私を殺しに来た男


 私の名前はイネス・ミランド。


 深い森の奥に建つ古びたお城で、隠遁(いんとん)生活を送っている。


 ここは古(いにしえ)の魔法使いたちの棲み処であり、幾重にも目隠しのまじないがかけられている。


 けれど安心はできない。


 どんな策を講じても、彼は私を見つけ出すだろう。


 だって彼の愛するアナベラが死んだから。


 彼はきっとやって来る。


 そして私を殺すだろう。


 アナベラの死の責任を負わせるために。


 私を殺しに来る男――彼は生涯ただひとり、私が愛した人。


 愛しいあの人の名は――……




   * * *




「その名を思い出してはならぬ」


 鷹が窓から室内に舞い入り、物思いに沈む私を戒めた。


 鷹はいつだって正しい。


 空高く舞い、すべてを俯瞰することができるから。


「彼の名を思い出せば、そなたにかけた姿隠しのまじないが破れる。やつに見つかってしまう」


 鷹が警告を与えているあいだに、青いローブを身に纏った賢者が部屋に入って来た。


「――食事の時間だ、イネス」


 賢者はとても親切な人だ。


 彼は無口であったが、良く世話を焼いてくれるし、イネスに対して献身的だった。


 いつもフードで顔を隠しているものの、おそらく若い男性であろうと思われた。声には張りがあり、手の甲には皺もない。


 彼こそが私をこの塔に運び入れ、匿ってくれた、命の恩人なのである。


 私は小さく頷いてみせ、肩の力を抜いた。


「顔を洗ってくるわ」


 洗面所に入るとすぐに、真っ黒に塗られた鏡がある。


 この細工は、自分の顔を見るのが嫌いな私がやった。


 見ずにすむならば、見ずに過ごしたい。


 桶に張った水でそっと顔を清める。


 リネンで水滴を拭ったあと、痛んだ髪をなるべく見ないようにして櫛けずり、身支度を整えてから部屋に戻った。


 すると窓辺で羽を休めていた鷹が、待ち構えていたかのように口を開く。


「夢を見たか? 隣国の夢を」


 私が見る不思議な夢の内容を、鷹はいつも知りたがる。重要なことなのだと言って。


 この問いに対し、さざめくように胸が騒いだ。


 いや……怖い……隣国のことを考えたくない……!


 喉元まで込み上げてくる苦さを、なんとかしてやり過ごす。


 私は声を詰まらせながら、問われたことに答えた。


「隣国の情勢に変化はないわ。災害などは起きていないと思う」


「そうか……相(あい)分かった」


 感情を抑えた声音で相槌を打つと、鷹はそのまま飛び去って行った。


 これらのやり取りを眺めていた青いローブの賢者が、案ずるように私を諭(さと)す。


「イネス、鷹の問いにはもっとしっかり答えねばならない。重要なことだから」


 感情が大きく揺れた。


 ――どうして? 何度も言っているじゃない、隣国のことは考えたくないの!


 心が乱れれば、堰(せき)を切ったように、嫌な場面が次々と蘇ってきた。


 ――血の赤。白いリネン。彼の繊細な指――


 禁じられた交わり。


 ああ、どうしよう、私はいけないことをしたの。だからきっと彼は、私を許さない。


 絶対に許さない――……


「私を殺しに彼が来るわ。――ルシアン・ミランドが」


 唇から彼の名前が零れ出る。知らぬうちに涙が頬を伝った。


 どうして涙が出たのかよく分からない。


 恐怖とも違う。私はただ……彼に会いたかったのかもしれない。


 願いが叶うなら、せめてもう一度だけ、彼に会いたかった。


 たとえそこで私の人生が終わるとしても。


 ――刹那、世界が白く反転した。


 上手く説明できないが、何かがずれて歪んだような感じがした。


 この空間を覆っていた殻が破れ、どこか別の場所とつながってしまったかのような、不思議な感覚。


 ふと気づけば私は塔の部屋で、ひとりぽつんと佇んでいた。


 さっきまで会話をしていた、青いローブの賢者が消えている。


 彼はどこへ行ったの? 私、は――……?


