を叩かないぞ」


 決意を伝えるエイルマーの声音は地を這うように低い。


「え、叩くってなんで」


 なんで分かったの? と彼女は問いかけたかったのだろう。

 ドロシーの顔には純粋な驚きが浮かんでいる。

 エイルマーはすべてお見通しだった――『目隠しクリケット』って、意図がバレバレなんだよ!

 視覚を奪い、こちらを操りやすくして、そのバットで君の尻を叩かせるつもりだな?

 それって、どんなうっかり事故だ。

 そしてなんという変態的性癖!

 エイルマーは勢い良く席を立ち、高らかに絶縁宣言をした。


「『目隠しクリケット』は禁止だ! 持てる権力をすべて使って妨害してやるから、君の野望は永久に成就されない! ではさようなら、ドロシー嬢!」


   * * *


 とぼとぼと家路を辿るドロシーは、握り締めたバットを見おろしながら、あることに気づいて眉根を寄せた。


「そういえば……彼はあの時、私のお尻とバットを交互に眺めていたわ。まるでこちらの心の声が聞こえているみたいに」


 だけどそんなことがあるかしら? ドロシーは真剣に考え込んだ。


 そもそもなぜ、ドロシーが尻を叩かれたがっているのか……。

 それは半月前の不幸な出来事に起因する。


   * * *


 ドロシーの実家であるクランストン一族は少々変わっている。

 簡単に言うと『スピリチュアル系』というやつで、代々水牛の神様をまつっているのだ。

 恥ずかしいので(?)公にはしていない。

 この家に生まれた者の義務として、末娘のドロシーが面倒な儀式を執り行う義務を課せられていた。

 要領の良い姉たちはなんだかんだと儀式をサボりがちであり、いつも末っ子のドロシーに儀式を押しつけてくる。

 その日もドロシーはひとりで、敷地内にある清めの泉のそばで祈りを捧げていた。

 水牛の頭の形をした石を前に、地べたにひれ伏して祈りを捧げていたドロシーは、不意にすべてが馬鹿らしくなってしまった。

 半目になって立ち上がり、石の上にどっかりと腰を下ろす。


「ああもう、阿呆くさいわー……やってられません」


 やさぐれて膝の上で頬杖をついていると、突然辺りに怒声が響いた。

『この罰当たりな小娘め! お前の尻が赤く腫れ上がるまで叩いてやろうかああああ!』

 は……え!? ドロシーはびっくりして石から腰を上げた。

 慌てて見おろせば、いつもはただの石にすぎなかった『それ』が、モワモワとした煙に包まれてカタカタ震えているではないか。

 石の尖った部分――つのの形もいつもよりクッキリと浮き出ている。

『この馬鹿もんがー!!!!!!』

 ふたたびの怒声とともに、石が歪んで、表面にふたつの目が出現した。それがギョロリと見開かれ、こちらを睨み上げる。


「ひ、ひええええええ!!」


 ドロシーは腰を抜かして後ずさりした。

 水牛の神様は怒り心頭、グイグイこちらに詰め寄ろうとするのだが、首から下が地面に生き埋めになっているので、ちっとも動けない。

『ぐ、ぐぅぅぅぅぅうううう!! む、無念……!!!』

 水牛が半泣きになる。

 ドロシーは『あわわ』と口元を手で押さえた。当初の身もすくむような恐怖の感情が、他人のドジを目撃してしまった時の気まずい感情に塗り替えられていく。

 辺りに気まずい沈黙が広がった。


「あ、あの……あなたは神様なのに、どうして埋められているのですか? 神様同士の罰ゲームとかで、そんな無茶苦茶なことをやられちゃったんですか?」


 おちょくる気はなかったのだが、この質問が神の逆鱗に触れたようだ。

『きぃぃ、小娘えええ! 罰ゲームとかで簡単に済ませるでなーい!!!』


「ご、ごめんなさい」

『くそう――もういい、小娘よ、同年代で一番モテる男の名前を言うがよい!』

 これに対し、ドロシーは素直に「アレック・エイルマーさんです」と答えた。

 ほかにもモテ紳士は何人かいるのだが、不思議なもので、咄嗟のことだと好みのタイプをまず挙げてしまう。

 すると神様が唸った。

『ひと月以内じゃ!』


「え、何がです?」

『そのエイルマー君とやらに、尻を叩いてもらえ! ひと月以内に! わしはこうして地面に埋まっていて、お前の尻を叩くことができないからな――エイルマー君にやってもらう!』


