エマ、愛している
※この話は昔小説家になろうに掲載していたものです※
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――このところ『幸せ』についてずっと考えている。
それは今の私にとっては、空に浮かぶ雲のように遠くに感じられるものだ。
手を伸ばしても、伸ばしても、決して届きはしない。
私は今ベッドに横たわり、白い天井を眺めている。鼻の奥をツンと刺すような、刺激の強い、消毒液の匂いに包まれながら。
顔の大部分には、仰々しく包帯が巻かれている。今は薬が強く効いているようで、痛みはそんなに感じなかった。けれど夜になれば麻酔の効果も切れて、耐えがたい苦痛にさいなまれることだろう。
おそらく私は
どうしてこんな怪我を負う破目になったのか、詳細はよく覚えていないのだけれど、私をこんな目に遭わせたのは、最愛の――……
不意に、天井を背景にして、綺麗な顔がフレームインしてきた。
「醜いね」
こちらを見おろして、淡々とした口調で彼が言う。
「君はこの上なく
「アンソニー」
私の瞳から涙がこぼれた。
この涙の意味は? 自問自答してみる。
無様だと彼に罵られたから、悲しくて泣いているの?
いいえ、違う――私にはそれが分かっていた。だって体が燃え上がりそうなほどに熱い。
私は今、喜んでいる――だって彼が来てくれた! それで嬉しくて、泣いてしまったの。
ああ、私はなんて惨めな人間なのだろう! この雫が、屈辱から絞り出された悔し涙ならばよかったのに……いっそ彼を憎めたらよかったのに……。
「あなたは私を愛せないの?」
望みを込めて尋ねる。
「無理だ」
まるでためらわずに彼が答えた。
「婚約していたのに、なぜ……」
「君はすべてを間違えている。君のことはちっとも好きじゃなかった。出会った時から、ずっとね」
「もしも……」
私の声には懇願の色が混ざっていた。だめだと分かっていても、どうしても諦めきれない。
「もしも……長い年月がたったら? そうしたらあなたの気が変わるかも。もしも、太陽が一万回昇ったあとなら……」
私は必死なのに、彼はこの上なく冷めていた。透き通った冬の湖みたいに、怜悧な瞳でこちらを見おろしてくる。その在り方があまりに超然としていたので、かえって慈悲深いようにも感じられたほどだった。
「たとえ太陽が一万回沈んだあとでも、僕が君を愛することはない。君は僕の愛する人に危害を加えた。許すことはできない」
「それは誤解よ! 私は何もしていない」
「もう喋るな――こうして君の声を聞いているだけで、ぞっとする」
「でもあなたはここへ来た。来てくれた」
「来るのは、これが最初で最後だ」
彼が初めて笑顔を見せた。にっこりと、晴れやかに。
「さようなら――もう二度と会うことはないだろう」
「そんな! 待って!」
彼に縋ろうとすると、看護士がわらわらと群がって来て、私を乱暴に押さえつけた。腕や肩を握り潰そうとしているかのような、容赦のない力の込め方だった。
「鎮静剤を」
彼が短く指示する。直後、首筋に鋭い痛みが走り、何かの液体が体の中に流れ込んでくるのが分かった。私の瞼がゆっくりと落ちる。
眠りに引き込まれながら、どうして……と繰り返し問うていた。
ねえ……こんなに呆気なく、私が大切にしてきた婚約は破棄されてしまうの? もう彼には会えないの? 何がいけなかったの?
