婚約者が真実の愛を見つけたらしいので、家を出ます


 二度あることは三度ある――私はそんなことを考えていました。


 婚約者のスタンがやらかすのは、これで『二度目』です。


 これで終わるとは思えません。今後も『三度目』『四度目』『五度目』……と延々に裏切りが続くのではないでしょうか。


 それに今回、二度目の現場がよりによって、私の家であるペイリン伯爵邸だった――このことが私を打ちのめしました。いくらなんでもひどくないでしょうか。


 当家の書斎で、しかもソファの上だなんて……あのソファの張り地はあとで全部張替えてもらいましょう。もう座りたくありません。


 ソファの上で半裸になり絡み合っている男女は、上がスタンで、下は侍女のウェンディ。ああ、ウェンディ……どうして。


 ウェンディはハキハキものを言う赤毛の活発な女性で、私は好ましく思っていました。親近感を抱いたのは、年も互いに十八歳で同じだったというのもあります。


 ウェンディはよく「私ってサバサバ系なんですよね」と言っていましたが、本物のサバサバ系女子ならば、仕えている令嬢の婚約者とソファの上で絡み合ったりしないと思うのですが……。


 物音に気づいたらしい彼がハッと顔を上げ、こちらと視線が絡むと、ピキリと固まりました。すっかり青褪めています。


 よかった、『まずいことをした』という自覚はあるのですね。


 彼が服を整え上半身を起こしながらモゴモゴと口を開きます。


「ち、違うんだ、エルシー」


「何が違うのでしょうか。私はまだ何も言っておりませんが」


「だが『この男、浮気したな』という目で見てくるじゃないか!」


 おかしなことをおっしゃいます。


「だって浮気ですよね。しかも一年前に子爵令嬢と浮気をしているので、これで二度目かと」


「まぁ二度目だけれども」


 あ、認めましたね……。


 スタンの家は同格の伯爵位なのですが、あちらはうちと違ってものすごくお金持ち。おまけにスタンは顔も良く、派手好きなお調子者――とくれば、女性にモテるのも分かります。


