エマ、愛している

※この話は昔小説家になろうに掲載していたものです※

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 ――このところ『幸せ』についてずっと考えている。

 それは今の私にとっては、空に浮かぶ雲のように遠くに感じられるものだ。

 手を伸ばしても、伸ばしても、決して届きはしない。

 私は今ベッドに横たわり、白い天井を眺めている。鼻の奥をツンと刺すような、刺激の強い、消毒液の匂いに包まれながら。

 顔の大部分には、仰々しく包帯が巻かれている。今は薬が強く効いているようで、痛みはそんなに感じなかった。けれど夜になれば麻酔の効果も切れて、耐えがたい苦痛にさいなまれることだろう。

 おそらく私はもてあそばれたのだ。ここまでされるほど疎まれていたなんて、悲しい。

 どうしてこんな怪我を負う破目になったのか、詳細はよく覚えていないのだけれど、私をこんな目に遭わせたのは、最愛の――……

 不意に、天井を背景にして、綺麗な顔がフレームインしてきた。


「醜いね」


 こちらを見おろして、淡々とした口調で彼が言う。


「君はこの上なく無様ぶざまだ……ねぇ、息をしている?」


「アンソニー」


 私の瞳から涙がこぼれた。

 この涙の意味は? 自問自答してみる。

 無様だと彼に罵られたから、悲しくて泣いているの?

 いいえ、違う――私にはそれが分かっていた。だって体が燃え上がりそうなほどに熱い。

 私は今、喜んでいる――だって彼が来てくれた! それで嬉しくて、泣いてしまったの。

 ああ、私はなんて惨めな人間なのだろう! この雫が、屈辱から絞り出された悔し涙ならばよかったのに……いっそ彼を憎めたらよかったのに……。


「あなたは私を愛せないの?」


 望みを込めて尋ねる。


「無理だ」


 まるでためらわずに彼が答えた。


「婚約していたのに、なぜ……」


「君はすべてを間違えている。君のことはちっとも好きじゃなかった。出会った時から、ずっとね」


「もしも……」


 私の声には懇願の色が混ざっていた。だめだと分かっていても、どうしても諦めきれない。


「もしも……長い年月がたったら? そうしたらあなたの気が変わるかも。もしも、太陽が一万回昇ったあとなら……」


 私は必死なのに、彼はこの上なく冷めていた。透き通った冬の湖みたいに、怜悧な瞳でこちらを見おろしてくる。その在り方があまりに超然としていたので、かえって慈悲深いようにも感じられたほどだった。


「たとえ太陽が一万回沈んだあとでも、僕が君を愛することはない。君は僕の愛する人に危害を加えた。許すことはできない」


「それは誤解よ! 私は何もしていない」


「もう喋るな――こうして君の声を聞いているだけで、ぞっとする」


「でもあなたはここへ来た。来てくれた」


「来るのは、これが最初で最後だ」


 彼が初めて笑顔を見せた。にっこりと、晴れやかに。


「さようなら――もう二度と会うことはないだろう」


「そんな! 待って!」


 彼に縋ろうとすると、看護士がわらわらと群がって来て、私を乱暴に押さえつけた。腕や肩を握り潰そうとしているかのような、容赦のない力の込め方だった。


「鎮静剤を」


 彼が短く指示する。直後、首筋に鋭い痛みが走り、何かの液体が体の中に流れ込んでくるのが分かった。私の瞼がゆっくりと落ちる。

 眠りに引き込まれながら、どうして……と繰り返し問うていた。

 ねえ……こんなに呆気なく、私が大切にしてきた婚約は破棄されてしまうの? もう彼には会えないの? 何がいけなかったの?