 不意に扉が開かれ、彼が中に入ってきた。


 私の愛しい人――義弟ルシアン・ミランドが。


 ああ、とうとう――彼が私を殺しにやってきた。




   * * *




 十年前、父の再婚をきっかけに私に義弟ができた。


 継母の連れ子であったその子は、天使のように美しかった。


 ふわふわした金色の髪に、深い海の底を思わせる澄んだ青い瞳。


 その綺麗な瞳を覗き込んだ瞬間、どこまでもどこまでも共に深く沈んで行きそうな、不思議な引力を感じたものだ。


 出会ったのは彼が七つで、私が十の時。


 まだふたりとも幼かった。


 それから長い年月かけて、私は彼への愛を深めていった。


 この狂おしい感情を、言葉では上手く説明できそうにない。


 彼は私のすべてだった。


 出会ってから十年の歳月がたち、彼が十七、私は二十歳に。


 私たちは大人になって、とうとう都合の良い夢から醒める時がやって来た。


 私と義弟双方に、婚約者があてがわれたのだ。


 義弟の婚約者に決まったのは、ガルグール王の三番目の娘であるアナベラ・ガルグールという美しい娘だった。


 彼女のブルネットの巻き髪は手入れが十分に行き届いていて艶やか。


 瞳は新緑のような瑞々しさを宿している。


 一方、私の婚約者に決まったのは、ロイスという名のふたつ年上の男性だった。


 青い騎士服を身に纏った背の高い彼は、『出世欲の塊』と周囲から評される人物である。彼はアナベラ姫の騎士を務めていたので、おそらく王家からの信頼も厚く、順調にキャリアを積んできたのだろう。


 そう――彼はずっと順風満帆だったのだ。私を押しつけられるまでは。


 婚約が決まってすぐに、顔見せのためアナベラとロイスが当家を訪れた。


 初対面のロイスは私の顔を見てこう言った――彼特有の、気難しい顰めツラで。


「なんと魅力のない……アナベラ姫と大違いだ」


 幸せな結婚生活は到底望めないと悟った瞬間だった。


 彼のあるじである小柄なアナベラ姫が、申し訳なさそうな顔つきで詫びを入れた。


「私の騎士がご無礼を申しました」


 彼女はきっと親切で善良な人なのだろう。詫びる必要のないことで、私を気遣ってくれたのだから。


 以降、アナベラは何度も当家を訪れることになる。


 義弟のルシアンが彼女に話しかけている場面を、遠目に幾度か目撃した。


 ――記憶が揺らぐ――……


 あの最後の日、ルシアンは強い瞳で私を睨み据え、呪いの言葉を吐いた。


「絶対に許さない――殺してやる」


 おそらく私はこの時、歓喜した。どうせ散るならば、私はあなたに殺されたい。


 もう私は息をするのも苦しいの。


 だからどうか――どうか、あなたの手で終わらせて。




   * * *


 塔の部屋に入って来た義弟は、すぐに私を斬って捨てることはせず、窓辺に置かれた小卓のほうへと誘った。


 そうして私に椅子をすすめ、自らも向かい合う形で腰を下ろした。


「少し話をしよう」


 ルシアンが言う。


 私は静かな気持ちで彼に相対し、


「何を話すと言うの?」


 と尋ねた。


 何を語っても、時間の無駄のような気がしてしまう。


 けれど彼は凪いだような視線をこちらに据えて、静かに答えるのだった。


「順に思い出してみてほしい。あなたが考えを整理すれば、それが僕にも伝わる。――長い時間をかけたように思えても、外の世界では瞬きするくらいの短い時間しか経過していないから、急ぐ必要はないんだ」