 けれど実際にアレコレつまみ食いするかどうかは、結局本人次第だと思うのです。


 彼は見た目も中身も浮ついています。


 こんな人と結婚しなければならないの……何もかもが嫌になり、力が抜けそう。


 少しフラついてしまったのですが、私のかたわらに立っていた護衛騎士のウィルフレッドが、そっと背中に手を当てて支えてくれました。


「――お嬢様、場所を移しましょう。屈辱を感じる状況に長く留まらないほうがいい」


 どしゃ降りの雨のような気持ちでしたが、ウィルフレッドにそう言われると、空の向こうのほうが晴れてきたのを見たような、不思議な心地になりました。


 ウィルフレッドは私の五つ上でまだ二十代前半なのに、言動が大人です。


「……ありがとう」


「いえ」


 そのやり取りを見て、スタンが声を荒げます……半裸でソファに腰かけたまま。


「おい、そこの護衛騎士、お前は平民だろう! エルシーの背中に気安く手を触れるなんて、身の程を知らないやつだ!」


 聞いていた私は嫌な気持ちになりました。


 確かにウィルフレッドは平民ですが、私は彼の人柄を尊敬しています。きっちり仕事をするし、寡黙なようでいて、人の痛みが分かる方だと思います。


 背中に触れたとスタンは怒っていますが、ウィルフレッドは私がよろけたから支えただけです。それなのに、彼に失礼だわ。


 私が口を開く前に、ウィルフレッドがスタンに尋ねました。


「平民が貴族に触れるのがそんなに不快ですか? ならばスタン様はどうなのです」


「なんだと?」


「そこにいる侍女のウェンディも平民では?」


 ウェンディはウィルフレッドに名前を呼ばれた瞬間、ぽうっと頬を赤らめました。


 これまで彼女は半裸のまま身なりをさして直していなかったのですが(堂々としたものです)、ウィルフレッドをチラリと見てから、いそいそと髪を手ぐしで整え始めました。


 いえあのウェンディ……それよりまず、はだけた襟元のボタンを留めてくださいませ……。


「う、ウェンディは特別! 私のすべてに触れていいんだ!」


 スタンがカンカンになってそう叫んだので、さすがに私も黙っていられませんでした。


「いえ、婚約もしていない他人同士、絶対によくないですよ? スタン様」


「………………」


 地獄の空気が流れたように思います。


 私はため息を吐き、シャンと背筋を伸ばして彼らに告げました。


「――十五分後、応接室でお話しましょう。ウェンディさんもご一緒に。服はちゃんと着て現れてください」


 静かに告げ、踵を返します。ウィルフレッドが付いてきてくれるのが心強く、それだけが支えでした。




   * * *




 廊下を歩きながらウィルフレッドが落ち着いた声音で気遣ってくれました。


「――お嬢様、大丈夫ですか?」


 私はピタリと足を止め。


 大丈夫なわけない……そう思いました。


 私は人から『しっかりしている』『淑女らしい』と言われます。でも、そんなことない――そんなことないのです。


 俯いた私は手のひらで顔を覆い、ウィルフレッドに泣きごとを言いました。


「スタンと結婚したくない……私、出会った時から彼が苦手だったの。彼は一見女性に優しいけれど、誠意がまったくなくて……付いていけない」


「今回の件を問題にして、婚約破棄はできないのですか?」


「彼の家は大金持ちで、当家は経済的に困窮している。私の父は絶対にこの縁談を纏めるつもりよ。スタンに問題があるほうが父には好都合なの、私を我慢させて嫁(とつ)がせることで、相手の家に恩を売れるから。……あなたを……護衛騎士を私に付けたのも、私を護るためじゃなくて、入籍前に家出させないため。私、貴族の家になんて生まれたくなかった……」


 少し前に聖女キャサリンが大聖堂から姿をくらますという事件が起こり、大騒ぎになりました。駆け落ちだとか、聖女のお務めがつらくて逃げ出しただとか、色々な噂が飛び交いましたが、行方が掴めないので、真相は藪(やぶ)の中。


 他人事とはいえ父はそれを聞いて用心深くなり、私に見張りを付けることにしたのです。それまでは護衛騎士など付けていなかったのに。


 スタンの浮気癖は父も知っているし、なんなら『もっとやれ』という気持ちでしょう。結婚後もアレコレあちらの家におねだりする際に、『娘は彼の浮気で傷ついたけど、嫁になってあげた』と交渉材料にできますもの。


 こちらから婚約破棄なんてとんでもない――……父にそんなまともな倫理観があるなら、娘が逃げないように護衛騎士を雇ったりしない。そもそもスタンと縁談を纏めたりしない。


 唯一のチャンスはスタン側から婚約破棄してもらうこと。けれどスタンがそうしてくれるかどうか……。


「それなら護衛騎士の私が協力すれば、逃げることができます。あなたが貴族の生活に未練がないのなら、それを捨ててしまえば、まったく違う未来がある」


 え……? びっくりして顔を上げると、ウィルフレッドが覚悟を決めた顔でこちらを見つめていました。


 顔に熱が集まるのが分かりました。


 彼の青い瞳はサファイアのように美しく澄んでいて、見つめられると時間が止まったような錯覚を覚えます。彼の艶やかな黒髪も、清潔感があって好ましい――ウィルフレッドはとても素敵な方です。


 だけど素敵な方だからこそ、前途有望な彼は、後ろ暗いことに関わってはいけない……。


 私はとうとう泣き出してしまいました。


「いけないわ、ウィルフレッド……あなた、やっと念願の騎士団に入れると言っていたじゃない。私をこの屋敷から逃がしたら、父は絶対にあなたを許さない。あなたは騎士団に入れなくなる」