 彼が私を呼ぶ時の、「エマ」という落ち着いた響きが好きだった。それは私にとっての、ささやかな幸せ……四葉のクローバーを眺めているみたいな。

 けれど私の心の中にある素晴らしい草原は、跡形もなくなった。

 一年前、あの子が現れたことで、人生の歯車が狂い始めた。

 腹違いの妹である、美しく可憐なモニカ――我が家にやって来た彼女が、私から最愛の人を奪い取った。

 天使のようなモニカは皆から愛されていたから、夜会の一件では、姉の私はすっかり悪者扱い。

 皆が可愛いモニカに同情を寄せたの。アンソニーも例外ではなかった――私はそれを知っている。

 ねえ、アンソニー……私を愛せないというのなら、こんなふうに他人任せにせず、あなたの手で私を壊して。

 私を見て。

 私を壊して。

 どうかお願い――……。

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 ふたりの婚約が調ったのは、エマが十五歳、アンソニーが十七歳の時だった。

 この時はまだ良かった――エマの腹違いの妹である、美しいモニカが入り込んでいなかったから。当時、彼女はどこか遠くで暮らしていて、顔も知らなかった。

 ここにいるのは、エマとアンソニーだけ。伯爵家同士ということで、身分的には釣り合いが取れていた。

 美しいモニカがいないのだから、エマとアンソニーは、初対面で互いに好意を抱いた?

 さあ……それはどうかしら。だって、ふたりの在り方は対照的だったの。

 お転婆で、色気がないエマ。

 対し、思慮深く、王子様のように魅力的なアンソニー。

 アンソニーはネガティブな感情を巧みに押し殺していたけれど、時折伏し目がちになっていたので、この縁談に乗り気ではなかったみたい。

 これは親にも責任がある。初顔合わせで、さして関係性も深まっていないというのに、大人たちは無責任にも「ふたりで散歩でもしていらっしゃい」などと言い出して、エマとアンソニーを屋敷から追い出してしまったのだから。

 まったくもう……どうしろっていうのよ。

 エマは親たちに内心呆れたけれど、もともと呑気なところがあったから、『無理に好かれようとしても無駄ね』と割り切って、自由に振舞うことにした。

 太陽の下に出たエマは、彼の手をグイと乱暴に掴んで、「こっちよ!」と引っ張った。

 お見合いはエマの家――ランカスター伯爵家で行われたので、このあたりは彼女の縄張りである。

 手を引かれたアンソニーは初め少し驚き、次いで微かに眉根を寄せたのだが、文句は言わなかった。もしかすると彼は、負の感情を殺すことに慣れていたのかもしれない。

 見晴らしの良い丘の上に出ると、エマはキラキラした笑みを浮かべ、彼のほうを振り返った。


「ねぇ、こうしない? この丘を全速力で下って、その先にある深い森を抜け、もっと、もっと、奥へ進むの――どう?」


 提案を聞き、彼は迷惑そうに眉根を寄せた。


「どう、と言われても」


「今見ている景色よりも、ずっと素敵なものが現れるはずよ。虹だって見える……たぶんきっとね」


「君は嘘つきだ、虹が見えるわけがない」


 確かにアンソニーの言うことは、もっともだった。

 現状ふたりは小高い丘の上にいて、眼前の空は青く透き通っている。雨上がりというわけでもないし、空気はカラリと乾燥し、虹が出そうな気配はどこにもない。

 それでもエマは言い張った。


「見えるわ」


「なぜ?」


「私が見たいから、よ――行けば、きっと見える」


 これに対しアンソニーがすっと瞳を細めた。彼の反応に軽蔑の色を読み取ったエマは、思わず口元をへの字に曲げた。


「何よ、つれない態度ね……じゃあ賭ける? 虹が見えるかどうかを」


 この時点ですでに、アンソニーはエマを持て余していた。会話になんの脈絡もないし、突拍子がなさすぎる。彼女が何を考えているのか、まるで理解できない。


「――競争よ!」


 アンソニーが考えごとをしているあいだに、エマが走り出した。ドレスの裾を翻し、一直線に丘を駆け下りて行く。

 風が強く吹き抜けた。

 走る彼女の足元で草木が揺れ、陽光を眩く弾く。

 アンソニーは呆気に取られた。

 ……なんだ、あの女は?

 あと何年かたったら、僕は彼女と結婚するのか? あのハチャメチャな女と?

 信じられない。

 そんなことを考えているあいだに、あっという間に彼女は木立の中に消え、姿が見えなくなった。風が草原をサラサラと揺らす音を、立ち尽くしたまま聞く。

 アンソニーは足を一歩前に踏み出した。初めはゆっくりだった歩みが、やがて小走りに変わる。ふと気づけば彼は全力で駆けていた。

 森に入った途端、一気に薄暗くなる。彼女はどこにもいない。

 ――カン!