彼が私を呼ぶ時の、「エマ」という落ち着いた響きが好きだった。それは私にとっての、ささやかな幸せ……四葉のクローバーを眺めているみたいな。
けれど私の心の中にある素晴らしい草原は、跡形もなくなった。
一年前、あの子が現れたことで、人生の歯車が狂い始めた。
腹違いの妹である、美しく可憐なモニカ――我が家にやって来た彼女が、私から最愛の人を奪い取った。
天使のようなモニカは皆から愛されていたから、夜会の一件では、姉の私はすっかり悪者扱い。
皆が可愛い
ねえ、アンソニー……私を愛せないというのなら、こんなふうに他人任せにせず、あなたの手で私を壊して。
私を見て。
私を壊して。
どうかお願い――……。
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ふたりの婚約が調ったのは、エマが十五歳、アンソニーが十七歳の時だった。
この時はまだ良かった――エマの腹違いの妹である、美しいモニカが入り込んでいなかったから。当時、彼女はどこか遠くで暮らしていて、顔も知らなかった。
ここにいるのは、エマとアンソニーだけ。伯爵家同士ということで、身分的には釣り合いが取れていた。
美しいモニカがいないのだから、エマとアンソニーは、初対面で互いに好意を抱いた?
さあ……それはどうかしら。だって、ふたりの在り方は対照的だったの。
お転婆で、色気がないエマ。
対し、思慮深く、王子様のように魅力的なアンソニー。
アンソニーはネガティブな感情を巧みに押し殺していたけれど、時折伏し目がちになっていたので、この縁談に乗り気ではなかったみたい。
これは親にも責任がある。初顔合わせで、さして関係性も深まっていないというのに、大人たちは無責任にも「ふたりで散歩でもしていらっしゃい」などと言い出して、エマとアンソニーを屋敷から追い出してしまったのだから。
まったくもう……どうしろっていうのよ。
エマは親たちに内心呆れたけれど、もともと呑気なところがあったから、『無理に好かれようとしても無駄ね』と割り切って、自由に振舞うことにした。
太陽の下に出たエマは、彼の手をグイと乱暴に掴んで、「こっちよ!」と引っ張った。
お見合いはエマの家――ランカスター伯爵家で行われたので、このあたりは彼女の縄張りである。
手を引かれたアンソニーは初め少し驚き、次いで微かに眉根を寄せたのだが、文句は言わなかった。もしかすると彼は、負の感情を殺すことに慣れていたのかもしれない。
見晴らしの良い丘の上に出ると、エマはキラキラした笑みを浮かべ、彼のほうを振り返った。
「ねぇ、こうしない? この丘を全速力で下って、その先にある深い森を抜け、もっと、もっと、奥へ進むの――どう?」
提案を聞き、彼は迷惑そうに眉根を寄せた。
「どう、と言われても」
「今見ている景色よりも、ずっと素敵なものが現れるはずよ。虹だって見える……たぶんきっとね」
「君は嘘つきだ、虹が見えるわけがない」
確かにアンソニーの言うことは、もっともだった。
現状ふたりは小高い丘の上にいて、眼前の空は青く透き通っている。雨上がりというわけでもないし、空気はカラリと乾燥し、虹が出そうな気配はどこにもない。
それでもエマは言い張った。
「見えるわ」
「なぜ?」
「私が見たいから、よ――行けば、きっと見える」
これに対しアンソニーがすっと瞳を細めた。彼の反応に軽蔑の色を読み取ったエマは、思わず口元をへの字に曲げた。
「何よ、つれない態度ね……じゃあ賭ける? 虹が見えるかどうかを」
この時点ですでに、アンソニーはエマを持て余していた。会話になんの脈絡もないし、突拍子がなさすぎる。彼女が何を考えているのか、まるで理解できない。
「――競争よ!」
アンソニーが考えごとをしているあいだに、エマが走り出した。ドレスの裾を翻し、一直線に丘を駆け下りて行く。
風が強く吹き抜けた。
走る彼女の足元で草木が揺れ、陽光を眩く弾く。
アンソニーは呆気に取られた。
……なんだ、あの女は?
あと何年かたったら、僕は彼女と結婚するのか? あのハチャメチャな女と?
信じられない。
そんなことを考えているあいだに、あっという間に彼女は木立の中に消え、姿が見えなくなった。風が草原をサラサラと揺らす音を、立ち尽くしたまま聞く。
アンソニーは足を一歩前に踏み出した。初めはゆっくりだった歩みが、やがて小走りに変わる。ふと気づけば彼は全力で駆けていた。
森に入った途端、一気に薄暗くなる。彼女はどこにもいない。
――カン!