「かまいません」


「私はかまうわ。絶対にだめ」


「では――今だけ触れるのをお許しください」


 ウィルフレッドがそっと抱き寄せてくれ、私は彼の胸の中で泣きました。




   * * *




 十五分後、応接室。


「真実の愛を見つけたんだ」


 スタンは隣席に座る侍女ウェンディの手を握り、奇妙なことを訴え始めました。


 言い訳が始まるかと思っていたので、開き直られて目が点です。


 壁際に控えている護衛騎士のウィルフレッドから殺気が漏れ出しています。


 私は額を押さえ、眉根を寄せながら尋ねました。


「ええと、では……私と婚約破棄してくださいますのね?」


 伯爵子息である彼が、平民の侍女ウェンディと結婚できるとは到底思えないのですが、それはスタンがクリアすべき課題なので、まず私と縁を切ってから、次のステージに進んでいただきたいです。


「それはできない」


「……はぁ?」


 迷路に嵌まり込んだ心地です……一体どういうことでしょう?


 彼が前のめりになって訴えてきます。


「浮気は今回、二度目で最後にする! 僕はウェンディと情を交わし、真実の愛を見つけたから、彼女以外もうつまみ食いはしない!」


 えええ? あなた、何を言っていますの?


「あの、でしたら私と婚約破棄を――」


「だからそれはできない! 君とは別れない!」


 なぜそんなに真っ直ぐ恥ずかしげもなく私のことを見られるのですか。どういう神経をしているのですか。


 私はウェンディのほうに視線を移しました。


「ウェンディ、あなたは何か言いたいことがないの?」


 ウェンディは赤毛を右手でいじりながら、意外なほどに冷めた口調で言いました。


「私はお嬢様になりたかったです。この家に生まれてさえいれば――お嬢様の顔と身分さえあれば、スタン様と幸せになれた。だって性格と体は完璧なんだもの。でも現状私は平民ですし、そんなに美人でもありません。だから多くは望まないです」


 スタンが頷いてみせ、私の目を見て続けます――一切、悪びれることなく!


「僕はエルシー、君の顔が好きだ!」


「……は?」


「ウェンディの性格と体、そして君の顔と家柄――体はまだ味わっていないから分からないので今は含めない――ふたりともそれぞれ好きだ! 君が本妻で、ウェンディが愛人枠――三人でハッピーな家庭を築いていこう! 愛人はウェンディのみで僕は自制するから、人間関係はそう複雑にならないはず!」


 いえ、もう十分複雑ですけど……!


「――お引き取りください、スタン様」


 自分でもびっくりするくらい冷たい声が出ました。ゴキブリに対するほうが、もっと温かみのある声音になるかもしれません。


「エルシー! どうかYESと言ってくれ!」


「言うわけないでしょ、お引き取りください」


 促してもスタンが席を立たないので、私が立ちました。もう我慢の限界!