 なるほど、合点がいった。


 つまり彼は、私に懺悔をさせたいのだ。


 非道な行いを心の底から悔い改めてからでないと、死なせはしないと思っているのだろう。


 それがあなたの望みなら、私は従おう。


 心を落ち着かせ、私は自分の人生を振り返ってみることにした。


 振り返りながら声に出して、彼に語って聞かせた。




   * * *




 あなたが当家にやって来た時、すでに私は実父から虐待されていた。


 与えられる食べものは最小限で、使用人たちは皆私につらく当たる。殴られることもしょっちゅうだった。


 醜い顔だといつも誰かに罵られた。だから私は鏡を黒く塗り、自分の姿を見ないようにして過ごしていた。


 最低な毎日だったけれど、人というものは案外逞しいものらしく、私はなんとか生き延び、二十歳の誕生日を迎えることとなった。


 あの日私は、父から書斎に呼びつけられた。


 父は他者を平気で虐げる人なのに、物腰は獣じみておらず、静かで几帳面である。


 いつも病的なほどに身だしなみが整っており、髪の長さも左右でまるで違いがない。


「お前は義弟を愛しているのか? 近親婚は、この国の信仰では固く禁じられている。地獄に堕ちるそうだぞ」


 誕生日に聞きたい話でもなかったが、意図するところは伝わった。


 父はその狡猾さから、私が抱える後ろ暗い情念に、ちゃんと気づいていたらしい。


 ……けれどご心配なく。


 私はもとより近親婚など望んでいない。そして義弟のほうだって、それを望むはずもない。


 私は義弟に愛されていなかったし、宗教上も近親婚という禁忌は許されていないのだ。


 ――誰も望まない婚姻ならば、それが整うこともあるまい。


 彼は継母の連れ子なので、私たち姉弟に血のつながりはない――表向きはそういうことになっている。ところが、ことはそう単純でもないのだった。


 父と継母は昔から不義の関係にあり、義弟のルシアンは正真正銘、父の血を引いている。


 ルシアンは父が同じで母が異なる、腹違いの弟に当たるわけだ。


 だからありえない。私と義弟が結ばれる未来など、決して訪れはしない。


 頭ではちゃんと分かっている。しかし感情はそれとは別だった。


「お前とルシアン、ふたりの婚約が決まった。――当然、それぞれ別の相手とだ」


 次いで告げられたこの台詞は、私の精神を徹底的に打ちのめした。


 荊の棘が血管の中を這いまわっているかのよう。まるで全身を内側から切り裂かれているような痛みを感じた。


 この時の私は立っているのもやっとの状態だった。


 精神的なショックを受けたのもそうだが、実はここ最近ずっと体調を崩している。


 肌は潤いを失い、髪は色が抜け落ちてしまった。


 私の婚約者に決まった相手が、この容姿を見てがっかりする様子が、なんとなく想像できた。


「体の具合が悪そうだな。その理由を教えてやろうか」


 気まぐれを起こしたかのように、父がそんなことを言い出した。彼は同情心をわずかほども見せずに続けた。


「それはお前が隣国の血を引いているからさ。ことに魔力を多く持つ者は、力の発露とともに、同様の現象に悩まされるそうだ。お前の強大な魔力は、内へ内へと向かっていく。――私も例に漏れず、十代の頃は同じ症状に悩まされたものだよ」


 地母神を崇める隣国では、王族は神の末裔とされている。


 その昔、王家には強大な魔力を持つ者ばかりが生まれたそうであるが、近頃ではそういった事例はほとんど見られなくなっているらしい。血が薄まったせいだろう。


 しかし先祖返りという現象がある。


 皮肉なことにそれは、隣国の王家ではなく別の場所で起こった。――ほかでもないこの国で。


 天神信仰をかかげる我が国で、地母神の系譜を引く者の先祖返りが起きたのだ。


 父であるミランド卿は、さかのぼれば隣国の血を引く人物である。先々代のミランド卿が、隣国の姫と婚姻を結んだため、父はその血を受け継いだ。


 父の母(嫁いで来た姫が生んだ娘)は強い魔力を有していたと聞いている。


 それは精神に作用するたぐいの能力である。


 たとえば先見の力。


 これは術者が強い不安や不快にさいなまれた時、強く発露する傾向にあるようだ。


 それを知ったとき私は、自分が置かれている状況を正しく理解した。どうしてこのような異常な境遇で育てられたのか、その理由を。


 なぜ自分は父に疎まれ何度も殺されかけているのに、トドメを刺されることもなく、こうしてまだ生きているのか。


 まるで茶番のような駆け引きが、幼少期より何度も繰り返されてきたように思う。


 生かさず殺さず――それらはすべて、私の能力を引き出すための所業だったのだ。


 虐待から心を守ろうとする防御反応ゆえか、昔から私はよく夢を見た。


 その夢の世界では、父はいつも優しかった。


 夢を見てさえいれば、私はなんとか精神の均衡を保っていられた。


 しかしそれも近頃では限界に近づいているようだった。


 夢を見ても体が回復しない。病原菌に侵されるように、私の身体は日に日に弱っていった。


 普段は朗らかさともっとも縁遠い父が、動揺する私を見遣り、珍しく笑みを見せた。


「精神に働く力をコントロールするには、自らの心を広く解放する必要がある。人によってやり方は様々であろうが、もっとも単純な方法は、誰かと肌を重ねることだ。体が解放されることで、心も解放される」


