隠れたアピール

 名前なんて久しぶりに呼ばれた気がする。

 妻は「アンタ」か「ねぇ」としか呼んでくれない。

 あーでも俺も、「おーい」と「なぁ」って呼んでるから、どっちもどっちか。

 名前呼びって胸が擽ったいというか、嬉しいかも。

 帰ったら、ちゃんと名前で呼ぼう……。

 2階のゲストルームは右と左の通路で分かれている。

 リーナさんの説明だと、右側が俺と透夜の寝室で、左側が戸鞠さんたち。

 常務取締役は、明後日に会議と面接があるそうで、明日の朝には出発する。

 さすがに管理部分が分からないだろうと、リーナさんが夏休みの間は別荘に常駐してくれる。

 右側の扉を開けると、透夜がベッドに寝転んでスマホをいじっていた。


「はぁー……透夜、みんなと色々話とかしたのか?」

「一応」


 八百原さん同様スマホから目線を外さずに、話している。


「まさか、課金してる?」

「ちょっとだけ、ちゃんと母さんから制限付きで許可もらってる」

「あ、そう……あーどんなゲーム?」

「ソシャゲ」

「いや、そうじゃなくてだな」

「八百原さんから紹介してもらったやつ」


 もう初日でそんな、打ち解けたのか……。

 そしてソシャゲ以上の情報は教えてくれないな。


「そっか、もう夜だし、夏休みだからって夜更かししないで早く寝ろよ」

「んー」


 会話ってこんなに続かないものなのか、戸鞠さんだったら色々と話を聞かせてくれるのになぁ……――。







「おはようございます」


 波の音が良く聴こえる……一緒に、声が聞こえた。


「起きてください、与志也さん」


 か細い声に吐息を含ませた呼び方。

 遠くと近くを行き来する感覚に、瞼が動く。


「ん……えっ?!」


 何かがおかしい、体が一気に覚醒して飛び起きる。

 明るい、白に近いクリーム色の壁と木目調の家具が揃う部屋。

 カーテンを全開にして、窓の外から風が撫でてくる。

 ベッドにいる俺を見下ろす、空気のように大人しい萩野間さんがいた。

 真面目な表情を大きく変えず、一礼。


「お、あぁ……お、おはよう萩野間さん、わざわざ起こしに?」

「はい」


 横のベッドは空っぽ。

 あいつ、起こしてくれなかったのか。


「え、てか今何時?」


 スマホを覗くと、8時だ。やばい、あと1時間で準備しないとリモート勤務が……。

 ベッドから急いで起き上がる。

 あ、トランクスとTシャツだ、俺。

 萩野間さんは、顔色を変えずジッと見てくる。


「あ、あの、着替えたら、ご飯食べに行くから……えーと」


 何も言ってくれない。


「萩野間さん?」

「すみません、素敵な体だなって思ってしまいました。またあとで、与志也さん」


 どれだけ名前呼びするんだよ。しかも素敵な体って、中年のおっさんを見て思うことかぁ? ちょっと腹が出てるぞ、俺……。

 正直、悪い気はしないけど、誤解されかねない事案だ。


「素敵……か」


 襟シャツとスーツパンツに着替え、髪も整えて、気持ち的に伊達メガネをかける。

 リビングに向かうと、朝食を食べ終えた少女達と透夜が集まっていた。

 戸鞠さんを膝枕にしてソファに寝転ぶ八百原さん。

 その隣で戸鞠さんにもたれる透夜。

 2人ともスマホをジッと見つめて、ダブルで朝からソシャゲか……。


「おはようございます五十嵐さん」

「おはよう、戸鞠さん」


 戸鞠さんは俺に挨拶をしてくれた。


「おはようございます」


 今度は揃えた挨拶が飛んできた。

 はっきりとした口調で、強気な張りのある顔つきをした少女、確か斎藤さいとう清花きよかさん。

 横に並んで、さっき起こしにきてくれた萩野間さん。

 大人びた雰囲気のある堂野前さん。

 

「おはよう……ごめん、寝過ごしたみたいで」

「9時からリモートなんでしょう? 遅刻してないのならセーフよ。朝ごはん、私達が作ったんですからしっかり食べてください」


 強気な口調で、テーブルに並んだ1人前。

 ご飯とみそ汁、サラダに焼き魚とは、豪華だ。


「え、こんなに作ってくれたの? ありがとう! 凄いじゃん」


 こりゃテンションも上がる。

 嬉しくてはしゃいだ中年を見た少女達は、一瞬沈黙。

 やばい、不穏だ。


「こ、これぐらいで喜ばれても、大したものじゃないわ」

「ふふ、清花ちゃんが一番張り切ってたもんね」

「そうですね」

「ちょっと、余計なこと言わないでくれる!」


 顔を真っ赤にしている斎藤さんの様子を見る限り、悪い反応ではなさそう……危ない、俺は保護者なんだから余裕を持って接さないとな。


「ありがとう斎藤さん、作ってくれただけで十分嬉しいよ」

「そ、そう? ふーん……」


 ねじり編みしたツインテールを指先でいじり、斎藤さんはそっぽを向いてしまった。


「ちなみに清花ちゃんは焼き魚担当でした。舞乙ちゃんはサラダとみそ汁を、ご飯は戸鞠さんが炊いてくれました」


 萩野間さんは……。


「私の手料理が気になります?」


 真面目な表情から変化はなく、か細い声で誘うようなことを言う。

 俺の心を読まれている?


「え、まだ何も」

「五十嵐さんは顔に出やすいですね」

「あ、えー、そうかなぁ」


 さっき名前呼びだったのに。

 席につくと、萩野間さんがお茶を出してくれた。

 グラスをテーブルに置いた流れで、耳元に吐息を含めたか細い声が、


「お昼は私も作りますからね、与志也さん」


 名前を呼んだ。

 ざわざわ、ぞわぞわする。

 感情の起伏がないのに、なんでこんなに……。



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