 どこかで甲高い音が響き、鳥がバサバサと飛び立った。彼女が木の幹を叩いたのだろうか?


「エマ……?」


 アンソニーは顰めツラになり、森の中を進んで行く。

 前方でガサガサと音がして、足を止めた。音のした辺りをじっと窺っていると、草をかき分けて兎がひょっこりと顔を出した。思わずホッと息を吐いた、その瞬間――。


「アンソニー!」


 横手からエマが飛び出して来た。

 彼女はしなやかにジャンプし、ためらいなく彼に抱き着いてきた。枝上で暮らす動物が木の幹にしがみつくみたいに、アンソニーに足を絡ませ、無遠慮に巻きついてくる。

 驚いて横を向くと、至近距離に彼女の顔が――瑞々しい緑の瞳が輝きを放っていた。


「遅いわ、アンソニー!」


 一方的に彼女が責めてくる。こんなに生き生きとして楽しげに響く文句は、これまでに聞いたことがない。


「重い……」


 アンソニーは小さく呟きを漏らす。


「私をおんぶして運びなさい」


「なぜそんなことをしなければならない」


「遅れて来た罰よ」


「馬鹿馬鹿しい、下りてくれ」


「あなたが拒否しても、私は下りないから」


「……僕はこんなお猿さんと結婚させられるのか?」


「あら、やったじゃない! あなたは人類で初めてお猿さんと結婚した男になれるわよ!」


 エマは横向きに抱き着いていたのだが、足を一度も地面に着けることなく、器用に体を捻ってアンソニーの背後に回った。そして最終的におぶさる形で落ち着くと、「進め!」だの「アンソニーの間抜け!」だの散々悪態をつき、彼をこき使った。