 ……本当に? 私は耳を疑った。これは性質の悪い冗談だろうか。


 血の気の引いた私は、これ以上ここに立っていることすら難しくなった。


 上の空でいとまを乞い、よろける足でその場を去った。


 自室に戻った私は一晩まんじりともせずに考えた。


 ……先ほどの話は真実かもしれない。


 私に婚約者があてがわれたのが、何よりの証拠ではないか。


 おそらく王家は私の夢見の力を高く買っていて、隣国の情勢を知るために、私に死なれたら困るのだ。


 近頃私が弱って来たのを知り、手を打つことにした。


 命を伸ばし能力を高めさせるため、私に夜伽を経験させるつもりだ。そのための婚姻。


 これまでは私を孤独な状況に置き、強い不安を感じさせたかったので、家庭は持たせない方針であったが、ここ最近の体調不良をかんがみて、命に係わる状態と判断したのではないか。


 筋が通る。


 私は……彼らのオモチャにされたまま、一生を終えるのだろうか?


 ――嫌だ。


 それならば、いっそ。


 朝日が昇る頃には、私は心を決め、ある計画を立てた。


 死か絶望か――……行き着く先はどこだろう。


 どこでもいい。


 ただこうして目的もなく息をしているだけの人生を、滅茶苦茶に壊してしまいたかった。




   * * *




 ふたたび夜が訪れると、美しいアナベラ姫の姿を強く脳裏に思い浮かべた。


 私は生まれて初めて、自らの欲望を叶えるためにこの力を使った。


 ――なぜこれまで自らの意志で力を使わずにいたのか?


 それは、この力を使うことは禁忌であるという、自分でも理由のよく分からない、強い躊躇いがずっと心にあったためだ。


 けれど心が振り切れてしまえば、何もかもがどうでもよくなった。


 精神に作用するこの力は、私の姿形を実際に変化させるには至らないが、相手にそう錯覚させることは可能だ。


 私はアナベラ姫のふりをして、義弟の寝所に潜り込むつもりだった。


 愚か者だと、笑わば笑え。たった一度でいい。私は愛が欲しかった。


 新月が仄かに闇を照らす中、私は愛する人のもとへ向かった。


 ――記憶が揺らぐ――……


 ルシアンは私の腕を掴み、鋭く叱責した。彼が私の腕を引いたので、袖がめくれ、血の気のない白い肌が露出する。以前はどこもかしこも痣だらけだったが、近頃は父や使用人に殴られていないから痕もない。嫁ぐ体に傷をつけては、先方に申し訳ないという配慮だろうか。


「どうしてこんなことを!」


 ああ……悪事が露見してしまった。


 ルシアンの怒りの感情を受け、私は思わず身体を縮こませた。彼の悲しみや苦しみが音の振動のように頭の奥に伝わって来て、精神が共鳴し、頬を涙が伝った。


 ――記憶が揺らぐ――……


 どんなに悔やもうとも、どんなに彼が私を軽蔑しようとも、ふたりが情を交わした事実は消えない。


 私の露わになった肩から腕にかけて、内出血の痕が散っている。愛を交わした際に義弟がつけたその刻印は、奇妙な満足感を私にもたらした。


 これは神の教えに背く行為だ。


 そして義弟からすれば、禁忌を犯す価値もない無益な行為だった。そこに愛はないのだから。


 言っても詮無い話であるが、隣国では、腹違いならば、近親婚は認められるのだという。


 ――国境をまたぐだけで、神はこの行為を許してくださるのか。


 それは不思議な感覚だった。


 私と彼が踏み越えた決定的な一線は、場所を移せどもなんら変わりはないと思うのだが……。


 不意に場の空気が乱れた。


 寝室にアナベラ姫が押し入って来る。


 いつの間にか、私は義弟のベッドにひとりで寝ていた。


 彼はどこにもいない。


 小柄な彼女は珍しく取り乱した様子で、何かを声高に叫んでいる。


 ――記憶が揺らぐ――……


 私の全身に赤い斑点が散っている。足元にはアナベラの死体があった。


 彼女は首の頸動脈が切れ、息絶えていた。


 死ん、で、る――……?