「では私がこの部屋から出て行きます」


 護衛騎士のウィルフレッドが罪人を眺める目つきでスタンを見据えています。


 それに気づき、私はちょっとヒヤッとしました。




   * * *




 応接室を出た足で、そのまま馬車に乗りました。


 もちろんウィルフレッドも護衛騎士なので、付いて来てくれています。


「少し気晴らしに……町まで出て、通りを歩いてもいいかしら」


 頭が爆発しそうだし、虚しいし、どうしていいか分からないし。


 弱りきって尋ねると、


「もちろんです」


 対面に腰かけたウィルフレッドが優しく肯定してくれて、それがまたなんだか申し訳なくて。


「……ごめんなさい」


 小声で詫びると、彼が物柔らかな視線で私を見返し、


「なぜ謝るのですか?」


「だってこんなの……不謹慎よね。あなたと、その……用もないのに町を歩くなんて」


「お嬢様は真面目ですね」


 ウィルフレッドの言葉は皮肉ではないと分かっているのに、はぁ、と思わずため息が出てしまい。


「こういうところがスタンは気に入らないのかも……彼はウェンディの性格が好きだと言っていたし。ウェンディはもっと気ままだわ」


 それを聞いたウィルフレッドがくすりと笑みを漏らしました。


「私が知らないあいだに、『真面目』は悪い意味に変わったのですか?」


「ウィルフレッド?」


「お嬢様は真面目なところが素敵です――私はそう申し上げています。ウェンディは関係ない」


 サラリと言われ、ドキリとしました。




   * * *




 ブラブラと町歩きをしていると、花売りの子供たちがいました。


 私が彼らをじっと見ているのに気づき、ウィルフレッドが、


「――ひと束買いましょう」


 と言ってくれました。


 私がお金を出すより早く、彼が支払いをして、花束を渡してくれました。


「最後のひと束でした」


 見ると、荷車は空になっていて、子供たちは片づけを始めています。ウィルフレッドが多めにお金を払ったらしく、子供たちの頬が喜びで赤く染まっていました。


「よろしければ、どうぞ」


「ありがとう。綺麗ね」


 私は花束を受け取り、とても幸せな気持ちになりました。


 それから彼の端正な顔を見上げ――……数カ月前、ウィルフレッドが護衛騎士に着任したばかりの頃に起きた出来事を思い出していました。


「あなたは……あの時もお花をくださいました」


「ああ……そうでしたね」


 少し気まずそうな彼。




   * * *




 ――数カ月前のこと。


 教会でお祈りをしたあと、通りを歩いていると、花売りの子供たちを見かけました。


 護衛騎士に着任したばかりのウィルフレッドが隣を歩いていたのですが、彼が私のほうを振り返って言いました。


「お嬢様、申し訳ありませんが、子供たちから花を買ってもよろしいですか?」


「ええ、もちろん」


 私は『夜のデートのためかしら』と想像しました。


 護衛騎士の方は数名いらして、ローテーションで勤務に当たってくださっています。ウィルフレッドは住み込みではなく通いなので、このあとどなたか素敵な女性と食事でもなさるのかも。


 彼が花を買うのを見て、私はくすりと笑みを漏らしてしまいました。


「……お嬢様、すみません、勤務中に花を買いまして」


 真面目なウィルフレッドはすっかり恐縮しています。


 私は笑顔で彼を見上げました。


「気にしないで。売り切れてしまうかもしれないものね」


「え?」


 彼はきょとんとしたあとで、


「いえ、売り切れるなら、それでいいのですが……」


「ん?」


 今度は私が戸惑う番です。


 問うように見つめると、彼が困ったように続けました。


「あの子供たち……奉公(ほうこう)で使われているんですよ、大人に」


「そうでしたか……」


「花をすべて売り切らないと、ずっと通りに立っていなければならない。私がひと束買って、今日はこれで帰れたとしても、なんの解決にもなっていないのですが……でもなんとなく放っておけなくて」


 私は足を止め、ウィルフレッドの瞳をじっと見上げました。


 なんだか泣きなくなるような……胸の痛みを覚えながら。


「あなたはとても親切な方ですね」


「……そんなことは」


「私は世間知らずだわ。あなたがデートのために花を買ったんだと思い込んでいたの。……自分の浅はかさが恥ずかしい」


「いえ、お嬢様は親切な方ですよ」


「ウィルフレッド?」


「普通の令嬢は護衛騎士が花を買うと言ったら、『勤務中に何を言っているの、あとにしなさい』と叱りつけます。私はたぶん……お嬢様は叱らないだろうと分かっていて、先ほどお願いしたのです」


 私たちは打ち解けた笑みを交わし合いました。


 そしてウィルフレッドが花束をこちらに差し出し……。


「よろしければ、どうぞ」


「いいのですか?」


「買ったものの、どうしたものかと考えていました。嫌でなければ」


「嬉しいです」


 胸がうずいて……。


 本当に……男性からものをいただいて、こんなに嬉しく思ったのは、初めて。


「すごく嬉しいわ」




   * * *




「私、以前あなたからいただいたお花を大事にとってあるのよ」


 今日プレゼントしていただいた花束を眺めながら、彼に言いました。


「押し花にしたの。とても綺麗で、宝物にしている」


「……それは……嬉しいです」


 普段クールなウィルフレッドが口ごもって照れているのを見て、私はなんだか恥ずかしくなってしまいました。……すごくはしたないことを言ってしまったかしら?