どこかで甲高い音が響き、鳥がバサバサと飛び立った。彼女が木の幹を叩いたのだろうか?
「エマ……?」
アンソニーは顰めツラになり、森の中を進んで行く。
前方でガサガサと音がして、足を止めた。音のした辺りをじっと窺っていると、草をかき分けて兎がひょっこりと顔を出した。思わずホッと息を吐いた、その瞬間――。
「アンソニー!」
横手からエマが飛び出して来た。
彼女はしなやかにジャンプし、ためらいなく彼に抱き着いてきた。枝上で暮らす動物が木の幹にしがみつくみたいに、アンソニーに足を絡ませ、無遠慮に巻きついてくる。
驚いて横を向くと、至近距離に彼女の顔が――瑞々しい緑の瞳が輝きを放っていた。
「遅いわ、アンソニー!」
一方的に彼女が責めてくる。こんなに生き生きとして楽しげに響く文句は、これまでに聞いたことがない。
「重い……」
アンソニーは小さく呟きを漏らす。
「私をおんぶして運びなさい」
「なぜそんなことをしなければならない」
「遅れて来た罰よ」
「馬鹿馬鹿しい、下りてくれ」
「あなたが拒否しても、私は下りないから」
「……僕はこんなお猿さんと結婚させられるのか?」
「あら、やったじゃない! あなたは人類で初めてお猿さんと結婚した男になれるわよ!」
エマは横向きに抱き着いていたのだが、足を一度も地面に着けることなく、器用に体を捻ってアンソニーの背後に回った。そして最終的におぶさる形で落ち着くと、「進め!」だの「アンソニーの間抜け!」だの散々悪態をつき、彼をこき使った。
やりたい放題の彼女が愉快そうに笑うのを、アンソニーは黙って聞いていた。
* * *
アンソニーが十八の時、彼の父が亡くなった。病死だった。
葬儀が終わり、ふたりは丘の上にやって来た。ブランケットも何も敷かずに、草の上に直接腰を下ろす。
エマはドレス姿でも頓着せず、あぐらをかき、悲しげにアンソニーのほうを見て、彼の肩をそっと抱いた。
普段は感情を表に出さないアンソニーが、目元を手のひらで覆い、声を殺して泣く。
「……父は僕のことを理解してくれた、唯一の家族だった」
彼の母は存命であるけれど、だからといって近しい存在ではない。アンソニーは複雑なところのある青年で、そんな彼を一番深く理解していたのが、父親だったのだ。
エマは我慢していたけれど、やはりだめだった。くしゃりと顔を歪め、大粒の涙をこぼす。エマもアンソニーの父が好きだったから、胸が張り裂けそうだった。
エマは「私がいるわ」と言わなかった。慰めの言葉は口にせず、ただ静かに彼に寄り添い、彼の倍泣いて、深く悲しんだ。
アンソニーは彼女に縋り、肩を震わせた。
青い空が茜色に変わるまで、ふたりはそのままでいた。
* * *
エマ、十九歳。アンソニー、二十一歳の秋――今から一年前のこと。
ランカスター家に可憐なモニカがやって来た。当時、彼女は十六歳。蕾の段階でも、彼女は驚くほど美しく、光り輝いていた。
モニカは父が外で作った子供で、つい最近まで下町で育った。彼女の母親が亡くなったので、うちで引き取ることになったらしい。
両親が罵り合っている声を後目に、エマはモニカの手を取り、家を出た。
ふたり並んで散歩道を歩く。
「とんだ家に来ちゃったわね」
エマがそう言うと、モニカは大きな瞳を丸くして、こちらを見返した。
「そんな……私、とてもありがたいと思っているわ。これで飢えずに済むんですもの」
「そう」
それを聞いた途端、エマは罪悪感に襲われた。苦労してきたモニカのことも考えず、安直にものを言いすぎたことに気づいたのだ。