 その後、薄れゆく意識の中で、燃え盛る赤い炎を見たような気がする。


 混乱の最中、私は青いローブをかぶった賢者に助けられ、この森深い塔へと連れて来られた。


 ここで私はずっと待っていた。


 ――愛しいあなたが私を殺しにやって来る、その時を。




   * * *




「私を殺すのでしょう?」


 静かに尋ねると、ルシアンは瞳を揺らし、縋るような視線をこちらに向けてきた。


 込み上げる何かを必死でこらえるようにして、私に真摯に語りかける。


「君を助けに来たんだ」


 耳を疑った。


 ……これは、罠? 私をきつく罰したいあまり、込み入った策を巡らせているのだろうか?


 けれど彼が言う。


「思い出してほしい――君の名前は、イネス・ミランドではない」


「……では誰なの?」


 問いは平坦に口から漏れる。


 この時の私は動揺すらしていなかった。だって彼の言い分は、まるで馬鹿馬鹿しい戯言だと思っていたから。


 ルシアンは対面に座る私の小さな手を取り、体温を分け与えるかのようにそっと握り込んだ。


「君の名前は、アナベラ・ガルグール。君は死んでいない――ほら、こうして生きている」


 言葉を理解する前に、感覚がそれを受け入れた。理屈ではなかった。


 彼のぬくもりは、問答無用で私に大きな影響を与えた。


 もう大丈夫なのだと。


 すべてを委ねてよいのだと。


 感覚に訴えてくる。


 耳からぼんやりと熱が広がる。頬に、首筋に、手のひらに。


 知らず涙が零れ落ちた。


 私は――私は、誰? 先ほど彼は、なんと言った?


「だって……だって私は……」


「義姉は精神操作の力を持っていた。絶命の瞬間、君に呪いをかけたんだ。君は自身をイネス・ミランド――僕の義姉であると思い込んでしまった。分かるかい、アナベラ」


「ここはどこなの?」


 不意に聴覚がクリアになる。


 いいえ、聴覚だけではない。突然、私は五感のすべてを取り戻していた。


 懐かしい香り――それはあなたのもの。そしてあなたの手のぬくもりも、私は正確に感じ取れる。


 では……ここで私は誰にかくまわれていたの?


「あの青いローブの賢者は、君を助けた者ではない。君を閉じ込め、監視する者だった」


 ルシアンの説明に、私は戦慄した。


 では、私は妄想の世界に生きていたのだろうか?


「彼の正体は?」


「騎士のロイスだ。君のことを諦められず、攫ってここへ閉じ込めたんだ」


 青いローブは、青い騎士服。


 ……ああ、なんてこと。


 絶命の瞬間イネス・ミランドが私に呪いをかけた時、彼女の能力の一部がこちらに流れ込んだの?


 イネスは自覚していたではないか――夢の中では、『父』が優しいのだと。つまり夢の世界では、一部の事象が反転する。


 ロイスのキツイ性格が、夢の世界では反転し、親切であるかのように私に伝わった。


 あ、いえ、違う――……?


 そうだわ、ロイスが冷たかったのは、『イネス・ミランド』に対してだった。元々私――アナベラ・ガルグールに対して、彼は甘かったのだわ。


「私は、アナベラ・ガルグール」


 呟けば、その名はしっくりと体に馴染んだ。


 すぐそばにある彼の瞳を覗き込む。深い海の色。私を虜にする、深い、深い、青。


「君は表向き、死んだことになっている。情勢は複雑で、君はもう王家に戻ることができない。僕は僕で、姫の死に加担したとして、国家反逆罪で追われている。――それでも僕の手を取るか、アナベラ」