 そうこうするうちに少し薄暗いエリアにさしかかりました。


 通りの端に小テーブルと椅子を置き、ひとりの老婆が背中を丸めてこちらを見つめています。


 目が合うと、老婆が言いました。


「――占いをしてやろうか」


 かたわらのウィルフレッドが、


「占いはしない。だが……」


 言葉を濁しました。


 痩せ細った老婆を見て、彼が気の毒に思っているのが伝わってきました。けれど占いをしないのにお金だけ渡すのは、それはそれでどうかとウィルフレッドは考えているようです。


 私は老婆の顔をじっと見つめました。


 皴だらけで大きなできものができた顔で、こちらを悲しそうに見つめてきます。瞳がとても澄んでいることに気づき、理由はよく分からないものの、私は彼女に心惹かれました。


「占い、お願いしてもよろしいですか?」


「――お嬢様」


 ウィルフレッドは『危険かもしれない』と思ったらしく、硬い声で制止しかけましたが、私は彼を見上げてお願いしました。


「大丈夫よ。あなたも付いていてくださるし、私は占いをしたいの。どうか大目に見て」


「……承知しました」


「じゃあお嬢さん、座って」


 椅子を勧められ、円卓を挟んで老婆と向き合って座りました。


「あの、占いの前に――お名前を伺ってもよろしいですか?」


 尋ねると、


「黒猫」


 そう返されました。


「黒猫さん、ですね」


「手を見せもらえるかい?」


「はい」


 手のひらを差し出すと、黒猫が前かがみになり、そっと覗き込みました。数秒、じっとそのまま固まったあとで。


「――顔」


 黒猫が呟きを漏らしました。


「え?」


「顔を変えれば、すべてが解決する」


 不思議なことを言います。


 私はかたわらに立つウィルフレッドを思わず見上げました。


 ウィルフレッドは眉根を寄せています。


 私は黒猫のほうに視線を戻しました。


「顔、ですか……」


「信じるも信じないもお嬢さん次第だが――いいかい? 少しあたしの話に付き合っとくれ」


 黒猫が皮肉げに口角を上げ、話し始めました。


 悲しい物語を。




   * * *




「大聖堂に、ひとりの聖女がいた――名前はキャサリン」


 黒猫の言葉を聞き、私は息を呑みました。


 聖女キャサリン――少し前に大聖堂を飛び出し、行方不明になっている少女。


 年は二十歳、とても美しい方で、民衆から絶大な人気を誇っています。彼女がいなくなり、今もなお多くの人が心配しているのです。


「キャサリンはある男に付け狙われ、朝も昼も夜も絶えず監視し続けられた。彼女に執着していたのは大司教で、キャサリンは突っ撥ねることができなかった。ある日――沐浴中に大司教に押し倒され、キャサリンはひどい目に遭った。だから彼女は大聖堂の秘宝とされている指輪を盗んで、そこを飛び出したんだ」


「指輪……」


「顔を変えられる指輪さ。キャサリンは自分の顔を醜い老婆のように変え、大聖堂からの追っ手を逃れた」


 私はテーブルの上の黒猫の手を眺めおろしました。


 ――手の甲がとても綺麗――


 つるりとした肌には張りがあります。


 私はハッとして尋ねました。


「指輪は……顔しか変えられないのですね? 体はそのまま?」


「そうだよ」


 キャサリンの愛称のひとつに『キャット』というのがある――それで『黒猫』。


「どうして私に秘密を打ち明けてくださったのですか? 危険があるのに」


「……それはお嬢さんが困っているように見えたからだよ」


「黒猫さん……」


 大聖堂を飛び出しても、彼女は聖女キャサリンのままだ。


 心が美しい。


 私の目から涙がこぼれ落ちました。


「なんでお嬢さんが泣くんだい?」


「聖女キャサリンは多くの人を救ってきました。それなのに……彼女自身が怖い思いをしている時、誰も助けてあげられなかった」


 黒猫がそれを聞き、涙を流しました。


「……お嬢さんが今泣いてくれて、聖女キャサリンは救われたはずさ」


 ふたりは手を取り合い、しばらくそのままでいました。




   * * *




 私とウィルフレッドは黒猫を伴い、屋敷に戻りました。


 呆れたことにまだスタンは当家にいて、私の部屋で侍女のウェンディと過ごしていました。


 ……私が不在の時に部屋に入り込んだの、これが初めてでしょうね?