 やりたい放題の彼女が愉快そうに笑うのを、アンソニーは黙って聞いていた。


   * * *


 アンソニーが十八の時、彼の父が亡くなった。病死だった。

 葬儀が終わり、ふたりは丘の上にやって来た。ブランケットも何も敷かずに、草の上に直接腰を下ろす。

 エマはドレス姿でも頓着せず、あぐらをかき、悲しげにアンソニーのほうを見て、彼の肩をそっと抱いた。

 普段は感情を表に出さないアンソニーが、目元を手のひらで覆い、声を殺して泣く。


「……父は僕のことを理解してくれた、唯一の家族だった」


 彼の母は存命であるけれど、だからといって近しい存在ではない。アンソニーは複雑なところのある青年で、そんな彼を一番深く理解していたのが、父親だったのだ。

 エマは我慢していたけれど、やはりだめだった。くしゃりと顔を歪め、大粒の涙をこぼす。エマもアンソニーの父が好きだったから、胸が張り裂けそうだった。

 エマは「私がいるわ」と言わなかった。慰めの言葉は口にせず、ただ静かに彼に寄り添い、彼の倍泣いて、深く悲しんだ。

 アンソニーは彼女に縋り、肩を震わせた。

 青い空が茜色に変わるまで、ふたりはそのままでいた。


   * * *


 エマ、十九歳。アンソニー、二十一歳の秋――今から一年前のこと。

 ランカスター家に可憐なモニカがやって来た。当時、彼女は十六歳。蕾の段階でも、彼女は驚くほど美しく、光り輝いていた。

 モニカは父が外で作った子供で、つい最近まで下町で育った。彼女の母親が亡くなったので、うちで引き取ることになったらしい。

 両親が罵り合っている声を後目に、エマはモニカの手を取り、家を出た。

 ふたり並んで散歩道を歩く。


「とんだ家に来ちゃったわね」


 エマがそう言うと、モニカは大きな瞳を丸くして、こちらを見返した。


「そんな……私、とてもありがたいと思っているわ。これで飢えずに済むんですもの」


「そう」


 それを聞いた途端、エマは罪悪感に襲われた。苦労してきたモニカのことも考えず、安直にものを言いすぎたことに気づいたのだ。


「ごめんなさい、事情も知らずに変なことを言って」


 気まずさを感じながら謝れば、


「いえ、いいの」


 モニカはすぐに許してくれた。

 エマは不思議な気持ちになり、物柔らかに瞳を細める。


「あなたと私は、半分血が繋がっているのよね……嘘みたい」


 こんなに綺麗な女の子が、血のつながった妹だなんて。

 エマの戸惑った声を聞き、モニカは小首を傾げた。


「嘘みたい? そうかしら……私たち、似ていると思うわ」


「似ているかしら?」


「とにかく私、嬉しいのよ。お姉様と暮らせるんだもの」


 モニカが頬を赤らめ、はにかんだように笑う。

 瞳の中に、星が煌めいている。エマはモニカを眺め、やはり美しい子だと思った――意思が強そうなくっきりとした眉も、癖のないサラサラなブルネットの髪も、彼女によく合っている。


「……あなたって、女神様みたい」


 可憐で清廉なモニカを眺め、エマはうっとりと呟いた。


   * * *


 エマは、妹のモニカとアンソニーがどんなふうに顔合わせをしたのか、よく知らない。

 というのも次の週末、彼がランカスター家を訪ねて来た日に、エマは熱を出してしまい、たったひとり暗い部屋の中で横になっていたからだ。

 下階では来客のアンソニーも加わり、一緒に夕食の席を囲んだらしい。

 時折、みんなが談笑する声がエマの寝室まで響いてきたように思う。

 あるいは……それは熱がもたらした幻聴だろうか。

 食事の前にアンソニーがわざわざ寝室を訪ねてくれて、病気を気遣ってくれたのだけれど、エマは彼に風邪を移すのが嫌で、そっけなく振舞ってしまった。

 あとになってから、エマはこの行動を後悔することになる。

 もしも……もしもあの時、彼の気遣いに対してきちんとお礼を言えていたなら、何かが変わったかしら? そんなことを思ったりして。

 けれどエマだってちゃんと分かっている――何をしても、結局何も変わりはしなかっただろう、と。

 彼の心は彼だけのもので、外から自由にいじれるようなものではないのだ。

 そもそも、だ――アンソニーに限らず、男の人はみな同じではないかしら。

 素直で、おしとやかで、美しいモニカのことを、誰だって好きになる。エマにもそれはよく理解できた。


   * * *


 夜会に出席する日のこと。

 身支度を整えたエマは、着飾った美しいモニカを眺め、その耳に輝く宝石に目を引かれた。今日着けているそれは初めて見る。赤い石――ルビーだろうか?

 誰かからのプレゼントかしら……エマはぼんやりと考える。それとも……お小遣いを溜めて、自分で買った?

 エマはモニカを元気づけたくなり、イヤリングを褒めることにした。妹はまだ貴族社会に馴染めておらず、いつも自信なさげだったから。


「それ、とっても素敵ね。あなたによく似合っているわ」


 エマがにっこり笑って声をかけると、モニカはかぁっと頬を赤らめた。

 視線を彷徨わせ、オドオドし始める。


「あの……私、なんて言ったらいいか……私には、こういうの……」


「いいじゃない、それ。自信持って」


「ええと、そう?」


「うん、私が着けたいくらい」


 冗談でそう言ったのに、純粋なモニカは本気にしたようで、耳から赤いイヤリングを外して、こちらに差し出してきた。


「ねぇ、じゃあ、お姉様がこれを着けて?」


 エマは焦った。ああ……言葉選びを間違えてしまった!


「何を言っているの、だめよ!」


「お願い、お願いよ……これは、お姉様に着けてほしいの。私が着けるべきじゃない気がして」


「着けるべきじゃないって、どういう意味?」


「いえ、気にしないで。とにかくこれはお姉様が着けて」


 モニカが押しつけてくるルビーのイヤリングが、エマにとっては負担だった。

 すごく困るわ……どうしてこうなったの?