「ごめんなさい、事情も知らずに変なことを言って」
気まずさを感じながら謝れば、
「いえ、いいの」
モニカはすぐに許してくれた。
エマは不思議な気持ちになり、物柔らかに瞳を細める。
「あなたと私は、半分血が繋がっているのよね……嘘みたい」
こんなに綺麗な女の子が、血のつながった妹だなんて。
エマの戸惑った声を聞き、モニカは小首を傾げた。
「嘘みたい? そうかしら……私たち、似ていると思うわ」
「似ているかしら?」
「とにかく私、嬉しいのよ。お姉様と暮らせるんだもの」
モニカが頬を赤らめ、はにかんだように笑う。
瞳の中に、星が煌めいている。エマはモニカを眺め、やはり美しい子だと思った――意思が強そうなくっきりとした眉も、癖のないサラサラなブルネットの髪も、彼女によく合っている。
「……あなたって、女神様みたい」
可憐で清廉なモニカを眺め、エマはうっとりと呟いた。
* * *
エマは、妹のモニカとアンソニーがどんなふうに顔合わせをしたのか、よく知らない。
というのも次の週末、彼がランカスター家を訪ねて来た日に、エマは熱を出してしまい、たったひとり暗い部屋の中で横になっていたからだ。
下階では来客のアンソニーも加わり、一緒に夕食の席を囲んだらしい。
時折、みんなが談笑する声がエマの寝室まで響いてきたように思う。
あるいは……それは熱がもたらした幻聴だろうか。
食事の前にアンソニーがわざわざ寝室を訪ねてくれて、病気を気遣ってくれたのだけれど、エマは彼に風邪を移すのが嫌で、そっけなく振舞ってしまった。
あとになってから、エマはこの行動を後悔することになる。
もしも……もしもあの時、彼の気遣いに対してきちんとお礼を言えていたなら、何かが変わったかしら? そんなことを思ったりして。
けれどエマだってちゃんと分かっている――何をしても、結局何も変わりはしなかっただろう、と。
彼の心は彼だけのもので、外から自由にいじれるようなものではないのだ。
そもそも、だ――アンソニーに限らず、男の人はみな同じではないかしら。
素直で、おしとやかで、美しい
* * *
夜会に出席する日のこと。
身支度を整えたエマは、着飾った美しい
誰かからのプレゼントかしら……エマはぼんやりと考える。それとも……お小遣いを溜めて、自分で買った?
エマはモニカを元気づけたくなり、イヤリングを褒めることにした。妹はまだ貴族社会に馴染めておらず、いつも自信なさげだったから。
「それ、とっても素敵ね。あなたによく似合っているわ」
エマがにっこり笑って声をかけると、モニカはかぁっと頬を赤らめた。
視線を彷徨わせ、オドオドし始める。
「あの……私、なんて言ったらいいか……私には、こういうの……」
「いいじゃない、それ。自信持って」
「ええと、そう?」
「うん、私が着けたいくらい」
冗談でそう言ったのに、純粋なモニカは本気にしたようで、耳から赤いイヤリングを外して、こちらに差し出してきた。
「ねぇ、じゃあ、お姉様がこれを着けて?」
エマは焦った。ああ……言葉選びを間違えてしまった!
「何を言っているの、だめよ!」
「お願い、お願いよ……これは、お姉様に着けてほしいの。私が着けるべきじゃない気がして」
「着けるべきじゃないって、どういう意味?」
「いえ、気にしないで。とにかくこれはお姉様が着けて」
モニカが押しつけてくるルビーのイヤリングが、エマにとっては負担だった。
すごく困るわ……どうしてこうなったの?