 服は着ていたのでよかったのですが、こうなると自室の椅子もソファもとっくに汚染されていたのかもと疑ってしまい、気持ちが悪いです……。


 皆でテーブルを囲んで着席しました。


 私、護衛騎士のウィルフレッド、黒猫、婚約者のスタン、侍女のウェンディ――全員で。


 スタンとウェンディは気味悪そうに黒猫を眺めています。けれど私が「どうしても話を聞いてほしい」と強く迫ったので、浮気の負い目がある彼らは渋々従いました。


「ここにいる黒猫さんは、人の顔を変えることができます」


 私が切り出しますと、


「そんな馬鹿な」


 まずスタンが鼻で笑いました。


「黙って聞いてください」


 なんだか腹が立ち、圧をかけました。普段怒らない私にそう言われ、椅子に座り直すスタン。


 私は背筋を伸ばし、スタン、そしてウェンディに告げます。


「スタン様とお別れするため、黒猫さんにお願いして、顔を変えていただくことにしました」


「なんだって!」叫ぶスタン。「絶対だめだ! 君の顔を失うなんて!」


 ……あなた、私の『顔』にしか興味がないんですのね。でもちょうどいいです。


「『私の』顔を変えるとは言っていません」


「は?」


「ウェンディの顔を、私の顔に変えます」


「……は?」


 ふたりが『正気か?』という顔で見てきます。


 私は計画を伝えました。




   * * *




「まずスタン様――現金を用意してください。ウェンディの顔を私の顔に変えてもらう報酬として、一千万トルス必要です。それはこちらの黒猫さんにお支払いください」


「い、一千万トルス?」


 スタンがぎょっとしています。


「かなりの大金だぞ。平民なら一生遊んで暮らせる」


「何をおっしゃいます、それであなた方は一生分の幸せが手に入るんですよ。それにスタン様からすればはした金でしょう」


 女遊びやギャンブルでは一晩でそのくらい使うくせに、こういう時は渋るんですのね……私はつい冷ややかに彼を見てしまいました。


 女性にいい格好をしたがるスタンは慌てて咳払いしました。


「まぁ、いいだろう――どうせ顔を変えるなんて無理だろうし、万が一本当に変えられるなら、払ってやるさ」


「ウェンディはそれでいいですか?」


 次いで、本人にも確認。


 彼女自身が以前、「私はお嬢様になりたかったです。この家に生まれてさえいれば――お嬢様の顔と身分さえあれば、スタン様と幸せになれた。だって性格と体は完璧なんだもの」――そう言っていました。でもあれは本心なのかどうか。


 ウェンディは冷めた目でこちらを見返し、頷きました。


「私は顔が変えられるなんて信じていません。でも本当にお嬢様の顔になれるなら、別にいいですよ」


 これで決まりです!


 私はホッと息を吐きました。


「私の顔に変わったウェンディには、私の地位をそのまま引き継いでもらいます――つまりウェンディはこれから『エルシー・ペイリン伯爵令嬢』として生きていくのです。スタン様はウェンディの性格と体、そして私の顔が好きとのこと――これで理想の女性と結婚できますね」


 父は娘のことを道具としか思っておらず、愛情がないので、性格が変わったかどうかなんて気づきもしないでしょう。けれど万が一気づいたとしても、むしろ入れ替わりを喜ぶのではないでしょうか。


 父は私の潔癖さをずっと問題視していました――『せっかく大金持ちの子息と縁談を結んでやったのに、生意気にも嫌がっているのか?』と。


 だからこそケチな父が娘を結婚前に家出をさせないため護衛騎士を雇ったわけですが、『結婚後』に逃げ出すのも困ると思っているはずです。私が逃げたら、スタンの実家から援助が止まってしまいます。ですから父は『スタン好みの顔だけは今のままで、性格がもっと緩ければな』と夢見ているかもしれません。