「ねえモニカ、聞いて――」


「お姉様こそ聞いて――お願いよ! 私のイヤリングを受け取って、その代わりに、お姉様が着けているサファイアのイヤリングを、私に貸してもらえないかしら?」


 そう言われ、エマは耳元に手を伸ばした。

 このイヤリングは、アンソニーからプレゼントされたものだ。二年前にもらって以降、気に入って何度も着けている。

 断ろうとしたのだが、モニカが切羽詰まった様子で、こちらにしがみついてくる。


「私ね――サファイアに憧れがあるの。ずっと着けてみたいな、って思ってた。でも家が貧しくて、叶わなかったの。今夜一晩だけ……だめかしら?」


 ああ……エマは呻きたい気分だった。だけどそう――妹のイヤリングを褒めて、変な空気にしてしまったのは、私が悪かったのかも。そんなふうに罪悪感を覚えると、モニカからの頼みを断われなくなった。

 それに『アンソニーなら大丈夫よね』という甘えもあった。

 一晩妹に貸すくらいで、彼は怒ったりしないはず。このサファイアのイヤリングは、プレゼントされたばかりというわけでもないしね……もらったのは二年前で、彼の前で何度も着けている。私が気に入っているということも、彼にはちゃんと伝えてあるから、大丈夫。

 貸すのは、今夜一晩だけ。一晩だけだもの……。


「分かったわ」


 エマはモニカから赤いイヤリングを受け取り、自分が着けていたサファイアを渡した。


   * * *


 パーティの最中、エマは方々から向けられる好奇の視線を感じた。

 ……なんだろう?

 それらはポジティブなものとは言いがたく、チクチクした刺激的な何かを含んでいた。

 エマはまるで知らなかった――ある婦人が、隣の婦人に耳打ちしている内容のことなど、何ひとつ。

『ねぇ見た? 今夜エマがしている、ルビーのイヤリング――あれね、彼女が妹のモニカから無理矢理取り上げたんですって。というのもね――あのイヤリングはアンソニーが、モニカに贈ったものらしいのよ。貴族社会に馴染めない彼女を励まそうと、彼が親切心でプレゼントしてあげたのね。アンソニーはエマと結婚したら、モニカは義理の妹になるから、目をかけてあげるのは当然の話よね。だけどエマは心が狭いから、美しい妹に彼を盗られてしまうと思い込んで、ヤキモチを焼いたのでしょう。みっともないわ』

 ――ところでなぜこんなふうに、エマに対して敵対的な噂が、素早く広まってしまったのだろうか?

 その答えは、ローズ・グリフィスという令嬢にあった。

 昔からエマには社交界に天敵といえる相手がおり、それが伯爵令嬢のローズ・グリフィスだった。エマとローズは何かというと意見が合わず、いつも反目し合っていた。

 エマの天敵であるローズ嬢――彼女はなぜか、下町育ちのモニカに対しては、出会ってすぐに波長が合うと感じたようだ。そこでローズ嬢は何かというとモニカを贔屓するようになった。