「はぁぁ? 何言ってるんですか、馬鹿じゃないの?」

『尻を叩かれなければ死ぬ呪いを、今、お前にかけてやるからな!』

 ええ? 尻を叩かれなければ死ぬ呪い、ですって? ちょっとこの水牛神様、本格的に馬鹿なんじゃない? ドロシーはすぐには信じられなかった。

 ところが。

 ――刹那、周囲にモクモクと暗雲が立ち込め、カカッと稲妻が光った。

 それとともに腕にピリッとした刺激が走り、


「痛っ!」


 思わず悲鳴を上げる。

 痛みが走った箇所を確認するためドレスの袖をまくると、手首と肘のあいだに水牛の角形のあざができていた。色は薄水色だ。

『その痣の色が濃紺になったら、死ぬ』

 神様が説明した。

『モテ男のエイルマー君とやらに尻を叩いてもらえれば、ミッションクリアで痣は消えてなくなるぞ』

 な、なんて最低な呪いなの! ドロシーは思わず頭を抱える。

 彼にどう頼んだらいいのよ? 一度も喋ったことがないのに!

 あの……実はうち、こっそり水牛の神様を祀っているんですけどね? それは首から下が生き埋めになっている石ころにしか見えなくて、つい出来心で、お祈りを放棄して尻の下に敷いてしまったんですよー。そうしたらもう、神様が怒りましてねぇ……罰としてエイルマー君に尻を叩いてもらえって言うんですよ。ひと月以内に叩いてもらえないと、私、死ぬらしいんですわぁ……協力してもらえないですかね?


「――って、言えるかっ!」


 ドロシーは髪を掻き毟り、その場で地団太を踏んだ。


   * * *


 エイルマーに追い払われた三日後、ドロシーは再アタックをかました。

 彼が出入りしている紳士クラブの前で待ち伏せし、エイルマーを取っ捕まえて裏路地に連れ込む。

 ――今日こそは逃がさない! ドロシーの瞳は強い輝きを放っていた。

 人間一度恥をかいてしまえば、あとは開き直るのみである。


「今日は話を聞いてもらいますよ!」


 と迫れば、貴公子めいたアレック・エイルマーは迷惑そうに顔をしかめて彼女を見おろした。


「……聞くだけ無駄だと思うが」


「もう単刀直入に訊きますが、あなたは心が読めるんですね?」


 問われたエイルマーは黙秘権を行使する。痴女の質問に答える義務はない。

 ドロシーは必死の形相で続けた。


「だったら今私が置かれている、切羽詰まった状況が分かるでしょう? 神様の呪いなんですよ、死んでしまうんです! お願いです、私の尻を叩くくらい、減るもんじゃないでしょう?」


 減るもんじゃないとは、ずいぶんはしたない言葉であったが、彼女の訴えの内容自体は彼に驚きをもたらした。

 エイルマーは瞳を瞬き、目の前にいる令嬢の顔を見おろす。


「今……死ぬって言った?」


「言いましたよ――ていうか、分かっているくせに。あなたは心が読めるんでしょう?」


「心は読めない。相手が僕に対して何かしてほしいことがあると、それだけピンポイントで聞こえてしまうだけで」


 エイルマーの回答を聞き、ドロシーは驚きに目を瞠った。

 おおう、未完成スピリチュアル紳士……!