「ねえモニカ、聞いて――」
「お姉様こそ聞いて――お願いよ! 私のイヤリングを受け取って、その代わりに、お姉様が着けているサファイアのイヤリングを、私に貸してもらえないかしら?」
そう言われ、エマは耳元に手を伸ばした。
このイヤリングは、アンソニーからプレゼントされたものだ。二年前にもらって以降、気に入って何度も着けている。
断ろうとしたのだが、モニカが切羽詰まった様子で、こちらにしがみついてくる。
「私ね――サファイアに憧れがあるの。ずっと着けてみたいな、って思ってた。でも家が貧しくて、叶わなかったの。今夜一晩だけ……だめかしら?」
ああ……エマは呻きたい気分だった。だけどそう――妹のイヤリングを褒めて、変な空気にしてしまったのは、私が悪かったのかも。そんなふうに罪悪感を覚えると、モニカからの頼みを断われなくなった。
それに『アンソニーなら大丈夫よね』という甘えもあった。
一晩妹に貸すくらいで、彼は怒ったりしないはず。このサファイアのイヤリングは、プレゼントされたばかりというわけでもないしね……もらったのは二年前で、彼の前で何度も着けている。私が気に入っているということも、彼にはちゃんと伝えてあるから、大丈夫。
貸すのは、今夜一晩だけ。一晩だけだもの……。
「分かったわ」
エマはモニカから赤いイヤリングを受け取り、自分が着けていたサファイアを渡した。
* * *
パーティの最中、エマは方々から向けられる好奇の視線を感じた。
……なんだろう?
それらはポジティブなものとは言いがたく、チクチクした刺激的な何かを含んでいた。
エマはまるで知らなかった――ある婦人が、隣の婦人に耳打ちしている内容のことなど、何ひとつ。
『ねぇ見た? 今夜エマがしている、ルビーのイヤリング――あれね、彼女が妹のモニカから無理矢理取り上げたんですって。というのもね――あのイヤリングはアンソニーが、モニカに贈ったものらしいのよ。貴族社会に馴染めない彼女を励まそうと、彼が親切心でプレゼントしてあげたのね。アンソニーはエマと結婚したら、モニカは義理の妹になるから、目をかけてあげるのは当然の話よね。だけどエマは心が狭いから、美しい妹に彼を盗られてしまうと思い込んで、ヤキモチを焼いたのでしょう。みっともないわ』
――ところでなぜこんなふうに、エマに対して敵対的な噂が、素早く広まってしまったのだろうか?
その答えは、ローズ・グリフィスという令嬢にあった。
昔からエマには社交界に天敵といえる相手がおり、それが伯爵令嬢のローズ・グリフィスだった。エマとローズは何かというと意見が合わず、いつも反目し合っていた。
エマの天敵であるローズ嬢――彼女はなぜか、下町育ちのモニカに対しては、出会ってすぐに波長が合うと感じたようだ。そこでローズ嬢は何かというとモニカを贔屓するようになった。
そうした背景があり、イヤリングの話はローズ嬢が捏造し、吹聴した。そしてこの内容があまりに低俗で人々の関心を引いたために、一気に拡散したのだった。
――この日、所用により少し遅れて会場に到着したアンソニーは、エマが着けているルビーのイヤリングを眺め、冷めた顔つきになった。
彼は明らかに気分を害していた。
「――君には似合わない」
彼はエマの同意を得ず、彼女の耳からイヤリングを外してしまう。
エマは驚き、何も言えずに彼を見上げた。
「ちょっと失礼」
アンソニーがそのままどこかへ行ってしまい、エマはその場に残された。
* * *
少したってアンソニーがサファイアのイヤリングを手にして戻って来た。
それをエマに着けてやりながら、静かな声でこんなことを言う。
「君はこれを着けておくべきだ」
「そう、でも……モニカは?」
「彼女には、君が先ほどまで着けていたものを渡した」
彼の繊細な指が、エマの耳たぶに触れる。
彼はモニカの耳にも触れたのかしら……エマはそんなことを思った。