 そうした背景があり、イヤリングの話はローズ嬢が捏造し、吹聴した。そしてこの内容があまりに低俗で人々の関心を引いたために、一気に拡散したのだった。

 ――この日、所用により少し遅れて会場に到着したアンソニーは、エマが着けているルビーのイヤリングを眺め、冷めた顔つきになった。

 彼は明らかに気分を害していた。


「――君には似合わない」


 彼はエマの同意を得ず、彼女の耳からイヤリングを外してしまう。

 エマは驚き、何も言えずに彼を見上げた。


「ちょっと失礼」


 アンソニーがそのままどこかへ行ってしまい、エマはその場に残された。


   * * *


 少したってアンソニーがサファイアのイヤリングを手にして戻って来た。

 それをエマに着けてやりながら、静かな声でこんなことを言う。


「君はこれを着けておくべきだ」


「そう、でも……モニカは?」


「彼女には、君が先ほどまで着けていたものを渡した」


 彼の繊細な指が、エマの耳たぶに触れる。

 彼はモニカの耳にも触れたのかしら……エマはそんなことを思った。

 エマはアンソニーを見上げた。シャンデリアの灯りが、新芽のように瑞々しい、エマの瞳を照らす。

 エマは小首を傾げて微笑んでみせたけれど、彼の気分を害したかもしれないと、少しだけ落ち込んでいた。


「あなたのイヤリングが戻ってきたわ」


「君はこれがいいんだろう?」


「そうね、これがいい」


「気に入っている理由は?」


「あなたがくれたから」


「ああ――君は何かというと僕に抱き着いて、離さないものな」


「きつくまとわりついて、あなたを窒息させてやりたいと思っているの。いつもね」


 エマが冗談めかして言うと、


「ああ、そう。そいつはどうも」


 彼が投げやりに肩を竦めてみせる。

 もう怒っていないみたいだわ……エマはそう解釈し、ホッと息を吐いた。

 けれど彼女の見通しは甘かった。アンソニーは静かに激怒していた。


   * * *


 その夜以降、エマは体調を崩した。

 体がだるく、微熱が続き、起きていられない。

 エマは少しずつ衰弱していき、体重が一気に五キロも減った。

 アンソニーは婚約者の義務とでも考えているのか、三日にあげずランカスター家にやって来ては、彼女を見舞った。

 エマはもう終わりが近いような気がしていた。

 体力が落ちると気も滅入ってくる……エマは青白い顔で、最愛の人を見遣った。


「ねぇ……お願いを聞いてくれる?」


「ああ、なんでも」


 承諾してくれた彼は親切だわ、とエマは弱々しい笑みを浮かべる。


「あなたの家に行きたいわ。猫ってね、死ぬ時は、飼い主に見つからないように死ぬって聞いたことがある。だけど私は猫じゃないから、あなたの前で死にたい」


「君がその馬鹿話をやめるなら、すぐにでも連れて行くよ」


 彼はいつもどおりの態度だったけれど、瞳には仄暗い感情が込められているような感じがした。

 エマは衝動的に彼の手を握り締めた。


「うちにおいで、と言って?」


「うちにおいで、エマ」


「ありがとう、アンソニー……私たち、出会ってからずっと友達だったわ。あなたの友情に深く感謝している」


「友達だと思っているのは、君だけだよ」


「かもね。だけど私、あなたが友達じゃないと言い張っても、これからあなたの家に行くわ」


 エマは彼にお姫様抱っこをされ、寝衣のまま彼の屋敷まで運ばれた。

 着替えや手荷物は、侍女が慌てて取りまとめ、あとを追う形となった。


   * * *


 数日がたち、エマは奇跡的に回復した。

 環境が変わったのが良かったのだろうか?

 テラスで食事をしながら、エマがにっこり笑ってアンソニーに話しかける。


「私があなただったら、この食事に毒を盛るわね。そうしたらこの面倒な女とも縁が切れるのよ」


「なるほどね……今からでも遅くないかもしれない。執事に特別なスパイスを持って来させる」


「待って、それなら私、スパイスを振りかけられる前に遺書を書くわ――『私は毒殺されました、犯人はアンソニーです』ってちゃんと書くから、少し待ってちょうだいよ」


「君が死んだら、その遺書は燃やしてやる。証拠隠滅だ。だからどうぞご自由に」


 エマは「あんまりだわ」と膨れツラになった。

 アンソニーは淡い笑みを浮かべ、エマを眺めていた。


   * * *


 そのままエマはズルズルと彼の屋敷に滞在し続けた。

 ある日、妹のモニカからエマ宛に手紙が届いた。

『お姉様、私、困ったことになっているの。会いに来てくれないかしら。助けてほしいの。お姉様しか頼れない。お願いよ。日時と場所は――』

 その手紙は中身をあらためられ、暖炉の火にくべられた。


   * * *


 モニカが面会に指定した場所は、町外れにある古びた屋敷だった。少し前に家人が亡くなり、今は空き家になっているようだ。

 ――キィ、と音がして、玄関扉が開いた。

 屋敷内の暗がりには複数の男たちが潜んでいた。彼らは開いた扉のほうをじっと注視していた。

 獲物に逃げられないよう、相手がもう少し中に入ってから飛びかかろう……そう考えながら息を殺して待つ。

 おや、しかし……これはどういうことだ?