 なるほどそうか……彼はドロシーの考えがすべて読めるわけではなく、一部分だけが切り取られて聞こえていたのね。つまり『エイルマーさん、私の尻を叩いて!』の部分だけが伝わってしまった……そりゃ引きますよね、ごめんなさい。

 ここまできたら隠しごとは意味がない。

 ドロシーはかくかくしかじか……と経緯を説明し、尻を叩いてくださいと改めて迫った。


「えー……気が進まないな」


 エイルマーは正直に告げた。

 色々とおかしくないか? と思ったのだ。

 ドロシーは嘘つきには見えないので、おそらく真実を語っているのだろう。

 あるいは悪気なく、妄想を真実だと思い込んでしまう病気の可能性もあるが、エイルマーは医者ではないので、その辺の判断はつかない。だから一旦、呪いの件は真実だと仮定して考えてみた結果……納得がいかないことがあった。

 エイルマーがおかしいと思ったのは、水牛の神様についてだ。

 水牛の神様、なんで僕を巻き込んだんだよ? クランストン家の問題だろう、外に迷惑かけるなよ。

 大体、協力しても、こちらにはなんの得もない。

 尻を叩いたら、責任取って結婚してよ、みたいな巧妙なトラップかもしれないし……。


「お願いです、人助けだと思って……後腐れはありませんから」


 ドロシーが必死に言い募る。

 しかし彼女が必死になればなるほど、エイルマーは引いてしまう。

 そしてエイルマーが引けば引くほど、ドロシーは押してくる。


「あなたが叩きやすいように、ちゃんと考えてきました――見てください」


 彼女はそう告げてから、壁のほうを向いてこちらに背を向けた。そして壁面に両手を突っ張り、エイルマーのほうに尻を突き出す。

 彼女は若草色のドレスを身に纏っていたのだが、尻の上に黒い毛虫のような何かがくっついているのが見えた。


「さぁ――この毛虫を叩いてください! 尻を叩くと思うから抵抗があるのでしょう? でも発想を転換して――あなたはこれから毛虫を叩くの!」


 さぁ来ーい! と促すドロシーの襟首を、エイルマーは猫の子を扱うように軽く摘まんだ。


「叩けるわけないだろう、この馬鹿娘! 大体、毛虫を叩いたら潰れて悲惨なことになるじゃないか。絶対に叩かないからな」


「これオモチャですよ……子供用の」


 ドロシーは眉尻を下げて、自身の腰に吊り下げた毛虫のオモチャを動かしてみせたのだが、


「……君は絶対馬鹿だ」

 とエイルマーは繰り返すばかりで、決して尻を叩いてくれなかった。

 瞳が超冷たいんですけど……ドロシーはしょんぼりと落ち込む。

 色々考えてお願いしたのに、どうして……?


   * * *


 それからは連日、エイルマーと面会することになった。

 彼は尻を叩くことは承諾してくれなかったが、意外と付き合いの良い性分らしく、会うだけは会ってくれる。

 ドロシーが彼を探さなくても済むように、カフェでの待ち合わせ方式を提案してくれたのも助かった。

 会うことさえできれば、残りの期間で、彼を説得すればいい。

 とはいえふたりは、いつも尻を叩く叩かないの話をするわけではなかった。

 最近見た演劇の話だとか、好きなお菓子の話だとか、友達の話だとか、意外にも話題は尽きなかった。

 エイルマーは美形が災いして、損をしているタイプかもねとドロシーはこっそり思う。

 話す前までは、どこか冷たい印象を抱いていた。とっつきにくい、気取った性格かと思っていたのだ。しかしそれは誤解だったようだ。

 ドロシーは彼の能力について私見を述べた。


「そういえば、あなたは他人の要望を聞くことができるのに、叶えてあげない主義なのですね? ええと……今回のお尻の件とは別で、普段の話ですが」


「……なんで叶えない主義と分かる?」


 エイルマーは紅茶のカップに伸ばしかけた手をピタリと止め、探るようにドロシーを見つめた。

 ドロシーが答える。


「だってエイルマーさんは『らし王子』とか『流し目の貴公子』とか言われているんですよ」


 これを聞き、エイルマーは絶句した。

 ええ、何それ? 知らぬ間に、自分にそんな恥ずかしいあだ名がついていたなんて!