エマはアンソニーを見上げた。シャンデリアの灯りが、新芽のように瑞々しい、エマの瞳を照らす。
エマは小首を傾げて微笑んでみせたけれど、彼の気分を害したかもしれないと、少しだけ落ち込んでいた。
「あなたのイヤリングが戻ってきたわ」
「君はこれがいいんだろう?」
「そうね、これがいい」
「気に入っている理由は?」
「あなたがくれたから」
「ああ――君は何かというと僕に抱き着いて、離さないものな」
「きつくまとわりついて、あなたを窒息させてやりたいと思っているの。いつもね」
エマが冗談めかして言うと、
「ああ、そう。そいつはどうも」
彼が投げやりに肩を竦めてみせる。
もう怒っていないみたいだわ……エマはそう解釈し、ホッと息を吐いた。
けれど彼女の見通しは甘かった。アンソニーは静かに激怒していた。
* * *
その夜以降、エマは体調を崩した。
体がだるく、微熱が続き、起きていられない。
エマは少しずつ衰弱していき、体重が一気に五キロも減った。
アンソニーは婚約者の義務とでも考えているのか、三日にあげずランカスター家にやって来ては、彼女を見舞った。
エマはもう終わりが近いような気がしていた。
体力が落ちると気も滅入ってくる……エマは青白い顔で、最愛の人を見遣った。
「ねぇ……お願いを聞いてくれる?」
「ああ、なんでも」
承諾してくれた彼は親切だわ、とエマは弱々しい笑みを浮かべる。
「あなたの家に行きたいわ。猫ってね、死ぬ時は、飼い主に見つからないように死ぬって聞いたことがある。だけど私は猫じゃないから、あなたの前で死にたい」
「君がその馬鹿話をやめるなら、すぐにでも連れて行くよ」
彼はいつもどおりの態度だったけれど、瞳には仄暗い感情が込められているような感じがした。
エマは衝動的に彼の手を握り締めた。
「うちにおいで、と言って?」
「うちにおいで、エマ」
「ありがとう、アンソニー……私たち、出会ってからずっと友達だったわ。あなたの友情に深く感謝している」
「友達だと思っているのは、君だけだよ」
「かもね。だけど私、あなたが友達じゃないと言い張っても、これからあなたの家に行くわ」
エマは彼にお姫様抱っこをされ、寝衣のまま彼の屋敷まで運ばれた。
着替えや手荷物は、侍女が慌てて取りまとめ、あとを追う形となった。
* * *
数日がたち、エマは奇跡的に回復した。
環境が変わったのが良かったのだろうか?
テラスで食事をしながら、エマがにっこり笑ってアンソニーに話しかける。
「私があなただったら、この食事に毒を盛るわね。そうしたらこの面倒な女とも縁が切れるのよ」
「なるほどね……今からでも遅くないかもしれない。執事に特別なスパイスを持って来させる」
「待って、それなら私、スパイスを振りかけられる前に遺書を書くわ――『私は毒殺されました、犯人はアンソニーです』ってちゃんと書くから、少し待ってちょうだいよ」
「君が死んだら、その遺書は燃やしてやる。証拠隠滅だ。だからどうぞご自由に」
エマは「あんまりだわ」と膨れツラになった。
アンソニーは淡い笑みを浮かべ、エマを眺めていた。
* * *
そのままエマはズルズルと彼の屋敷に滞在し続けた。
ある日、妹のモニカからエマ宛に手紙が届いた。
『お姉様、私、困ったことになっているの。会いに来てくれないかしら。助けてほしいの。お姉様しか頼れない。お願いよ。日時と場所は――』
その手紙は中身をあらためられ、暖炉の火にくべられた。
* * *
モニカが面会に指定した場所は、町外れにある古びた屋敷だった。少し前に家人が亡くなり、今は空き家になっているようだ。
――キィ、と音がして、玄関扉が開いた。
屋敷内の暗がりには複数の男たちが潜んでいた。彼らは開いた扉のほうをじっと注視していた。
獲物に逃げられないよう、相手がもう少し中に入ってから飛びかかろう……そう考えながら息を殺して待つ。
おや、しかし……これはどういうことだ?