 華奢な令嬢が現れるはずが、入って来たのは、ひとりの青年である。


 ――廃屋に足を踏み入れたアンソニー・ウッドオールは、冷めた視線で中を一瞥し、声をかけた。


「出て来い――ビジネスの話だ」


 アンソニーはフロックコートのポケットに手を入れ、札束を取り出し、顔の横で振ってみせた。


   * * *


 モニカは妖精のように跳ね、踊るように通りを歩いた。


「――ああ、素晴らしいわ!」


 今日はあいにくの曇り空だが、彼女の心は晴れ渡っている。

 これでアンソニーは私のもの! モニカは往来で歌い出したい気分だった。

 作戦は少しずつ、怪しまれないように進めた。

 彼女は取り巻き男のマイケルから貢がれたルビーのイヤリングを、ある夜会で姉に押しつけた。そして姉が着けていた素晴らしいサファイアのイヤリングを、代わりに借り受けた。

 そして夜会に出席している令嬢たちに、「アンソニーからプレゼントされたイヤリングを、姉に取り上げられてしまったの」と泣きつき、同情を買うことに成功した。本当は取り巻き男のマイケルにもらったのに、アンソニーからプレゼントされたと嘘をついたのだ。

 そしてアンソニーには、「エマはマイケルが好きみたい。私が彼からもらったイヤリングを、取り上げてしまったの」と泣きつき、彼の不信感をかきたてた。

 でも、ああ……毒を盛った件は、残念ながら中途半端に終わってしまったわ。

 忌々しいあの女はアンソニーにねだって、彼の屋敷に強引について行ってしまったのだから。

 ――まったく図々しいクソ女だこと!

 でもこれでエマの命運も尽きたわね。今頃オンボロ屋敷で、彼女はゴロツキどもに、好き勝手に回されているだろう。

 モニカが角を曲がると、街路端に停まっていた一台の馬車から、男どもがわらわらと飛び出して来た。

 そして数秒後――モニカは馬車内に引っ張り込まれた。


   * * *


 モニカは廃屋に連れ込まれ、自分が雇ったはずのゴロツキたちに乱暴された。

 顔をナイフで切りつけられ、焼けるような痛みに耐えきれず悲鳴を上げる。しかし口にはボロキレを押し込まれていたので、くぐもった呻き声が漏れただけだった。

 た、助けて、助けて、誰か――私の王子様――アンソニー!

 視線を巡らせるが、アンソニーはいない。

 モニカは夢心地に考え続けた……だ、大丈夫よ、いまに彼が助けに来てくれる、来てくれる……来てくれる……。

 私、ずっと、エマになりたかった。恵まれた裕福な家庭で育ち、アンソニーという素敵な婚約者がいるエマに。

 もしかしたら、エマは私だった――そうでしょう? 生まれた順番が逆だっただけで、理不尽に差がついてしまった。自分は下町育ちで、貧乏を味わい尽くしてきたのに、おかしいわ。

 こんな目に遭うくらいなら、『可愛くて人気者のモニカ』より、『変わり者でも、アンソニーと婚約できたエマ』のほうがずっといいんじゃない?

 エマはアンソニーに愛されていないから負け犬だけれど、少なくとも、こんなふうに暗い廃屋でゴロツキどもに襲われてはいない。

 モニカは犯されながら、頭の中で、呪文のように唱え続けた。

『私はエマよ、モニカじゃない。私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ……』


:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::

 目が覚めた時、そこは檻のついた特別な病室だった。

 夢うつつで過ごすうちに、ある日、最愛の彼が会いに来てくれたの。彼はこちらを見おろし――。


「醜いね」と言った。

 私に――『エマ』に、そう言ったのよ。

 婚約者に対して、ひどいわ。

 それから――「来るのは、これが最後だ」とも言っていた。

 なぜ……ねえ、なぜ?

 私が『エマ』だから? じゃあ私が可憐な『モニカ』だったら、彼はそばにいてくれた?

 あれ? でも……アンソニーが『モニカ』のものだったことが、過去に一度でも、あったかしら?

 そもそも『モニカ』って誰だっけ?

 どうして今、私は『モニカ』という名前を思い浮かべたの?

 私、その女性と知り合いだった?

 分からない。

 何も分からないわ……どうしてかしら。

 頭に霞がかかったみたいに、もう何も分からないのよ。

:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::




 エマ、愛している(終)

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