 私は迷うことなく、ルシアンの手を握り返した。


 胸が痛んだ。それは甘やかな歓喜の痛みだった。


 彼を愛している――心の底から愛している。


 彼の義姉イネス・ミランドも、真実、彼を愛していたのだろう。


 そしてそれは私――アナベラ・ガルグールも同じ。


 この抑えがたい衝動は、イネス・ミランドが植えつけた、偽りの記憶が影響しているわけではない。


 私自身がルシアンを深く愛していたからこそ、イネスの呪いに共鳴したのだ。


 彼が求めるならば、たとえ行き着く先が地獄であっても、ともに堕ちるつもりだった。


「あなたにどこまでも付いていく。二度と離れない」




   * * *




 僕の名前はルシアン・ミランド。


 七つのとき、母の再婚をきっかけにミランド卿に引き取られた。


 当時から、三つ上の義姉はひどい虐待を受けていた。


 僕はそれが不思議で仕方なかった。美しくて魅力的な女の子なのに、なぜ父は彼女を疎むのだろうかと。


 銀色の髪は月の女神のようで、紫の瞳は強さと清廉さを併せ持っている。


 消えてしまいそうに儚げな姿をしているのに、虐げられているはずの彼女は、驚くほどしたたかだった。


 ある日八つ当たり気味に父が、


「お前はいつだって私を苛立たせる」


 と言った時、彼女がこっそりと呟いたのを僕は聞いた。


「あなたが平静さを取り戻すのは、きっと息を引き取る時でしょうね」


 この状況でなお憎まれ口を叩ける精神の強さに、感動に似た何かを覚えた。


 それからの僕は暇さえあれば、義姉と過ごすようにした。


 彼女のそばにいるのは心地が良い。


 彼女の顔を見るのが、僕の幸せだった。


 ある日――暴力的な使用人から逃れ、屋根裏の暗がりでふたり、身を寄せ合っていた時のことだ。


 僕はこのところ自らの身に起きている、不思議な現象について話して聞かせた。


「嫌なことが起こると、遠くの大地が啼(な)くんだ」


 義姉はこれを陽気に笑い飛ばすかと思われた。たぶん……僕はそれを望んでいた。


 ただの思いすごしよ――そんなふうに笑い話で片づけてほしかった。


 けれど彼女はハッとした様子で、驚くほど真剣な眼差しを僕に向け、こう言ったのだ。


「ああ、なんてこと……じゃあ、あなたは、私と半分血が繋がっているんだわ」


「どういうこと?」


 思わず眉根が寄る。僕と義姉に血の繋がりはないはず。


「それは魔力の発露なのよ。だけどそのことは、決して誰にも言わないで。――もちろん父は、あなたが血の繋がった実子であることを知っているのでしょう。けれど、あなたが強い魔力を持っていることまでは把握していないはず。だから隠し通すの。分かった?」


 義姉がいつになく鬼気迫る調子で訴えるもので、僕は頷くことしかできなかった。


 そんな僕をイネスは優しく抱きしめてくれた。


「可哀想に。私が絶対にあなたを護るわ」


 当時の幼かった僕には、彼女が何を案じていたのか、きちんと理解できなかった。


 ただ、愛しい彼女が望むのなら、そのとおりにしようと思っただけで。


 しかし日々の積み重ねの中で、僕は真実に近づいていく。


 イネスは『夢見の魔女』として、王家から遣わされた者から度々聴取を受けていた。


 彼らが求める情報は、義姉が見る、隣国にまつわる夢についてだった。


 だから彼女には先見の力があるのだと、当時の僕は考えていた。


 けれどそれは大きな間違いだった。


 ある日屋敷に賊が侵入し、イネスと僕が殺されかけるという、恐ろしい事件が起こった。実際に目の前で使用人も殺害され、阿鼻叫喚の地獄絵図を目の当たりにした僕らは、精神が壊れかけた。