華奢な令嬢が現れるはずが、入って来たのは、ひとりの青年である。
――廃屋に足を踏み入れたアンソニー・ウッドオールは、冷めた視線で中を一瞥し、声をかけた。
「出て来い――ビジネスの話だ」
アンソニーはフロックコートのポケットに手を入れ、札束を取り出し、顔の横で振ってみせた。
* * *
モニカは妖精のように跳ね、踊るように通りを歩いた。
「――ああ、素晴らしいわ!」
今日はあいにくの曇り空だが、彼女の心は晴れ渡っている。
これでアンソニーは私のもの! モニカは往来で歌い出したい気分だった。
作戦は少しずつ、怪しまれないように進めた。
彼女は取り巻き男のマイケルから貢がれたルビーのイヤリングを、ある夜会で姉に押しつけた。そして姉が着けていた素晴らしいサファイアのイヤリングを、代わりに借り受けた。
そして夜会に出席している令嬢たちに、「アンソニーからプレゼントされたイヤリングを、姉に取り上げられてしまったの」と泣きつき、同情を買うことに成功した。本当は取り巻き男のマイケルにもらったのに、アンソニーからプレゼントされたと嘘をついたのだ。
そしてアンソニーには、「エマはマイケルが好きみたい。私が彼からもらったイヤリングを、取り上げてしまったの」と泣きつき、彼の不信感をかきたてた。
でも、ああ……毒を盛った件は、残念ながら中途半端に終わってしまったわ。
忌々しいあの女はアンソニーにねだって、彼の屋敷に強引について行ってしまったのだから。
――まったく図々しいクソ女だこと!
でもこれでエマの命運も尽きたわね。今頃オンボロ屋敷で、彼女はゴロツキどもに、好き勝手に回されているだろう。
モニカが角を曲がると、街路端に停まっていた一台の馬車から、男どもがわらわらと飛び出して来た。
そして数秒後――モニカは馬車内に引っ張り込まれた。
* * *
モニカは廃屋に連れ込まれ、自分が雇ったはずのゴロツキたちに乱暴された。
顔をナイフで切りつけられ、焼けるような痛みに耐えきれず悲鳴を上げる。しかし口にはボロキレを押し込まれていたので、くぐもった呻き声が漏れただけだった。
た、助けて、助けて、誰か――私の王子様――アンソニー!
視線を巡らせるが、アンソニーはいない。
モニカは夢心地に考え続けた……だ、大丈夫よ、いまに彼が助けに来てくれる、来てくれる……来てくれる……。
私、ずっと、エマになりたかった。恵まれた裕福な家庭で育ち、アンソニーという素敵な婚約者がいるエマに。
もしかしたら、エマは私だった――そうでしょう? 生まれた順番が逆だっただけで、理不尽に差がついてしまった。自分は下町育ちで、貧乏を味わい尽くしてきたのに、おかしいわ。
こんな目に遭うくらいなら、『可愛くて人気者のモニカ』より、『変わり者でも、アンソニーと婚約できたエマ』のほうがずっといいんじゃない?
エマはアンソニーに愛されていないから負け犬だけれど、少なくとも、こんなふうに暗い廃屋でゴロツキどもに襲われてはいない。
モニカは犯されながら、頭の中で、呪文のように唱え続けた。
『私はエマよ、モニカじゃない。私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ、私はエマ……』
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目が覚めた時、そこは檻のついた特別な病室だった。
夢うつつで過ごすうちに、ある日、最愛の彼が会いに来てくれたの。彼はこちらを見おろし――。
「醜いね」と言った。
私に――『エマ』に、そう言ったのよ。
婚約者に対して、ひどいわ。
それから――「来るのは、これが最後だ」とも言っていた。
なぜ……ねえ、なぜ?
私が『エマ』だから? じゃあ私が可憐な『モニカ』だったら、彼はそばにいてくれた?
あれ? でも……アンソニーが『モニカ』のものだったことが、過去に一度でも、あったかしら?
そもそも『モニカ』って誰だっけ?
どうして今、私は『モニカ』という名前を思い浮かべたの?
私、その女性と知り合いだった?
分からない。
何も分からないわ……どうしてかしら。
頭に霞がかかったみたいに、もう何も分からないのよ。
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エマ、愛している(終)
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