 エイルマーの頬が羞恥で赤らむ。

 ドロシーは原因を推測した。


「あなたは相手の要望を知りながら、叶えてあげずに思わせぶりに焦らすのでしょう――それが妖艶な魅力に繋がっているのかも」


「そんなつもりはないんだ。なんていうか……」

 エイルマーはやりきれなさに眉を顰める。混乱するまま彼女に問うていた。


「ねえ……君ならどうする? もしもこの力があったら」


「私なら、さっさと相手の願いを叶えてしまいます」


「それは君が善良だからだろう」


「善良? まさか!」

 ドロシーは吹き出してしまった。


「私が善良だったら、神様の頭に腰かけないし、罰なんて受けていませんよ」


「確かにね」


 なんとなくふたり、困ったような笑みを交わす。

 エイルマーは物思う様子で続けた。


「とにかく僕は……他人の要望を叶えたくない」


「なぜですか?」


「これ以上、付き纏われたくないからね。誰にも深入りしないのが一番だ」


 人間は皆、勝手だと思う。赤の他人であるエイルマーに、心の中であるとはいえ、図々しいお願いばかりしてくるのだから。

 長年の積み重ねで、彼は人間不信に陥っていた。

 疲れたように瞳を彷徨わせるエイルマーを眺めて、ドロシーは小さく息を吐いた。


「それなら……あなたの作戦は失敗です」


「どうして?」


「現状を見てください――あなたがさっさと尻を叩いてくれていれば、こうして私に付き纏われずに済んだんですよ? 私だったらこんなふうに何度も付き纏われたくないから、一回で叶えてバイバイしちゃいます」


 ドロシーの見解は、エイルマーからすると目から鱗だった。

 なるほど……? 確かに一理あるかもしれない。

 一瞬納得しかけて、いや、しかし……とすぐに反論が頭に浮かぶ。

 叶えてやったら叶えてやったで、結局相手は気分が良くなって、リピーターと化すんじゃないか?

 君みたいに、あっさりさっぱりバイバイしてくれる子なんて、あまりいないんだからさ……。

 ドロシーはなんでもシンプルなんだよなあ……少々短絡的だとも言えるが。

 それはここ最近のアプローチの仕方でも分かることだった。

 ただ……それが心地良くもある。

 真っ直ぐで、ひねくれていない……それは彼がとうの昔に失ってしまったものだった。


「それでエイルマーさん、私の尻を叩いてくれませんか?」


 ドロシーが改めてお願いしてきた。


「……少し考えさせてくれ」


 エイルマーはそう答えた。


   * * *


 死の呪いはリミットが迫っている。もう期限の最終週に突入していた。

 さすがにドロシーも焦っているらしく、顔色が悪い。

 エイルマーは胸が痛んだ。


「分かった……明日、うちにおいで」


 とうとう観念してそう告げれば、


「いえあの、路地裏でチャチャッとやっちゃってくれれば」


 と残念な返しがくる。

 まったく、未婚の令嬢がなんてことを言うのだ。

 ちょっとHに聞こえるから、なんもね……。

 エイルマーはため息を吐く。


「こういうことは互いに、秘密にしたほうがいいだろう?」


「確かにそうですね、分かりました。ええと、あの……」


「何?」


「叩いてくれたら、私の全財産を差し上げます。命の恩人なので」


 これには笑ってしまった。

 まさか女の子の尻を叩くお返しに、お金をもらえるなんてね!