 義姉と手を繋いでいた僕は、どこか遠くのほうで大地が啼くのを感じた。


 その直後、隣国で大きな災害が起こる。


 それで悟った。


 ――これは夢見ではない。姉と僕は、隣国の地母神と繋がっている。


 僕たちが怖い思いをすると、隣国の大地が共鳴し、荒れる。


 この国は隣国の情勢を乱すために、女神の子孫たる義姉を利用してきたのだ――長いあいだ、ずっと。


 父にもこの能力があるはずだが、彼はとても狡猾だった。


 自らの娘を『道具』扱いして、薄情にもイネスを切り捨てたのだ。


 情が移らぬよう、もの扱いをし続けて。


 この国の経済を安定させたいという、実に下らない理由で、ここぞというタイミングで姉をいたぶり、殺さぬ程度に恐怖を与える。すると隣国は不運に見舞われる。


 シーソーゲームのように、あちらが落ちれば、こちらが上がる。


 元々隣国は、地母神の加護を受けた、豊かで強大な国だった。


 だから魔力を持った王族が恐ろしい目に遭うこともなかったのか、この因果関係に気づくことなく、迂闊にもその血筋を引く者を、国外に出してしまったのだろう。


 それが不幸の始まりである。


 義姉はずっと義弟に対する想いを、いけないことだと考えていたようだ。


 神様だって、近親婚を認めてはいないのだから、と。


 僕からすれば、国境を超える程度で変わる倫理観など、まるで意味を持たないと思っていたのだが、愛しい彼女が罪悪感に苛まれるならば、決して無理強いはすまいと心に誓っていた。