 幸い私は社交界にこれまでほとんど顔を出していませんので、知人が極端に少ないのです。そのため性格の違和感から入れ替わりに気づく人もいないでしょう。


 ただ、ウェンディが貴族として上手く振舞えるかどうかは疑問なので、『エルシー・ペイリン伯爵令嬢』の評判がこれから先どうなっていくかは分かりませんが……。


 それもペイリン伯爵家と縁が切れる私には関係のないこと。


 スタンはウェンディが好きなくせに、私との婚約は破棄するつもりがない。そして父も娘の中身・気持ちなどどうでもよく、『スタンの妻』という状態を続けてくれればそれで満足なのですから、これで皆の希望が叶うことになります。


「だが……エルシー、君はどうするんだ?」


 スタンに尋ねられ、


「私は平民になります」


 すがすがしい気持ちで答えました。


「正気か?」スタンがあんぐり口を開けています。「そんな、酔狂な……」


「愛人と三人でハッピーに暮らそう、と提案してきたスタン様にだけは『酔狂』とか言われたくないです」


 冷たく告げると、スタンがシュンと肩を落としました。


「――では一時間後、スタン様、現金をお持ちになってください」


「え! 本当にやるの?」


「冗談であなた方とこんなに長々喋りませんよ。さぁ早く、現金のご用意を!」


 スタンは訝しげな顔をしながら部屋を出て行きました。


 ウェンディはそれを見送ったあと、


「――彼が戻るまで、皆でトランプでもします?」


 と肝の据わったことを言い、黒猫を呆れさせました。




   * * *




 一時間後――。


 私、護衛騎士のウィルフレッド、黒猫の三人は、ペイリン伯爵邸の前で向き合って視線を交わしています。


 皆、晴れ晴れとした顔です。


 先ほど黒猫が見事にウェンディの顔を私の顔に変えてみせ、彼女は報酬の一千万トルスを手に入れました。


「隣国に渡って、この金で商売でも始めるよ。でも――あなたたちに分けなくていいの?」


「いいんです」


 私はにっこりと笑んでみせました。


「母の形見の宝石を持ち出しましたし、これからは自分でお金を稼ごうと思います」


 するとウィルフレッドが複雑そうにこちらを見てきました。


「エルシー……君は働かなくても、私の稼ぎで食べていけますよ」


「私、お仕事をしてみたいのです。幸い読み書きができますから、何か探します」


 ウィルフレッドはそれでもまだ心配そうなので、あとで要相談な空気ですね……。


 ウィルフレッドに手を握られました。


「エルシー、仕事の件はあとで相談するとして、とりあえずうちに来ていただけますね? あなたをひとりにできない」


 確認のような、圧(?)のような……。


 私は頬が熱くなり。


「あの、お邪魔でなければ……」


「邪魔なものですか」


 横手からくすくすと笑い声がして、見ると黒猫がお腹を押さえています。


「はー、久しぶりに笑ったよ。幸せそうな人を見るのって、やっぱりいいな……あたし、自暴自棄になっていたんだなぁ……姿だって何も老婆に変える必要はなかった。年月がたてば、どうせ老いるんだからさ」


「ではまた顔を変えるのですか?」


 黒猫は少し考え、


「――そうだ! ウェンディの顔があたしは気に入ったよ。美人すぎもせず、清潔感があるし、赤毛もいい」


 そう言って指輪をはめた手を顔の前にかざしました。


 手が離れた時、老婆だった顔がウェンディの顔に変わっており。


「どうだい?」


「可愛い」


 心からそう思いました。


 不思議ですが、中身が黒猫だと、ウェンディの顔が優しく清らかに感じられます。なぜでしょう……。


「じゃあ黒猫さん、そろそろ私の顔も変えていただこうかしら」


 ウェンディが私の顔になったので、こちらもこのままというわけにはいきません。


 ところが。


「いけません!」


「だめだよ!」


 ふたりが一斉にだめ出しをしてきました。息がピッタリです。


 まずウィルフレッド。


「そもそも私はウェンディがあなたの顔に変わるのも嫌だった……スタンがあなたの顔をした女性と過ごすなんて悪夢だ……でもそれ以外に方法はなかったし、実際にウェンディがあなたの顔になったのを見て、『まるで別物』と感じたので、それはもういいんです。でも、あなたがあなたでなくなるのは嫌だ」