   * * *


 エイルマーの屋敷を訪れたドロシーは、また例の、クリケットのバットを持参していた。


「直接叩くのも嫌でしょうし、『目隠しクリケット』でもいいですよ」


 とか言うもので、エイルマーは呆れて小首を傾げた。


「もしかして君さ……『目隠しクリケット』って言いたいだけなんじゃない?」


 そう指摘され、はは、と困ったように笑うドロシー。

 出会った日から彼女は行動的だったし、今日も余裕たっぷりなのかと思いきや、実はそうでもないらしい。クリケットのバットを持ってきたのは、彼女なりの照れ隠しなのかもしれなかった。

 目元がほんのり赤くなっていて、はにかんだ様子はなんだか可愛いらしい。


「緊張している?」


 尋ねると、


「はい……緊張しています」


 小声でそう返された。

 ――ドロシーは複雑な感情を持て余していた。

 彼は……私の馬鹿馬鹿しい打ち明け話を、疑わずにちゃんと聞いてくれたのよね。

 元々格好良いと思っていたのに、これは好きになってしまうわよね……。

 尻を叩くという変なオーダーも、結局呑んでくれたし、感謝しかない。

 少し残念なのは、これで縁が切れてしまうことかな。


「じゃあ、おいで」


 ドロシーの手を引き、エイルマーはソファへと向かった。

 彼が先に腰を下ろし、自然な流れでドロシーを膝の上に乗せる。

 ちなみにクリケットのバットは、エイルマーが彼女の手から取り上げ、足元に転がした。

 横抱きされたドロシーは、意外な展開に目をぱちくりさせる。


「え……あのこれは?」


「好きな子のお尻を容赦なく叩くなんてできないよ――だからね」


 そう言ってから、エイルマーはポンポンと優しく彼女の腰を手のひらで叩く。それは赤ん坊をあやすくらいの力加減だった。


「これだって『叩いた』うちに入るだろう?」


「叩いていません。痛くないもの」


「でも神様は、『強く』叩かれろとは言ってない」


 彼は先日、ドロシーが神様に言われた台詞を細かく確認した。

 水牛の神様は「エイルマーに尻を叩いてもらえれば、ミッションクリア」としか条件をつけていない。


「あ……確かに」


 ドロシーが彼の慧眼けいがんに感心しているうちに、ピリリと腕に刺激が走った。袖をまくって確認してみると、見事、呪いの痣が消えている。


「消えた……消えましたよ!」


 ドロシーは瞳を輝かせて、自身を抱っこしている彼を見つめた。


「よかった」


 ふたり、至近距離で見つめ合う。

 ドロシーはふと視線を落とし、消えた痣を名残り惜しく眺めおろした。

 これで……終わり? もう彼には会えないのかしら……。

 眉尻を下げる彼女に、エイルマーが囁きを落とす。


「――何か念じて」


「え?」


「言葉はいらない。僕にしてほしいこと、ない?」


「ええと……」


 視線を彷徨わせ、思い切って彼の瞳を覗き込み、ドロシーは頬を赤らめた。

 どうしよう……恥ずかしい!

 耐えきれずにモジモジしてふたたび視線を伏せてしまうが、口を閉ざしていても、彼には直接聞こえる――。


『……キスしたい』


 エイルマーは彼女の顎に手をかけ、顔を上げさせて、悪戯っぽく覗き込んだ。

 視線をからませてから、そっと唇同士を触れさせる。

 互いにドキドキして心臓が飛び出しそうだった。

 ひどく照れてしまったドロシーであるが、やがて顔を真っ赤にしたまま唇を噛んだ。

 突っ張った手が意味もなく彼の肩を撫でる。


「あの……私にも今、あなたの心の声が聞こえた気がします」


 ドロシーがキュッと目を閉じ、小声で囁いた。

 それを聞き、エイルマーの胸が甘やかに痛む。


「じゃあ……同時に自分の気持ちを口に出そう」


 せーの、で口を開く。


「――ずっと一緒にいたい」


 見事にハモった。

 ふたりは思わず顔を見合わせて、笑い出していた。




   * * *


 淑女のお尻の叩き方(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る