 ところが。


 愚かな父が、義姉に婚約者をあてがった、あの日――


 激高した僕は、いけないと思いつつもイネスを責めた。


「絶対に許さない――彼のものになると言うのなら、ロイスを殺してやる」


 義姉の肌にほかの男が触れるのは、絶対に許容できない。


 僕の激情にあてられ、義姉は倒れた。そのせいで記憶が混濁したらしい。


 昔は気丈だった姉も、恐ろしい現実から逃れて度々夢の世界に潜るうちに、すっかり現実と夢の境界が曖昧になり、最近ではぼんやりすることが多くなっていた。


 けれどどんなに変わろうとも、僕の愛は変わらない。


 このところ体調が悪そうだった彼女は、やつれていてもなお美しかった。


 ロイスが初対面でわざわざイネスを罵ったのは、アナベラ姫に懸想していたからというよりは、彼の歪んだ性癖によるものと思われた。


 彼は女を罵り、自らの支配下に置くのが好きなのだ。


 その証拠に、ロイスの瞳には昏い情念が燃えていた。その仄昏い視線で義姉をじっと眺めていたことに、僕はすぐ気づいた。


 それからは地獄の日々だった。まるで針山の上を歩かされているようで。


 僕とイネスは精神の均衡を保つことに、神経をすり減らさなければならなかった。


 一歩対処を間違えれば、僕らの精神と繋がった、隣国の大地が荒れ狂ってしまう。


 そんな訳で、姉は限界に達していたのだと思う。


 よりによって、小賢しいアナベラ・ガルグールの姿を模して、寝所に潜り込んできたのだから。


 精神操作の力は禁忌として、なるべく使わないようにしてきた姉が、こんな下らないことにそれを使うだなんて。


 僕に対してこの手の精神作用を試みたとて、通用するはずもないのに。なぜなら僕自身も精神作用の力を持っているから、用心していれば、ほころびを見つけ出せる。


 それでもしっかりと影響は受けるので、姉にアナベラの姿を取られると、イネス本来の美しい像がぶれてしまい不快だった。


 さらにいえば、姉の間違った認識――僕がアナベラに夢中だという勘違いは、許しがたいことであった。


「どうしてこんなことを!」


 義姉の記憶では、事後に僕が行為を咎め、怒った――そう誤って記憶していたようだが、それは違う。


 激高し押さえつけた、彼女の真っ白な穢れなき腕――それはことに及ぶ前に、僕が彼女の偽装を見破った事実を示している。


 事後、彼女の腕には、僕がつけた赤い痕がついていたのだから。


 僕は義姉のイネスと交わることを拒絶したのではない。


 義姉がよりによってアナベラの姿を模したから、そのことに怒りを覚えたのだ。


 僕とイネスはあの夜、深く繋がった。


 それはとても幸せな時間だった。


 しかしあの甘い一時さえも、父が仕かけた罠だったのだ。


 あの日父は王家の命令を受け、隣国の情勢を大きく乱す必要に駆られていた。


 父は義姉をたきつけ、僕らを結びつけておき、一方ではアナベラ・ガルグールを屋敷に招き入れて、ひと悶着起こしてやろうと考えていたらしい。


 僕は裏でそんな奸計が張り巡らされていたとも知らず、幸せそうにまどろむイネスを寝台に残し、彼女のために温かい飲みものを用意しようと、部屋をあとにした。


 この隙を狙って、恥知らずにも寝室に乱入したアナベラは、ペーパーナイフを手にして、義姉を刺そうとしたようだ。


 ――ここから先は僕の推測になるのだが、生命の危機を感じた義姉は、とっさに精神操作の力を使った。


 アナベラは錯乱し、大きな鏡に向かって突進し、その結果、割れた鏡が首に突き刺さって死んでしまった。


 これにより自らの行いを責めた義姉は、夢の世界へと逃げた。


 アナベラの護衛として当家に付いて来ていた騎士ロイスは、姫の死を知ると、すぐさま義姉の身柄の確保にかかった。この手際は、敵ながら鮮やかであったと認めざるをえない。


 事件のショックでイネスが内に閉じこもり、夢の世界に逃げてしまったので、僕は彼女の気配を追うことができなくなってしまった。


 僕は焦りを覚えた。


 どうかお願いだ――僕の名前を呼んでくれ。


 僕のことを思い浮かべてくれ。


 一度だけでいい――それを辿って、必ず君のところへ辿り着く。


 彼女が夢の中で僕の名を呼んだのは、愛ゆえだったと思う。


 そうして僕は、イネスと無事再会を果たすことが叶った。


 彼女はずっと近親婚に罪悪感を抱いていた。


 加えて、アナベラの死について、自らを苛んでいる。


 彼女を楽にしてやるためには、記憶の上書きしか方法がなかった。


 僕は対面に座り魔力を練りながら、義姉に語りかけた。


 言葉のひとつひとつが、彼女の脳に染みていく。


 義姉も自身がイネスであるという現実から解放されたいと願っていたから、すぐに洗脳を受け入れた。




   * * *




「君の名前はアナベラ・ガルグール」


 そう語りかける僕の両手は、血に塗れている。


 愛しいイネスを隠したロイスは、発見次第すぐに斬って捨てた。


 彼女の夢に出て来たあの鷹は、誰あろう、ガルグール王。


 天神をあがめるこの国で、鷹は世界を統べる者の象徴である。


 この扉の外――奥の部屋には、ガルグール王の遺骸が横たわっている。


 王は重要な情報を得るため、王城を抜け出して、イネスを隠したこの隠遁場所にしばらく逗留していたのだ。


 もちろん彼は多くの護衛を連れていた。しかし護衛らの目を眩ませ、ここへ入り込むのは、僕にとっては簡単な仕事だった。


 人の認識を歪められるのだから、自らの姿を見えなくするのも容易い。




   * * *


 


 これまでは僕も姉同様、この力を行使することに、心理的な躊躇いを抱いていた。


 これを使っていれば、きっともっと楽に生きられたに違いないが、僕ら姉弟にとって、この力は禁忌そのものだった。


 その心理的制約はもしかすると、力が大きすぎるがゆえの、安全装置の役割を果たしていたのかもしれない。


 しかし安全や道理など、こうなってはもはやどうでもよいことだった。


 ――持てる力すべてを注ぎ込み、姉を救い出す。


 今夜すべてを終わらせるのだと、心に誓いながら。


 あの夜――アナベラ・ガルグールの遺骸を燃やすため、僕は父の屋敷に火を放った。


 父もこの手で殺し、その場に捨て置いた。


 義姉のいない屋敷など、僕にとってはなんの価値もない。


 義姉のいない世界など、僕にとってはなんの価値もない。


「……目を閉じて、アナベラ」


 彼女をもう「イネス」と呼べないことに、寂しさを覚えた。


 僕の愛しい人は、これから「アナベラ」という新たな名を得て、生まれ変わる。


 そう――行き着く先は、隣国がいい。


 そこでふたり身を寄せ合い、今度こそ誰にも邪魔されずに生きるのだ。


 僕と義姉は今日この国を捨てる。


 こんな国など、滅んでしまえばいい。



   * * *


 私を殺しに来た男(終)


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