 次いで黒猫。


「あたしはあなたの顔が好き。優しくて穏やかな性格が滲んでいて、とても良い顔だよ――単純に作りの話だけじゃなく、全部合わせて『あなた』なんだ。変えちゃだめ」


「でも――」


「髪色を変えたら? 今は目立つ金髪だから、茶色とかさ。髪ももっと短くすれば、感じはだいぶ変わる」


「いいですね、そうしましょう」


 ウィルフレッドがすぐに頷きます。


 私は眉尻を下げました。


「……顔が変わるの、ちょっとワクワクしていましたのに」


「だめ!」


「だーめ!」


 結局、黒猫が髪色と髪型を指輪の力で変えてくれました。


 変更後、ふたりとも頬を染めてこちらを見ていましたので、たぶん……新しい髪型は私に良く似合っているのだと思います。




   * * *




 黒猫がさよならする時に、


「手紙を書くよ」


 と言ってくださいました。


 これからお世話になるウィルフレッドの住所を教えておきましたので、定住先が決まったら、黒猫から手紙が届くと思います。


 ――三十分後。


 彼の家に招き入れられ、なんだか照れてしまいました。


 私……男性のひとり暮らしの家にお邪魔するのははじめてです。


「ウィルフレッド……ずっと優しくしてくださって、ありがとうございました。これからは護っていただくだけじゃなくて、自立できるように頑張ります」


 すると。


「あなたは私のことを優しいとおっしゃいますが……幻想を砕くようで申し訳ないのですが、普通に下心もありますし、ガッカリされるかもしれません」


 私はウィルフレッドを見つめ、半歩近寄りました。


「ウィルフレッド、あなたは私のことを、真面目なお嬢様だと思っているかもしれません……でも実は、私にだって普通に下心はあるのです」


 顔が熱くなり、火が出そう。


 恥ずかしいけれど、気持ちを伝えたい――だってあなたにはたくさん助けていただいた。たくさん勇気をいただいた。


「私はあなたが好きです。花売りの子供が早く帰れるように、花束を買ってあげるあなたが好きです」


 心をこめて伝えました。


「その、ですから、ウィルフレッド……これから関係を変えるという意味で、キスをしてもいいですか?」


 ふと気づいたら、彼に抱え込まれていました。


 彼とのキスは……最高にドキドキしましたよ!


 スタンとは一度もしたことがなかったので、未知の連続でした。




   * * *




 一年後、元婚約者のスタンがずいぶんしょんぼりしているという噂を聞きました。


 あのあとスタンとウェンディは結婚したらしいのですが、ウェンディは変わってしまったようなのです。


 彼女はずっと貴族になりたがっていたので、テンションが上がっておかしくなってしまったのでしょうか――はしゃいで男遊びが止まらなくなったらしく。


 そして最近、ウェンディがどこかの男性といたした時に下の病気をもらってしまい、それにスタンも感染して、その後殴り合いの喧嘩になったらしいです。


 真実の愛って一体……。


 それを聞いた時、遠い目になってしまいました。


 ですが彼らは離婚できません。貴族には面倒なしがらみがありますから。


 あのまま家に留まっていたら、彼らと三人で暮らして、私も最低な日常に巻き込まれていたはずです……だからこうして平民になれて、とても幸せだと思いました。




   * * *




 私のほうはその後、ウィルフレッドと一緒に暮らし始めました。


 彼はずっと優しくて、私を護ってくださいます。


 護衛騎士をしてくださっていた時は敬語だったのですが、それがなくなって、なんだかふとした瞬間にドキッとさせられますね……。


「――エルシー、愛している」


 彼はクールで寡黙だと思っていたけれど、私限定で甘々になります……。


 心臓が止まりそうです。


「エルシーは?」


 優しく尋ねられ、私は幸せな気持ちで彼に微笑みかけます。


「――私も愛しています、旦那様」



   * * *


 婚約者が真実の愛を見つけたらしいので、家を出ます(終)

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